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【読書】『昨日までの世界』[下]⑨【多くの言語を話す】

 言語は、九日にひとつというものすごい速さで地上から姿を消しつつある。
 絶滅危惧種の動植物の現況を記録に残すのが時間との闘いであることと、同様のことが言語のあいだでも起きている。
 しかし、言語が急速に消滅しつつある事実を問題視する声はそれほど大きくない。
 言語というものは、人の思考や会話を独特な形で表現するための手段であり、独自の文学、独自の世界観を独特な形で表現し、伝えることのできる媒体である。
 したがって、多くの言語が消滅すれば、多くの文化遺産が地上から失われるという悲劇に直結する。

言語、方言、複数言語話者

 現在、世界で話されている言語、あるいは近年まで話されていた言語は、約7000ほどである。
 ロシア以西のヨーロッパにおいて母語として話されている言語の数は100に満たない。しかし、アフリカ大陸とインド亜大陸では1000以上の言語が母語として存在している。
 言語の多様性を含んだ地域がある一方、話者数を総計すると世界の人口の3分の1を超えてしまう言語がある。北京語、スペイン語、英語、アラビア語、ヒンディ語、ベンガル語、ポルトガル語、ロシア語、日本語とつづく。

 そもそも、言語と方言の違いは何か、という問題に直面する。しかし、その区別を行おうとすると、もっと大きな問題に直面する。政治的や民俗文化的な要因である。
 スペイン人とイタリア人は、頑張ればお互いの言語が理解できるというが、だれに聞いても、方言ではなく、独立した言語だという。
 逆に、言語形式に非常に大きな地域差が存在し、かつ異なる地域同士では意思疎通がまったく不可能になるにもかかわらず、それらの地域の統一的な政府によって、同じ言語の方言にほかならないと主張される。この場合、意思疎通度といった基準は、口がさけても言えない禁句になっている。
 日本人の間で「LとRで発音が異なる日本語」「男性形と女性形の異なる日本語」があるという話は聞いたことがない。
 しかし「LとRで発音が異なる同一言語」「男性形と女性形と区別がある方言とない方言がある同一言語」があると言い張る人たちがいる。それを当人たちにそれを指摘すると、恐ろしいことになる。当人たちに言語学的に正統な議論を進めようとしても不可能なので、口を拭うしかない。
 宗教以上に、言語というものは非常にデリケートな問題なのである。
 ゆえに、単一言語主義と、二言語あるいはそれ以上のは多言語主義とを、定義上で区別することは難しい。

 さらに問題なのは、たどたどしくしか話せないような言語を使いこなしていると言えるのかどうか、という問題がある。
 意味が通じればいいのではないか、コミュニケーションがとればよいのではないか、と思うかもしれないが、
「我 going from 成田 to 中国 by 飛行機」
という単語を並べるだけで、意味は通じるが、言語ではない。
 このように、意味と意図さえ通じてしまえば意思疎通に問題はないだろう。しかし、それが複数言語話者かと言われると、全く違う。

 後述するが、国家というものは、多言語を犠牲にして単一の言語を意図的にせよ、非意図的にせよ、拡散させるものである。
 一方、小規模の非国家社会では、多言語主義は珍しいものではない。その理由は単純で、人口規模が少なく、狭い地域に集まって暮らしているからである。
 そのような社会では、バイリンガルどころではなく複数言語を操る会話能力が求められる。
 言語が異なる複数の人を相手にしている場合は、使う言語の選択によって誰に話しかけているのか、おのずとわかる。また、暗黙に伝えたい内容によって言語の選択が切り換えられていることもある。
 オーストラリア大陸のアボリジニ、アマゾン川流域の人たち、ニューギニアの小規模社会、こうした事例は、われわれの祖先の時代においても、多言語主義がふつうであり、人々は社会的な生活を通じて複数の言語を習得していたことを示唆している。
 また、近代社会にみられる単一言語主義や、学校教育を通じての多言語主義の推進は、最近の現象であることを示唆している。
 しかし、これも暫定的な総括であり、すべてのケースに当てはまるわけではない。言語的な多様性があまり見られない小規模社会や、言語の拡大が比較的最近みられた小規模社会では、単一言語主義がみられるからである。

 異なる言語を話す人々のあいだでも交流があったにもかかわらず、個別言語として存在している言語がこれほど多くあるには、言語を別れさせる何かが作用している。
 その答えは、時間とともに言語が変容する、ということだ。
 使われていた単語が廃れてしまったり、新しい単語が使われるようになったり、同じ単語のはずなのに、違って発音されるようになったりすることがある。
 そして、方言化が見られるようになってから2000年もの時が経ってしまうと、言語学的には関連性があるといわれるような言語のあいだにおいても、相互理解がほとんど不可能になる。
 方言化から1万年も時間が過ぎてしまうと、派生バリエーション間の関係は、言語学的にも、同一言語に属するとは言えないような程度にまで関連性が薄くなってしまう。

 それでは、複数の言葉を混成して話すことのデメリットとは何か。
 それは、ある言語を話すことで、自分がその言語の話者の集団に属する人間であると、容易に他人に思わせることができる。
 人類史上、いまだに解決されていない問題がある。相手が信用できる人なのかどうかという問題である。
 同じ宗教を信仰していれば信用を得ることが容易であるように、同じ言語を話すことができれば信用が得られやすい。
 そして、人類の歴史において、この区分は今以上に重要であり命にかかわる問題であった時代のほうがはるかに長かった。
 二つの言語をごちゃまぜに話せる場合は、どちらの言語集団とも話は通じるだろうが、自分と同じ言葉を話す人としては受け入れてもらえず、よって身の危険度も高かったのである。

統一言語を広げる国家

 先述したが、国家というもの意図的にせよ、非意図的にせよ、単一言語を拡散させるものである。
 といっても、このことはある程度は仕方のないことである。
 ロゼッタストーンのように三つの言語がまとめて書いてあれば、言語学者にとっては研究がはかどる貴重な資料になる。
 しかし、法律やその他行政文書に三つの言語がまとめて書いてあったら、どうなるか?
 ひとつの書類を作るのに最低でも三倍の時間がかかり(それ以上の時間がかかることは容易に推測できる)、しかも重量も最低でも三倍になる。
 現代社会のようにインターネットどころか紙もなかった時代は、石に刻む、竹簡、木簡で記録していたのである。そんな時代に複数言語で行政文書を作ることを求めるのは無理がある。
 テレビ放送にしても同様のことが起きる。インターネットとIT社会なら、自分の好きな字幕を選べばいいだけだが、つい20年前30年前はインターネットもITも未発達だったのである。テレビの字幕が2倍から3倍の量になってしまったら見づらいことこの上ないし、言語吹替バージョンを放送していたら、飽きるか、先に見た人にネタバレされて迷惑である。
 言語別にチャンネル数を増やせばいいかもしれないが、誰がそれを作るのか、その費用をだれが負担するのかという現実的な問題がある。
 複数言語を勉強しようと思ったら、大いに助かるだろうが、それは今現在の科学技術だから言えることであり、科学技術の未発達な時代にそれを求めるのは、無理がある。

 とはいっても、「効率」あるいは「費用削減」のために単一言語主義を採ったところで、少数言語をなくす必要はない。単に少数派の言語を話す人々が、多数派の言語を学んで二言語話者になればいいだけである。
 そして、それは彼ら自身の問題であり、選択である。
 単一言語がユートピアをもたらすという考えは正しくない。言語の相違は、人々が対立する構図の最大原因ではないからである。
 偏見を持つ人は、どんな違いにも難癖をつけ、他者を嫌悪するものなのである。彼らは、宗教や政治、民族、衣服の違いなど、いかなる違いも感じ取る。
 これはSNSの炎上ぶりを見れば明らかなことである。むしろ、単一言語のほうが厄介なのではないかと思うくらいに。
 人間はだれしも、言語や宗教、民族性、政治信条において異なり得る。それが現実であるとすれば、抑圧や大量虐殺に変わり得る唯一の代替案は、人々が相互に寛容になってともに暮らせる否かにかかっている。
 異なる宗教を信じる人々が平和裏に共存している。同様に言語的に寛容になり、異なる言語を話す人々を受け入れ、折り合いをつけて暮らしていけることに気づいた国も多い。
 そしてそれは、科学技術の発達した現代社会であれば、ますます容易になっている。三つの言語どころか10個の言語を使い六法全書が10倍の分量になったところで、ボタン一つで送信できるし、受信もできる。

多言語主義の利点

実行機能

 二言語を話す子どもも一言語を話す子どもも、言語習得の節目において、習得すべき言語能力を身につけているか否かの言語能力の発達チェックでは、両者の間に差のないことがわかった。
 二言語話者と一言語話者との認知能力の違いについていえば、両者に明確な違いが存在するという結論を示した研究はいまだにない。したがって、一方が他方より賢いとか頭の回転が速いとかいうことは一概には言えない。
 ただし、両者には特定の違いがあるようだ。認知科学では「実行機能」と呼ばれる能力に関する部分である。
 何をするにせよ、感覚情報や知覚情報、思考情報といったものの99%を抑制したうえで、現在遂行中のことに関わる1%の入力情報に注意を向けなければならない。
 その実行機能と呼ばれる働きは、認知制御と呼ばれることもあるが、それは大脳の前頭前野の働きとされている。
 この実行機能のおかげで、選択的に注意を振り向けたり、注意力散漫になることを避けたり、問題解決に集中できたり、取り組む課題を変えたり、言葉や情報を必要な瞬間に脳の記憶中枢から引き出したりできるのである。
 二言語話者や多言語話者には、言語の使用において、実行機能の必要性がつねに存在する。
 問題解決スキルの実験において、全般的な結論は、特定の問題解決については、二言語話者のほうが、すべての年齢層の被験者にいて、比較的優れているというものだ。
 適用されるルールが変わらない課題や、混乱を招くようなヒントが含まれない課題では、二言語話者も一言語話者も、どちらも同様に高い成功率を示したからである。
 人は、誤解を招くような情報や、規則の変更につねにさらされている。

アルツハイマー病の予防

 規則も変われば、混乱もあるという現実社会で生き抜くうえでも、二言語話者のほうが一言語話者よりも有利である、ということかもしれない。
 アルツハイマー病は、精神的にも肉体的にも刺激のある生活を送っている人は、そうでない人に比べ発症が低いという傾向にあるという説が存在する。
 この数年間の興味深い研究のなかに、二言語を長期間話す人生を送ってきた人は、アルツハイマー病を発症しにくいという結論を示唆するものがある。
 それは、頭や体は使わなければダメになる、ということである。
 二言語話者は、目を覚ましている間、脳を余分に動かしつづけているのである。意識しているか否かにかかわらず、彼らの脳は二言語を使い分けるために働きつづけなければならない。
 こうした疑問は、言語学者にとっては理想的な関心事であり、育児法を模索する両親にとっては実際的な関心事である。

人生が豊かになる

 アルツハイマー病に対する予防効果に疑問を感じたとしても、別の言語の知識があれば人生が豊かになれることは、ひとつ以上の言語を流暢に話すことのできる人であればだれもが知っている。
 言語の構造は話者の思考の在り方を形成し、言語が異なれば話者の世界観も思考もおのずと異なる。
 つまり、言語の消滅は、少数派の言語の自由を狭めるだけではなく、多数派の選択肢にも影響をおよぼすということである。
 言語は人間の心のもっとも複雑な産物である。つまり、言語が失われれば、文字や文化、知識の多くも失われることになるのである。
 言語が消滅すれば、そうした民族生物学的な情報の宝庫も消滅してしまうのである。
 もし韓国語が消滅していたら、流行の「韓流ドラマ」がどうなっていたかを考えてみるべきである。好き嫌いがあるのは承知の上だが、まったく別の視点からアプローチするには別の文化のほうが容易である。
 『キングダム』の流行ぶりを考えてみるのもいいだろう。日本人にとってはなじみの薄い歴史、時代、物語は数多くある。全く白紙の状態からストーリーを造るのは困難だが「〇〇神話からヒントを得た」というほうが容易である。
 言語の多様性は、文化の多様性を生む。それは人生を豊かにする。

 外国語を学ぶと人生が豊かになるという以上の、実質的な利得をもたらすことになる。そして、それは、言語の多様性が世界全体にとって是であるか非であるかの問題とは無関係なことなのである。
 言語の存続に必然的に有害なものはない。努力が必要とされるのは、二言語話者になろうとする少数派の言語の話者だけである。
 しかし、その努力に耐えて二言語話者になるか否かの問題でさえ、少数派の話者が自分でどうするか決めればよいだけの話である。

どうすれば言語を守れるか

 第一に、言語学者が今以上に貢献できるはずである。
 第二に、我々が政府に望んで少数派の言語の支援を政策として実施させ、その政策に資金を投じさせようとすることである。
 第三に、少数派の言語の話者が、自分の言語の話者を増やすために自らできることことがたくさんある。
 少数派の言語を積極的に促進する立場を選ばない多数派の話者たちも、少なくとも中立の立場を貫くことができるはずである。少なくとも、彼らに対する弾圧に手を貸さないことができる。
 そして、これを望む動機は、究極的には自己中心的な動機のなせる業なのである。
 極端に貧窮化し、斜陽となり、活力がまったく失われた世界ではなく、豊かで力強い世界を我々の子どもの世代に残したい、という動機である。

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