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正しい証明合戦がもたらすもの

好きな有名人の方が、Twitterで自分への批判などに対して反論したりしているのを見て、以前は「○○さんを支持している人なんて何万人もいるんだから、匿名でしか批判できない奴なんて気にしなくていいのに」と思っていたけど、最近はそう思わなくなりました。

得体の知れない人間から自分に向けて発せられる嘘や誤解の暴言に対して、不愉快だから言い返したいという気持ちは、ファンが何十万人いたり、どれだけ知名度があるかということとは、たぶんあまり関係ないのだろうなあと想像するようになりました。

そこに存在する構図は、ただの「人対人」だと思うんですよね。「自分みたいな匿名の一般人が、こんな有名人に何を言っても大したダメージではないだろう」みたいな気持ちも、言われる相手はダイレクトに一つ一つ受け取れる仕組みが出来上がったことで、今の時代特有の残念な距離感が生まれたのだなあと思います。

腹の立つことを直接言われたら、言い返したくなるのは人として普通の感情だし、言い返す人とそうしない人の違いは、個人の性格や戦略の違いであって、知名度はあまり関係ないのだと思うようになりました。

翻って、ごく一般人同士でも勿論、言葉によって攻撃したりされたりという争いも絶えません。

インターネットというツールは、浸透すればするほど、有名人と一般人の距離感を見誤りやすくなっていくけれど、直接会える人間同士でも同じですね。直接対面したときの距離感をそのまま反映していれば、問題ないのに、直接会ったら言えないような(不愉快な)ことを、うっかり書いてしまうこともあります。

そして、うっかりではなく、不愉快にさせようという確固たる信念を持って書く人もいるわけです。

自分がそういう場面に出くわしたときの対処法としては、情報を完全に排除するのが有効だと思っていました。見ない、聞かない、触れない。自分の気持ちをまっすぐ保つためには、かなり有効だったと思います。

でも、インターネットに触れている時点で、そういうった情報から100%自由になることも難しく、時には不用意に嫌な情報に触れてしまうかも。嫌な気持ちが蘇ってしまうかもしれません。

そんな気持ちになったとき、ちきりんさんのこのツイートを思い出しました。

そう、何かがこじれた時に、「どっちが正しいか合戦」が問題を解決することはあまりないんですよね。自分が、正しくないと思う相手をやりこめようとすることは、おそらくなんの得にもならないようです。

私はいつしか、自分の中に自分の思う正解はあるけれど、そう思わない誰かにそれを押し付けることはやめようと思うようになりました。私が間違っていると思う誰かが、私を非難することも自由です。

ただ、『見ない、聞かない、触れない』は、ある場合において有効だったけれど、そうでないときもあるかもしれません。自分の信念をまっすぐ表明することも大事だなと思うときもあります。これから先も、インターネットを使用する限りどこかでまた遭遇する多種の不愉快なことについて、どうすれば穏やかに暮らせるのかを、まだ自分も考えているところです。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。