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最期の呪い

母が死んだ。
自殺だった。

私がお風呂に入っている間に包丁で首を刺した。

ついさっきまで話していた人間が少し目を離した隙に自ら命を絶っている光景を見るのはなかなかに酷だ。

原因は恐らく私。

母は毒親とは言わないまでも、私のストレスではあった。
彼女は決まって私を操作したがる。
まるでゲームのキャラクターだ。

娘の教育を育成ゲームかなにかと思っていたのではないか。
実際そういうつもりはなくても、私にはそう感じられた。

例えば小学生のこと、リビングの机に塾や通信教育のチラシが並んでいた。
これは友達が通っている塾、それは友達がやってる通信教育。あれ、この塾は聞いたことがないぞ。

そんな風に見ていると母は待っていたかのように「興味あるの?」と聞いてくる。
半分誘導尋問だ。

純粋な私は「うん」と答える。
「この塾はあの子が通ってる。これはあの子がやってる」
得意げに話す私に母は
「お友達と同じのやりたい?」
と言う。

別にやりたいわけではない。
それに私は今のままでも成績は悪くない。
塾や通信教育をする必要性は今のところない。

「やらなっ」
やらなくてもいい、と言いかけた。
しかし母の目は、表情は「やる」を期待していた。

「どーしようかな」
答えを濁す。

お友達とならやってみればいいじゃない!お母さんも応援するから。

なんて背中を押すようで「やれ」と脅しているようなものだ。
捲し立てたりはしない。あくまで優しく諭すように、私が自らやりたがっているというテイに仕向ける。
母の常套手段だ。

「やってみようかな」

いつも私は屈してしまう。

私は部活が好きだ。
バスケに熱中した中学、成績は普通だった。

3年の夏で引退してそれから受験勉強をすれはそれなりの公立高校には進学できるだろう。
超進学校に行くつもりはない。よく言われる“自称進学校”くらいでそこそこの大学を目指せればワタシは満足だ。

「いい大学に行かないと将来ないわよ」
これが母の口癖だった。

いい大学、というのは有名な私立学校や国立大のことらしい。

母は学生時代に親の反対で大学進学を諦めたらしい。
専門学校卒をコンプレックスに思い、と言うと世の専門学校生や卒業生には失礼だが、いわゆる学歴コンプレックスに近い状態で社会人をしてきた。

大卒なのに専門卒の私より仕事ができない、なのに給料は大卒の方が良い。納得できない。
これも母の口癖だ。

母が仕事がてきたかは知らない。
だけど、この発言にコンプレックスの全てが詰まっているように思う。

私には行きたい公立の高校があった。
偏差値は普通、テストで7,80点くらい取れれば内申含めてもまあ受かる。
行事や部活も盛んでバスケ部も都内でそれなりの実力。

だが母は良い顔をしなかった。

「高校で偏差値60以下は苦労するよ」

今懐えば気にすることのない言葉だ。
だって私には思い描く高校生活があった。
部活に打ち込み、行事にも積極的に参加し、高校生活を謳歌したい。

部活や学校生活を進学先の条件として母はあまり認めたくないようだ。

偏差値60を超えるとたしかに進学校として学業のレベルが上がり、その分授業や課題の負担が大きくなる。
それも学生としての正しさの1つにであり、母はそれを望んだ。

私は志望校別のレベルを上げ、その代わりに滑り止めで元の志望校に近い校風の私立を受けた。

結果は私立進学だった。

この結果に母は落胆した。
もしかしたら娘のことを過大に評価していたのかもしれない。

ともあれそれなりに思い描いていた高校生ライフを得ることになった私は公立落ちなんて気にしてはいなかった。
むしろ私立に進学できたことを正解とも思った。

そんな高校生活もあとわずかに差し迫った高校3年生。人生最大の分岐点とも言われる大学受験でまたしても私は同じ失敗をする。

高校受験のときと同じく最初は時分に見合った偏差値と校風の大学を志望校に設定した。
しかし、母は納得をしない。

過去の過ちから何も学ばない親子は同じ轍を踏む。

志望校のレベルを上げると当然求められる学力と労力も上がる。
全ての歯車が狂い私は敢え無く浪人生となった。

浪人中に病み気味になった私は現役のときは受かっていた大学にすら落ち、ギリギリで魅力もあまり感じない大学へと進んだ。

このときの母の落胆は生涯私を苦しめる。

友達の親が羨ましかった。
1番苦しい時期に応援され、失敗を受け入れ、何より私の選択を尊重してほしかった。

大学を期に私は母と距離を置いた。
苦しんてん入学した大学で仮面浪人とか言い出す母にはもう限界だった。

方や彼女はこのことで余計に私を詮索し、口出し、親である自分が娘の逸れた道を正すんだとばかりに熱を帯びた。

そのころには私も成長し、彼女の発言を軽くかわしながらなんとかする術は身につけたはずだった。

しかしその日の夜はひさしぶりに頭に血が上ってしまった。今まで溜め込んだ不満を吐き出すように全てをぶつけた。

私が風呂に逃げる直前、最後に見た母の顔は落胆と悲しみと絶望。
子育てを娘から否定された。

自分が娘のためにしてきたことは全て正しく、娘に感謝されていることだろう。なんていうのは虚像なのだ。

首から血を流し絶命した母を見つけ警察に通報してからは取り調べや諸々で数日間は忙しかった。

出張中の父になんて言えばいいのかもわからなかった。

私は母を恨む。
今までのことはいい。
死んだことに対して恨む。

これは母の最期の抵抗なのかもしれない。

自殺した翌日、私には大事な予定があった。
かねてより私がしたかった仕事についての説明会があった。
そのことは以前母にも話していた。

しかし、彼女が自殺したことで後処理に追われ説明会は欠席。

結局その後も業界との縁はなく別の仕事をしている。
私に実力と熱意があればどうにでもできたのは認めよう。

だけど私には

あの自殺が

母からの最期の鈍いだと思っている。

今でも私の背後には

かつてのように母の亡霊が

私をむしばんでいる。


あぁ、人を呪うなんて容易い。

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