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15歳。UNICORNのライブ1列目。そのはじまりと、結末。

15歳。うっかり取れてしまった、UNICORNの1列目のライブチケットに怯えていた。人生初のロックなライブで、い、いちれつめって・・・!!!と喜びより先に狼狽。その神々しくも恐ろしいチケットを手に、当日まで右往左往し続けるビビりな中学生だった。

会場に入り、座席のかたまりを一列また一列と前へ進むたび、鼓動が胸を突き破ってきそうだった。
ものすごく楽しみなのに、思わず走って逃げ帰りたくなるような気持ちを抱えて。ついに最前列のその席にたどりついてしまったとき、あまりの近さに立ち尽くした。生唾を飲んだ。心と体が打ち震えた。いいのか。こんな間近でいいのか。手を伸ばせばすぐに触れてしまえるステージ・・・! 何物にも邪魔されない広々とした視界・・・! こんな場所で開演まで(開演後こそ)正気でいられるのかわたし・・・!!

そんな贅沢な世界の洗礼を、ヘレン・ケラーのウォーターばりの衝撃で鮮烈に浴びてしまったわたしは。ナマの音楽の無敵の楽しさを、頭のてっぺんから足の先まで、心の芯から脳の髄まで、全心身で大吸収してしまったわたしは。その晩にあっさり将来を決めた。音楽雑誌の編集ライターになる!タミオに取材する!!

あれが、1列目ではなかったら。あんなド正面からの恐ろしいほどの純度の衝撃は受けていなかっただろうか。もはや、生まれたてのヒヨコの刷り込みにも近いのだろうか。よく雷に打たれるとか、電撃が走るとかゆーけど、比喩じゃなく、本当にそれを体感した。マンガのコマでいう集中線が、わたしの視界に閃光とともに、瞬時に降り注いだ。目がかっぴらいた。現実に、わたしの知らないこんな世界があったなんて!!と。

だって、それはずっと、「CD」というパッケージの中だけの世界だったから。それがここに、こんなふうに現実として煌めくなんて。大好きで大好きでたまらなくて朝も晩も聴きまくっていた曲たちが、バンドが、ここにすぐそばに今まさに存在して、鳴らされているなんて。
1曲目、民生さんがステージ袖から飛び出してきたときの瞬間は今も脳の中に焼き付いていて、頭の中で写真のようになっている。伸びかけの髪に、後ろ向きにかぶったキャップ、サングラス、あの口。スエードの茶色のデニム風ジャケットに、adidasのオールスター。靴下はアーガイルだったような。ああ、本当に、何にも邪魔されない、至近距離の視界の偉大さたるや!!あれから何十年も経ってるってゆーのに、いまだ脳内でこんなに鮮明って何事。

最前列でブラを外す。

一応おしゃれして出かけたので、これまた人生初のストラップレスブラなんてものをしていたのだが。そもそもブラの必要性のない胸であり、タテノリ時代だったこともあり、ライブの最中にブラがどんどんズリ落ちるという事態に。腹巻き状態になっていたソレを、ライブ中ステージに背を向け、そそくさと外すという凶行?を、最前列でやってのけたのもいい思い出だ・・。てか、まったくおんなじエピソードを、かのいくえみ綾のコミックの柱かなんかで読んだ記憶がある。わたしのことかと思ってビックリした。

サングラスをしていた民生さんが、最初はどうしても本人に思えず、しかも1曲目がARBのカバーだったからなおさら、歌い始めてもしばらくずっと疑って見ていた。しかし、ライブの1曲目を他人の曲から始めるって。。人を食ってるなあ。いいなあ。当時からのUNICORNの基本姿勢。客を置き去りにして、ライブを自分たちの音楽の実験の場にしている身勝手さがいい。それが、「音楽」に対しての彼らの誠実。サービス過剰な「接待」のほうがウンザリする。ライブは、ミュージシャンが思い切り楽しんでいる自分たちを、そこにさらす場であって欲しいと常に願う。

そそくさとブラを外して向き直ると、民生さんはサングラスを外していた。目元の見える民生さんにやっと実感が湧き上がると(ブラからの解放も手伝ってか)、パッケージの中でしか耳にしていなかった音々がいっそう鮮やかに艶やかにキモチよく響いてきた。
1列目で距離が近すぎて全体が見渡せないのが贅沢な悩みで、当時の日記によると「こっちでEBIくんを見てたら、あっちでアベBが煽ってて、後ろの方で大笑いしている川西さんとテッシーを見逃したりして、目がふたつしかないことがもどかしかった」らしい。俯瞰できれば、もう少し冷静に記憶できてたろうに。
興奮のるつぼにいたわたしは気づけば口がずっと三角∇になっていて、チラリとこちらを見たとおぼしき民生さんが「妙に嬉しそうな顔をしている、それも嬉しい」と言ったとき、わたしのことだ!!!と喜びが爆発した。呼ばれた気がした。勘違い、上等

動機はなんでもいい。決意は一瞬でする。

『動機はなんでもいい。決意は一瞬でする』。それは、何かのコピーで見たのか。誰かの詩だったか、マンガだったか。。覚えていないけれど、わたしの胸に焼き付いていることばだ。
その晩の、UNICORNのライブを1列目で浴びた15歳のわたしが、まさにそうだった。決意を一瞬でした。

活字は幼いときから好きだった。本を読むのも、物語を書くのも好きだった。レコードの歌詞カードを見るのも、国語辞典や百科辞典を見るのも好きだった。
なぜか大声で泣いたりわめいたりができず、悔しさも恥ずかしさも腹立たしさも全部がさめざめとした涙になってしまう子どもだったわたしは、語彙を獲得していくと同時にメソメソしなくなっていった気がする。
ことばが、感情を放つ力をくれたのだ。

音楽ライターという職業があるのを知ったのも、UNICORNに夢中になり始めてからだった。当時はバンドブームに合わせて音楽雑誌なるものも盛り上がりつつあるときで、年1発行の増刊「PATI・PATI  STYLE」を初めて本屋で見たときは、こんな立派な音楽の本があるのかと驚いた。そのやたらアイドルめいた角度の打ち出しには中学生ながら疑問を持ち、「明星」や「平凡」のバンド版みたいだなと思いつつもチェックは欠かさなかった。「PATI・PATI」では、「自分の日記にでも書けよ」と不快になる文章にも頻繁に出くわしたが、ミュージシャン(主にソニー所属)を新鮮な角度で誌面に登場させ、読者がカルチャーに出会うための媒介や刺激としていた「Pee Wee」は大好きだった。ソニー・マガジンズには多大な興味を持った。そういう点では「PATI・PATI 読本」も新鮮だった。歌詞を書く人は、やはりストーリーが書けるのだなあと思った。

どちらも好きにはなれなかった。

当時は音楽雑誌の軟派と硬派の2大巨頭が「PATI・PATI」と「ROCKIN'ON JAPAN」という認識だったが、どっちも好きにはなれなかった。「PATI・PATI」は先述の通り、「JAPAN」は大人の階段へ!と思って手を伸ばしてはみたが、そこは難解な言葉がゴロゴロとした岩場のようで、なかなか進めない。内容がスムーズに入ってこない。『一読ぐらいでは簡単に理解させない』といった指向と、『簡単に理解されない文章が高尚である』といった志向を感じ、そこに読者の淘汰と解せないステータス感を垣間見て、なんとも言えない気分になるだけだった。

中学生の自分が当時、音楽雑誌として単純にいいなと思っていたのは「シンプジャーナル」だった。佐々木美夏さんのUNICORNの記事は今でも取ってある。この本の向こうにいる読者のことがちゃんと見えている記事だと、ちゃんと見てくれている書き手さんだと、中学生時分で強く思っていた。佐々木さんは他の雑誌でも書いていて、その都度心に残る一文があったが、「シンプジャーナル」での記事がいちばん好きだったように思う。
というか、今、懐かしくなってちょっと調べたら、「シンプジャーナル」って『日本の脳死音楽ライター50人』とかいう特集してたの・・・。知らなかった。。アナーキーすぎる。。でも、それこそきらいじゃないな、やっぱり。

お金を払っても出来ないことが、お金を貰いながら出来る!

その後、「音楽雑誌の編集ライターになる」「タミオに取材する」という夢は揺らぐことなく、むしろどんどん強固になって、もはや夢というより目標となって、節目節目のわたしの進路を決定づけた。
なぜかわたしは幼少時から「好きなことを仕事にする」と思っていた。大学も好きな職に就くための通過点でしかなく、その職に就くのに不要なら大学もふつーに行かなくていいと思っていた。
そんなわたしにとっての「音楽雑誌の編集ライター」は、まさに夢の職! だって、ミュージシャンに直接想いを聞くなど、一般的には金を積んでもできないことが、『仕事』としてできてしまうなんて!! なんなら、こっちがお金を払ってお願いしたいくらいのそれを、給料というお金を貰いながら日々できてしまうなんて!!

高3のときソニー・マガジンズに入社を問い合わせたら、採用条件は大卒以上だと言われた。短大でも専門でもいいが、高卒はダメだと。「出ればどこでもいいんですか?」と聞くと、「まあそうですね」と。なので、進学は近所の短大にした。4年も行く気は毛頭なかった。2年でも遠回りだ。そして、マジメに通う気もサラサラなかった。しちめんどくさそーな割にその後の人生にほぼ活かされなさそーな卒論とやらは全力で回避して、卒業単位ぴったりの取得を計算して、代返できるところは級友にお願いして、主にCD屋のバイトと、ライブに行くことと、ライブや音楽つながりでできた友人知人と遊ぶことと、その流れで舞い込んできたソニー支社のフリーペーパー?づくりやら、ラジオ局でのふんわりした活動やらに精を出す2年だった。
当時はとりあえず、ソニーやラジオ局に『出入りしている』ことがたまらなかった。ミュージシャンと直に接している人と、今わたしは接しているんだという喜び。ラジオ局では偶然、CharaやYUKIにも会えたなあ。。

ソニー・エンタテインメントの入社試験には無事落ちた。案の定、学力が足りなさ過ぎた。数学とか本当にちんぷんかんぷんだった。ソニー支社の知人の方々は「正社員で入ってる人なんてほとんどいないから!みんな中途か契約だから!」と笑っていた。ビクター音楽出版は二次くらいまでいったが、これもダメだった。なので、地元の出版社に切り替えた。音楽ページがいい意味でへんな雑誌を発見して即電話。面接に遅刻し、あげく聞かれてもいない改善点を述べて面接官に首をかしげられ、こりゃ落ちたなと思っていたら採用通知が届いた。ふしぎだ。

なれるわけない。できるわけない。難しいよ。無理だって。

そうして雑誌編集部に潜り込んでからも、周囲の人にことあるごとに、わたしはわたしの夢を話した。同僚にも先輩にも上司にもだいたい軽くあしらわれた。仲間たちには次第にウザがられた。また言ってる。ミーハーだな。ハイハイ、わかったわかった、と。
そういや高3のときには、担任にも「編集者になんてなれるわけないだろ~」と鼻で笑われたな。。今思うと、未来への岐路に立つ若者に向かって簡単にそんなことばを吐く人が教師とゆーのが恐ろしいばかりだが、その当時はそう言われたところで何も思わなかった。心の底から、全くなんにも思わなかった。

きっと、言われたことばに傷つくとかムカつくとか、そういう思いになるのは、自分に後ろ暗さのようなものがあるときだろう。自分で自分のソレを信じるということができていれば、他人のことばに動揺などしない。むしろ、しっかりと語ったこともないその担任のような、自分にとって全くどーでもいーひとの一言なんて心にかすりもしない。

思い描くイメージは明確すぎて、ただただ「できる!」としか思っていなかったわたしは、だから周りの人にどれだけ「難しいと思うよ~」「無理だって」といった類のことを言われても、これっぽっちも傷ついたりしなかった。だよね、でもさ、と、構わずアイデアを話していった。こんな取材がしたい、あんな内容を載せたい、こんな音楽の本があれば面白いのに、あんな企画があったら楽しいよね。口に出せば出すほど、夢は広がるばかりだった。

「夢」は大勢で見ると「現実」になる。

夢は、ひとりで見るから夢なんだ、と。
大勢で見れば見るほど、夢は現実に近くなる、と。
そう言ったのは、オノ・ヨーコだったか、吉野朔実だったか。

確かに、多くの人に嬉々として語った「わたしの夢」は、少なからず「みんなの夢」の一端となっていったようで、かけがえのない縁やタイミングに紡がれて、多大で貴重な協力を得て、30歳のときに現実になった。
民生さんの取材の機会が訪れ、その記事を載せた音楽の本が発行に至った。

最前列で将来を決める衝撃を浴びた、UNICORNのライブ。あのステージに立っていた民生さんが、15年後、目の前にいた。
はじまりは、15歳のあの日から。




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