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稲垣えみ子さんの本から

昨日に引き続き、稲垣えみ子さんの『アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。』のなかから、特に自分の心に響いた部分について書きたいと思う。

稲垣さんは『毎日が投票日かもしれない』(2015年1月3日)というコラムの中で、このように書いている。

~「選挙=民主主義」だとすれば、我々が力を行使できるのはせいぜい数年に一度です。主権者とおだてられながら、なんと空しい存在でしょう。
そんなある日、近所のおしゃれな雑貨店でこんな貼り紙を見たのです。
「お買い物とは、どんな社会に一票を投じるかということ」

買い物=欲を満たす行為だと思っていたけれど、お金という対価を通じて、それを売る人、作る人を支持し、応援するという、いわば投票でもあるのだと気づいたということを綴っています。

買い物に対する概念が変わると、自分の買い物について、「高い」とか「損した」と思うような、そういう気持ちも変わってきますね。

自分も近いことは最近思うようになりましたが、そう言いながらも、時に「あ~、こっちの店のほうが安かったなあ」と思ってしまう時もあります。

欲しいなと思ったものを、どこで買うのか、どんな人から買うのか、どうして欲しいのか、迷ったときは改めて考えてみたいですね。


『わがことであると思うひと』(2014年12月6日)というコラムの中では、稲垣さんが『皇后美智子さまのうた』という本を読んだ感想を書いています。

ショックだったのは、この歌だ。
「知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず」(平成13年)
タリバーンが破壊した石仏を悲しまれたのだろう。驚いたのは「知らずしてわれも撃ちしや」という言葉である。言うまでもなく、我が国の皇室とイスラム原理主義者の行動に関係があるはずもない。それを、もしや自分の問題であるかもしれぬという人とは、いったいどのような方なのか。

両陛下が、苦難に立たされた人々の元へ通い続けていることについても、このように書いています。

「初夏(はつなつ)の光の中に苗木植うるこの子供らに戦(いくさ)あらすな」(平成7年植樹祭)
反戦、と言葉で言うのはたやすい。だが長い平和のときにあって「戦あらすな」という祈りを胸の奥に抱えて暮らすことは、たやすいことではないとおもう。

両陛下があらゆる場所を訪問し続けていることを報道で知るたびに、本当に強い信念を感じていたけれど、「知らずしてわれも撃ちしや」というように、自分の問題でもあるのかもと思いを馳せている句があることを、恥ずかしながら知りませんでした。

いや、どこかで読んだことがあるのかもしれないけれど、その時は心に留まらなかったのかもしれません。

稲垣さんの考察で、美智子さまが抱える心のうちや、両陛下の行動が、自分の心にも改めて問いかけられるような気がしてくるのです。

原発事故にしてもそうだけれど、世の中で問題とされること、批判されていることについて、自分が生きる上で、その問題に加担していることはあるのだと思います。

少しでもそう思うことができる人が増えたのなら、無駄な争いは減らすことができるし、解決できない問題に対しても、問題の一旦を担う自分なりの罪滅ぼしを何かしらしていくことで、自分の心の痛みも、少しは消化していくことができるのかもしれません。


他にも、日常の中で体験しながらなんということなく通り過ぎてしまう日々について、稲垣さんの視点から考えたことを実践したいと思うような記事ばかりが収録されています。

稲垣さんの深い魅力についても、改めて感じさせられる本でした。

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いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。