短編小説『月と犬』第2話“MY FOOT”
※第1話はこちらから
「たんとお食べ。」
お掃除ロボットがゴミを吸い込んでいく。その横でげんもご飯を食べている。
“二人”とも気持ちのいい食べっぷりだ。
夫婦のボーナスを少しずつ出し合って、新三種の神器の最後のひとつを購入した。犬とお掃除ロボットの共存には相性があるようだが、げんには心配ご無用だったようだ。
新しい家電によってもたらされた時短効果に最初は感動したものだが、人間の生活は慣れるとまた新しいタスクによって圧迫されていく。手間が減ったことは確かだが、時短に関しては期待し過ぎていた感は否めない。10年後には名もなき家事もやってくれる私の代わりが開発されるかしら。
この週末は実家から母が遊びに来ている。
「犬もロボットで良かったんじゃないの?」
母の言葉を気にも留めず、げんはご飯を食べている。
私は母に犬が欲しいとは言い出せなかった子供の頃を思い出す。
「犬型お掃除ロボットとかそのうち出そうだよね。」
私はなんとなく未来の話に舵を切る。
犬型ロボットといえば、発売当時は子供のためのおもちゃのイメージが強かったが、少子高齢化にその役割を拡げ、生き物を飼うことが難しい高齢者に愛されたり、そういった施設でセラピー効果が認められたりするニュースを見て、なるほどなと感心したものだ。ロボットだから怪我や病気がない。が、ロボットだから故障する。メーカーのサポートが切れ、修理をあきらめた老夫婦に愛された犬型ロボットの最期は生きた老犬そのものだった。
息子が小さい時、お世話のできる猫のぬいぐるみが欲しいと言われたことがある。いつか捨てる時にちょっと命っぽさを感じて気が引けてしまうことを考えて買うのを躊躇した。息子のお気に入りのおもちゃですら愛着を持ち過ぎてしまうのに、それが命っぽいと責任を感じる。
“命”との距離感はとても難しい。
「私とお父さんに必要なのは介護ロボットだけどね」
「その頃にはあるかもね」
当分先でしょ。と笑う。
だけどいつか来る未来。
母も歳をとる。私が重ねた歳の分だけ。至極当然なこと。だけど親子においては針の進み方が鈍い気がする。鈍いと錯覚しているのだろうか、それとも鈍くあって欲しいのか。お互いにわかるようでわからないことや、わかるけどわかりたくないことを有耶無耶にしているような気がする。進んだ針が、”祖母になった母”と、”母になった娘"という紛れもない現実を指し示す。
「あなた忙しそうだし、散歩とか大変なんじゃないの? まぁ、そのへん昔からしっかりしてるから大丈夫か。」
“あなたはしっかりしてる"
私はしっかりなんてしていない。
“美月はしっかりしてるから良かったわ”
私は誰かのためにしっかりしてきたんだっけ。
“しっかりしなさい”
ほこりを被った記憶の箱。
私が幼い頃の母は厳しかった。専業主婦となる女性が多い時代に、働く道を選んだ母をもちろん尊敬している。
そんな母に応えるように、背かないように一生懸命だったあの頃。それが私自身のイメージを作り、さらに周囲の人の私のイメージを作る。私はその覆い被さったイメージに合わせなきゃいけなくてなって、どんどん”しっかり”と顔色をうかがうようになっていった。
何層にも上塗りされた膜は本当に私の顔を映しているのだろうか。
奥底に埋もれた本当の私らしさっていったいどこにあるのだろうか。
「まぁ、あなたは何でも決めたらやるってタイプだからあんまり無理しないことね。犬も人間も1日くらい運動しなくたって死にはしないものよ。その証拠にほら、また太っちゃってさぁ。こないだの健康診断だって…」
丸くなる母。
その背中と透けて見える中身から感じる母の変化。
「…でさ、みほちゃんのママは太らないのよねぇ。一緒にウォーキングしてるのになんで私だけこんなに…」
母の若い頃に新三種の神器があれば、私の何かが変わっただろうか。
「あ、お湯沸かしてくれる?」
たまになんだからと母がごはんを用意してくれる間に私はげんと散歩に出る。
「…勝手に歳とらないでほしい。」
『なんだ?時間の経過に伴う心身の変化は成長ではないのか?』
「ある時点からそれを老化と呼ぶのよ」
『ある時点とは?』
「そうね。耳が遠くなったり…あー、その前に懐メロしか聴かなくなったらもう老化かもね。」
『ナツメロ。なんかおいしそうだな。』
「ふふ。食べられないよ。身体の機能が落ちるとかそういうことだけじゃなくて、音楽の好みが狭くなったりさ、新しいものが受け入れられなくなったりするのよ。できないことが増えたら誰だって衰えを感じるじゃない。」
『厳しかった母親が美月に優しくなれたなら、それは成長じゃないか』
「まぁ、そうなんだけどさ…」
母親が用意していた、茄子の味噌汁。私が子供の頃から好きな味。
でも私は最近、SNSで教えてもらった舞茸の味噌汁にハマっている。手軽な割に香りが良いところが好きだ。
母の知らない私の変化。
私の知らない母の変化。
「私らしいって何だろう」
『らしさは、自己と他者の間で揺らぎつづけるものだよ』
「んー、また難しいこと言ってる」
『常に行ったり来たりすることで、ようやく目に見えるものさ』
「誰かに決め付けられたり、押し付けたりするのは嫌よ」
『それが好意だったり期待だったりすることもある』
「そんな都合のいいもの?」
『そんなものでいいんだよ。大事なのは受け取った後に何を考えて何をするかだろう』
「確かにそうかもしれないね。」
他者との関係性の中に気づけばあるもの。
イヤホンをして音楽をかける。スマートフォンがおすすめの曲を教えてくれる。
懐メロにはまだ早い。老いに抗うように色々と聴いてみる。
「あ、この声好きかも。」
私らしくない選曲。案外、悪くないもんだ。
『色んな音楽を聴くことは、色んな本を読むことと一緒だろう?きっと豊かな人間になれる』
「なーに、犬のくせに。あ、犬型ロボットがあったら、げんのらしさも見えるのかな?」
『私の良さが際立つだけだろう』
「ふふ。そうだね。そういうことだね。」
新しい価値観を知ることは、針を鈍くすることに近いのかもしれない。
帰ったら母に舞茸の味噌汁のことを教えてあげよう。
軽快なリズムに合わせて足が進む。げんの尻尾が揺れている。
一人と一匹。踵を鳴らして、揃えた二拍子で今日も歩く。
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