良さを見つける
どんな人間にだって良さがある。私は立派な物書きとは、良さを見つけることに秀でている者であると考えている。全ての人間に良さはあるが、それの全てを自然に認めることは決して簡単ではない。なんせ良さとは個性の一部である。良さを見つけるには人の個性と真剣に向き合わないといけない。個性と向き合うためには、個に興味を抱く必要がある。個に興味を抱くとは、人間に興味を持つということだ。それは人間を愛することだ。人間全体を愛すれば、自然と個が見えてくる。すると今度は個を見ることでその個性を感じることができる。個性を感じることができれば、息をするようにその個から良さを見出すことができるだろう。人の良さを見つけることが苦手な人は、恐らく人間を充分に愛せていない。もっと人間を敬う必要がある。そうして人に興味を持てば、名前を知らない人が自分の横を通り過ぎただけでも、その人の良さが感じられるほどになると言っても過言ではない。もちろん私も充分にできてはいないのだが、何が大切であるかは知っているつもりだ。人間を愛し敬って常に興味を抱いていれば、私はいつだって物書きでいられるだろう。逆にこれらを忘れてしまったとき、私は物書きではなくなるだろう。何故ならば私にとって物を書くとは、人間を愛するということであるからだ。人間を敬うということであるからだ。その気持ちがなければ文章は生まれない。私はそのように考えている。少し大袈裟かもしれないが、自分は物書きを趣味にする以上、常に全ての人間に対して大きな興味を持ち続けていたいと本気で思っている。そうでもないと人間のことを書けるわけがない。作家の楽しみはそこにこそあると言えるだろう。
文章を書くとは己を表現することであるが、自己分析の多くは他者を見ることで行われる。他者を鏡として己を知る。私は歴史の楽しみもそこにあると考える。だからこそ作家は他者を知る必要があるのだが、本当に知るとは他者について考えるということである。そして考えるとは昔、「かむかふ」と言われていたが、これは元々、交わるという意味である。他者を考えるとは、他者と交わるという意味であるが、交わるとは他者の個性を迎え入れるということだ。他者を迎え入れるとはその者の良さを見つけるということだろう。物を考えない作家はいないだろうが、重要なことは、本当に考えるという行為は個性の発見であり、自分に嘘偽りなく常日頃から個と交われているかということだ。そして他者の個を迎え入れたとき、作家の筆は止まることを知らなくなる。なんせ世界中に筆を連ねるための希望が溢れているのだから、自分は執筆を続けることに未来永劫、喜びの感情を見出すだろう。別にこれは作家に限った話ではない。人の良さを見つけることができる心の眼が発達すれば、何億もの個性と交わって感動をすることが、生きることの喜びとなるはずだ。だからこそ、良さを見つけるとは大切なことなのである。それは大袈裟でなく人生で最も大切なことだろう。
綺麗な心でなくても綺麗な言葉を吐くことはできる。だが例え目の前の言葉が綺麗でない心から生まれた綺麗事であったとしても、その言葉が自分の胸に良く響いた言葉であるならば、きっとそれらは価値のある言葉なのだろう。私はそのような態度で、自分の思想と向き合っている。文章を読むとはきっと、それの繰り返しだろう。