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仕事を決めるまで④「戦争を防ぐための仕事がしたい」

「しごとを決めるまで」は、山本ひかりが大学卒業後の進路を決めるまでの話を「どこで」「何を」「どんなふうに」に分けて書いていくマガジンである。
①はこちらから。

今回は「何を」の部分です。


教員という仕事は幼少期からそばにあった。父親は高校の社会科の教員だったし、母親は元幼稚園教諭で、小学校全科の資格も持っていた。幼少期の将来の夢は、絵本作家だった。

進学するにつれ、教員の仕事を考えるようになった。
高校2年の頃に「高校2年生になったあなたへ」というような文章を、日本語科(国語科にあたる)の教員が全校集会で読み上げた。その文章があまりに本気で書かれていて、私は泣きそうになった。こんなに本気で伝えようとしても伝わらないことの方が多いなんて、すごく辛いだろうと思った。
そして、私は教員や教育に関わる大人に対する要求の多い生徒であった。教員であれば生徒の選り好みをせずに一人一人に向き合うべきだと思っていたし、生徒の顔をよくみてその日の状態をわかって欲しかったし、その生徒の持っている傷を把握して欲しいと思っていた。そして、そんなことを要求される教員になんて私は到底なれないと思った。

転機はいくつもある。

一つは、戦争について考えたことだった。高校生のころ、当時付き合っていた恋人と進路について話した時、ふと、徴兵や空爆などが始まったら自分たちの思い描く未来が何もかも実現できないことに気がついたのだった。
「戦争になったらどうする?」
と問うと、恋人は
「二人で亡命する?」
と冗談めかして言った。それから真面目な顔になって、
「おや、おれは家と畑があるから亡命はできない」
と言った。自分の思うような未来を描くためには、まず平和である必要があるんだ、とその時強く感じた。

平和を作るためにはいろんな方法がある。市民団体に所属して、運動をすることも一つの方法だし、それをやっている人を尊敬する。しかし、自分はそれだけをし続けることはできないと思った。

自分の得意なことで、平和を作るための行動をし続けたい。それを仕事にしたい。そこで思いついたのが教員だった。
私が(不十分ではあるとはいえ)自分の頭で考えてものを決める楽しさを知ったのは、教育のおかげだと思った。自分を育ててくれた教員のように、私も自分でモノを考える楽しさを体験できるような授業をできる教員になろうと思った。

もう一つは、高校3年の頃にダライ・ラマ法王の講演を日比谷の野音に聞きに行ったことだった。
「宗教においても、教えについて自分の頭で考えなくてはなりません。鵜呑みにするのではいけません」
と話していたのがとても印象に残った。やっぱり自分の頭で考える人間を増やさないとダメだ、と思った。

そんなふうに、教員になるのもいいかもしれない、と思って高校を出て、浪人し、美大に入学したのだった。


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