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「カンガルージャーキー」 ep.1

 周りを見渡すと、そこはまるで迷路のように道が入り組んでいた。ただただすべてが白く、俺は諦めたように立ち尽くしている。
 ふと人の気配がして振り返ると、そこには白い壁があるだけで、誰の姿もない。前を向き直すと、誰かが背中に手を置いた。あたたかく、随分と心地がよくて、俺はその迷路の出口を探すことを諦めたようにゆっくりと目を瞑った。

「お前、またこんな所で寝てたのかよ。」
 わき腹を軽く蹴られ、最悪な目覚め方をした。わざとらしくうめきながら横にゴロリと転ぶと、真司はそれを足で食い止め、まさに今転がろうとしていた所に脱ぎ捨てられたTシャツを摘み上げた。
「うわ、くせっ。」
 自分で匂いを嗅いだくせいに、真司はしかめっ面で呆れた目線をこちらに向ける。
「テーブルの上、片付けとけよ。淹れてやるから。」
 そう言い残すと、居酒屋の臭いを再現していたTシャツを二本指で持ち上げたまま、真司は奥の脱衣所に向かった。しばらくすると、ピッという音の後に、水の注がれる音が追いかけてくる。
「ゆうきー」
 促すように名前を呼ばれて、まだ酒の残る身体を嫌々起こす。はいはい、と聞こえないほどに呟き、空になったタバコの箱をくしゃりと潰して、部屋の隅のゴミ箱に投げ入れた。
 空き缶を片付けようと立ち上がると、意に反して足元がふらついた。
 昨晩から早朝にかけての時間を振り返ろうにも、一切記憶がない。停止した頭が、まぶたを下に引っ張る。
 ダメだ、起きなければ。
 空き缶を片付けるのは一旦諦め、自分の部屋へ向かった。いつもよりふかふかに見えるベッドが手招きをしているが、ぐっと堪え、洗濯したまま畳まずに重ねてあった服の山から、適当に下着とシャツを引っ張り出す。何日も洗っていないスウェットを床から拾い上げ、のろのろと全速力で着替えてリビングへ戻ると、いつの間にか開けられたカーテンからの日差しが目に染みる。同時に、リビングから、ふわりと芳しい香りが鼻についた。
「ほらよ。」
 穏やかな顔つきになった真司が、マグカップをテーブルの上にことり、と置いた。片付けるのを諦めたはずの空き缶は、コンビニの袋に纏められていた。
 掛布団と化していたブランケットに座り込み、淹れたてのコーヒーをひと口含む。たまらず、ほっ、と溜息が出る。
 コーヒーを入れるのは、真司の習慣だ。バイト先のカフェで安く手に入るから、とそれでも学生にとっては中々の値段で豆を買い、ハンドドリップで毎朝丁寧に入れる。
「あー、幸せ。」
 そんな事を呟いた俺を見て、真司は満足げに鼻で軽く笑うと、部屋の角に放り投げられていたチノパンを引き寄せ、タバコを取り出した。テレビ台の脇に置いてあった灰皿にも手を伸ばし、テーブルの真ん中に丁寧に置くと、ん、とタバコの箱を目の前に差し出した。
「さんきゅ」
 小さく、頷くくらいに頭を下げて、軽め3ミリのメンソールを抜き取る。肺いっぱいに煙という名の毒を吸い込んで吐き出すと、鼻の奥が痺れた。
 目覚めの感覚が、やっと訪れた。

「なんか食う?」
付けっ放しにしていたテレビから、向こう一週間も快晴だという予報が入ると、真司がタイミングを図ったように聞いた。
「いや、いいや。酒まだ残ってるし。」
了解、と言うと、真司はテーブルの箱からもう一本タバコを取り出して、二杯目のコーヒーを淹れにキッチンに向かった。
「なぁ、今日も快晴、真夏日の気温だって舞ちゃんが言ってるぞ。」
 さっきまでテレビから笑顔を振りまいていたお天気キャスターの言葉を繰り返す。
「お前どうせ夜からしか活動しねぇじゃん。」
 真司はそう言うと、思い出したように換気扇を付ける。
「今日なんか予定あんの?バイト?」
 箱から勝手に抜き取った二本目のタバコに火をつけながら聞いてみると、ううんー、と間延びびした返事が返ってきた。
「じゃ、今日夜飲み行こ。あの立ち飲み屋。えーと、なんだっけ、店の名前。」
 一瞬の空白のあと、ふと真司に目をやると、こっちのテーブルまでもたなくて、流しにタバコの灰を落としいた。
「話聞いてんのかー?」
 真司の神経は完全にドリップに注がれていて、今度は俺が鼻で笑う。
 

 大学に入学し、真司と初めて会ったときには、まさかこいつとルームシェアをするとは思ってもいなかった。

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