やさしくなれなくなってきた

謝れなくなってきたし、人と話始めが被った時に、「あ、ごめん、いいよ」って言えなくなってきた。
電車を降りる時、席に座る時に自分のことしか考えられなくなってきた。

自分に余裕がないのか、
余裕はあるのに周りの人を不幸にさせて、自分だけ幸せになっているみたいな。
でもいつも幸せな訳ではない。
周りを幸せにできない人が、いつも幸せであってはいけないと思う。

幸せだと感じられることが分かって、それに慣れていると、

「うん、こういうところにいけば自然と幸せになるんだよね」、
「こういうところに行けば、自然と幸せだと感じられるんだよね」

みたいに、新鮮だと感じていた幸せが、「この場所に行くと必ずそうなるんだよね」そんな思い込みが私を私自身が優越していく。それが当たり前であると感じてしまう。


だから、その思い込みと異なる状況になった時に、

「あ、今日運悪っ」「ついてない」

って思ったり、開き直ることをする。
あるいは、「今日はここじゃなかったんだなー」「ここはやっぱり違ったかー」「あっちだったかー」とか言って、対象を自分以外にする。


そして全て”経験”として丸くして置いておく。
その丸いものがどんどん溜まって、分類分けされて、固定概念や思い込みとなって、自分は知ってますよ、のように、自然に他人より自分を上にしている。
全て”真面目だから”という言葉で自分を締め付けている。
他人の言葉や意見は大事だということもある。その言葉を優しく包んで優しく置いている。
捨てられなくてそのまま置いたままにしているから、そういう性格になって、それが悪となる時が来る。
こうやって自分の言葉を吐いても、今から人に優しくしよう、なんてことができるほど綺麗な人間ではない。
綺麗な素直な人間になれたらいいが、無理だという思い込みがあるから、それを壊すことは困難だ。

吐いてもスッキリしないということは、自覚しているとおりで、いま自分がいない状態になっているということ。

他人と接して、嫌だ、好きだ、と感情を動かすことができていた3か月前までは、きっとスッキリしていたのだと思う。

人と接する事、人と関わる事の大切さを知った気がする。
嫌いな属性の人、苦手な部分がある人、好きな人、いい人、自分と真逆な人、
自分が知っていたり、好きな範囲ではなくて、苦手だと思う人とも接することで、自分が見えてくると思う。そんな気がする。1か月前まで大規模集団の中にいたから、今そう思うことができている。あの大規模集団で過ごすのは地獄だし、すごい疲れるけど、やっぱり入って良かったなって、今でも学んでいるってことは、自分にとっても凄く大きな存在だったのだと思う。
これは1か月前までの働いていた場所も同じで、自分がこうしたいからこうする!って言って、後押ししてもらったけど、結局自分の中ではとても大きい存在だった。
その時に、自分にとって大事だと感じていても、自分が決めたって、自分優先にして、今少し後悔している。でも、今このことに気が付けているということは、結局良かったし、自分にとっては大きな存在であると気づかされている。多分この先もそう思える時がやってくるのかもしれないと、丸く包んで置いておかずに、くしゃくしゃで開いたままにして捨てて置いておくか、丸く包んで捨てようと思う。
ここまで書いて少しスッキリした。
きっともう少し書いたら完全にスッキリするのかもしれないけど、今はこのままでも良いかもしれない。
分からないけど。

koboreの曲たちは少しでもやさしくなれるよ

って未来の自分に残しておく。

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