短歌について

私は高校生の頃に短歌をよく作ったのだが、その殆どが三一文字から成る抒情詩を目指したものであった。学生の頃の自分は石川啄木の影響を強く受けていたので、当時に作った短歌を見返せば、その影響を殆どの短歌に見出だすことが可能であろう。

自らの人生で最も短歌を嗜んでいた十代の頃の自分は、短歌を感情を爆発させるための起爆剤として用いていた。あの頃の自分が短歌特有のリズムに寄せていた期待は、きっと花火師の抱くものと類似していたに違いない。私も花火師が夜空に花火を打ち上げるように、もしかすると火薬よりも激しい感情を、自らが生活する世界にぶちまけたかったのだろう。言わばあの頃の私にとって短歌とは花火玉のようなもので、それは自らの感情を充分に詰め込むための入れ物であったのだ。そして自分は思う存分に感情を詰め込むと、それを打ち上げる役目は時の流れに任したのだった。


私は今年になってから幾つかの短歌を作った。それらを以下に載せようと思う。当たり前であるがどれも良い短歌とは言えないであろうが、自分が真面目に作ったことに変わりはない。


一日の半分ほどを働いてふと目に映す曇天の夜


一本のたばこの先に火を着けて目には見えない時を感じる


珈琲を飲んで煙草に火を着けて仕事帰りの思想に耽る


真っ白の紙を言葉で埋めつくし徐々に磨り減る鉛筆の先


桜花減って今度は新緑の葉が揚々と溢れ輝く


私はもう五年ほども前に十代を終えたが、時の流れと共にいつの間にか自らの短歌に対する思いも変わっていたようだ。本年度に自らが創作した短歌を鑑賞してみると、今の自分にとって短歌とは感情を詰め込むための器ではなくて、目の前の自然を鏡とすることで自らの感情を知るための術であると感じられる。これは恐らく私の人生における自らの経験がもたらした変化であろう。この変化とは言うまでもなく、自らの自然に対して尊敬する心、愛と信頼から生じたものである。

今の私にとって短歌とは、自然を介して己を知るための技である。言わばそれは特別な認識であるのだ。そしてこの技には鍛練がいる。何故ならばこの技を駆使するためには、自然を視覚で認識するだけではいけないからだ。要するに心の目が必要であるわけだ。それは自然を鏡として自らの心を知るための目だ。これが今の私にとって、良い短歌を詠むために重要な技巧の一つである。


私は一年に幾つかしか短歌を作らないので、先程に述べたことに自信があるわけでは決してないが、一つだけは自信を持って言えることがある。それは全ての芸術において、それらの種類が決して同一的ではなくても、鍛練された精神から成る特別な目が、全ての芸術において必要であるということだ。これは短歌だけではなくて、全ての芸術に言えることであろう。画家には画家の目が、詩人には詩人の目が必要なのである。もちろん音楽家にも音楽家の目がある。そして言うまでもなく、それは視覚的なものではなくて精神的な技術の一つであるのだから、別に呼び名は目でも耳でも一向に構わないのだ。

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