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私が不登校になった理由、生きることに絶望し8階の屋上から飛び降りようとした中学時代の私

私が中学に入った頃、こんな未来が
訪れようとは考えてもみなかった。

私は胸を弾ませ、中学校に入学しました。
私は極々平凡なおバカな女子中学生で
勉強が大嫌いで、本を読むのも苦痛で
全ての科目が30点台。
友達と『部活何にする?』なんて
たわいもない話をし、
スポーツが苦手な訳でも、
友達がいない訳でもなかったんです。
男勝りな性格もあいまってか、
女子とはなんだかんだ仲良く
やっていました。
でも周りを見渡すと
皆んな親友というものが出来始め
私は誰とでも仲良くできたのに
私には親友がいなかった。
何で、できないんだろうと
当時はもやもやしてました。

でも今考えれば私、
凄く性格がひねくれてたんです。
簡単に言えば凄く性格が悪かった。
人を傷つけてしまうこともあったし、
人の内緒話を他の子にすることもあったし、
嘘をつく事もあった。
プライドもすごい高かった。
もう今考えると過去の自分に会えるのなら
ぶん殴りたいぐらい。
こうなったのも仕方ない。と言われたら
そうですね。としか言えません。

自分を決して庇う訳ではないですが、
両親は私が小さい頃から
共働きで、
仕事から帰ってくる時間が遅く
祖父母に育てられました。
両親に私はあまり
かまってもらえず
かまってほしいとも言えなかった。
だから嘘をついたりすることで
誰かの気を引きたかったんです。

だから、小学生の時はカヤやカッターで
自分でわざと手を切ったりして
『手、怪我しちゃった〜』って言うと
母が心配してくれるから、
小学3年生くらいから
自分で手を切ることも度々ありました。
この頃から構って欲しいってSOSを
だしてたんですよね。
そりゃ、かまってほしいって言わないから
両親もわからないよね。と
今考えればわかるのですが
当時の私はわからなかったんです。

母の父が大工だったこともあり母は
普段は優しいのですが、
おじーの性格を受け継いでいて
気性が荒くキレるとすごい怖くて、、
物は飛んでくるし投げ飛ばされるし。
母が怖すぎて、相談もできなかったかった。
そんなこともあって、気づいたら
この性格が出来上がってました。

話を戻しますね。
中学時代、足だけは速くて、
陸上部の先生からのスカウトもありましたが
結局、部活は吹奏楽部にはいりました。

県大会•九州大会の常連校で
その当時は部員数が100人、
レギュラーに入れるのは50人。
私は昼休み返上で
練習してた甲斐あって
私の楽器パートでは
1年で私だけレギュラーに選ばれました。
2年生になり、3年生が引退した時、
私はパートリーダーになりました。

そして、夏のコンクールに向けて
楽譜を顧問から配られ、
自分のソロパートが
信じられないくらいありました。
その時はじめてきづいたんです。

楽譜が読めない

ことに。
オーケストラのCDを聴いても色んな音が
混じりすぎて、何が何だかわからない。。

何でそんななのに、弾けたの?って
思うかもですが、
同じパートを吹いてる先輩の音を
聴いて覚えてたみたいで、
読める気でいました。
だから、今まで一度も困った事がなかったんです。

当時プライドもエベレスト級に
高かった私は
それに気づいてからも
『楽譜が読めない』ということを
誰にも言えずにいました。
同時期に自分の思った音がだせなくなり、
アンサンブルコンテストでも
ミスの連発。
スランプに陥っていました。
その事を克服しようともせず、
逃げたくなり、
『部活を辞める』と顧問に伝えると
『お願いだから、2週間休みをあげるから
考え直してほしい。』と言われ、
休みをもらいました。
その2週間の間に、気づけばクラスの
やんちゃな子達とつるんで、
お酒を飲んでワイワイやっていました。

それを目撃した母は驚きパニックになり
そのことを顧問に言いに行ったのが
ことのはじまりでした。
そこから私の人生は一変しました。 

この事が起こるまでは母は私の事が
『手のかからない子だと思っていたのよ』
と後になって言っていました。 
だから余計驚いたのでしょう。

その顧問から担任に伝わり
担任もパニックになり
誰彼構わずに言いまくり、
全教師に伝わりました。
全教師の私に対する態度は一変し、
ワイワイやっていた友達は皆呼び出され、
その子達の親も呼び出され、
私も呼ばれ、母も呼ばれ、
『あいつがチクった』と
関係ない子達まで参入し
今で言えば炎上状態になりました。

そこから、学校には、
皆やんちゃだった事もあり、
中にはヤクザの子もいて、
殺されるかもしれないと。
大袈裟なのかもしれませんが
怖くて学校に行けなくなりました。

学校に行けない、殺される。
と両親に言った日、泣いている母の横で
いつも優しい父がはじめて声を荒げました。
『本当に行かないんやな。なら行かんでいいわ。』
すごく突き放されたような感じがしました。

『あっ私って1人なんだ』
とその時思ったのを鮮明に覚えています。

でも祖母だけは優しかったんです。
何も手につかず、
テレビを見てても上の空。

無気力になった私の横で、
学校に行かなくなったことにも触れずに
『大丈夫。大丈夫だから。』と言い続けてくれました。
ご飯も食べず、どんどん痩せ細る私に
いつも、『食べないと身体がもたんよ。』と
ご飯を用意してくれました。
でも食事は喉を通らず、食べれずに
残してしまっていました。

祖母はいつも夜仏壇の前で独り言のように
呟きながら泣いていました。
『ひーが可愛そうだ。なんでひーだけ』と。
その姿を見て私も静かになきました。
『おばーこんな私で、バカな私でごめん。』と
思いながらいつも苦しくなりました。

学校に行かなくなり数週間後、
私の精神状態がボロボロの状態の時に、
やんちゃな子達が
8人くらいで家を訪れました。

祖母が、
『ひーちゃん女の子達がきてるよ』と言われ、
『誰?』と聞くと
『わからないけど、ひーちゃんに会いたがってる。』
と言いました。
こんな状態の中会いにくる子なんて
いるわけないと思い。
『お願いだからいないって言って』と静かに言いました。

2階の窓から、
こっそりカーテンを少し開け、
見てみると、
あの子達が皆で帰って行く、
後ろ姿がありました。

それを見ながら、呆然とし、その後怖くなり、
母に震える手で『8人が家にきた』と電話をしました。
そしたら、母は、『会いなさい』
私は『嫌だ。怖い。会いたくない』と言ったのですが
『会いなさい。会ってちゃんと話をしてきなさい。』
と言われ、5分くらいその電話を
続けたのでしょうか。
『今仕事が忙しいから』と
怒り気味に電話をきられました。

他人軸でずっと生きてきた私は
頭がパニックの状態で
1時間くらい考えました。

なぜかふと、話せば許してくれるのかな。と思い、
意を決して連絡をし、
その子達8人が集まる家に会いに行きました。

ひとりで行くのが怖くて、
当時飼っていた、小ちゃいわんこを連れて。
家に着くと、そんな甘い考えは
すぐ打ち消されました。
皆の顔は怖く、笑いもせず、
6畳くらいのフローリングに
真顔で8人が座っているのです。

ちっこいワンコの効果もあってか、
殴られることはなかったのですが、
その日は色々言われただけで終わったんです。
でも当時、何を言われたのかも、
どうやって帰ったのかも、
何回思い返しても、
今でも全然思い出せないんです。

それから、引きこもりました。
何を言われたのかは思い出せないけど、
何かいろんなことを言われたのだと思います。

引きこもって一ヶ月が経ち
『母は何度も学校に行きなさい。』と
言い続けていました。

私自身もやっぱり
学校に行きたくないけど、
行きたかった。
行けない自分が
受け入れられなかった。

母も毎日泣いてるし、辛そうだと思い、
意を決して行った日の事。
教室の前に行くと足がすくみ、震えて
中に入ろうとしても、入れないんです。
だから、震える足で
とぼとぼと、保健室に行きました。

保健室の先生に
『あなた、何しにきたの?』と言われ、
教室の前で足がすくんで入れない旨、
を伝えました。
そしたら、
『たいしたことないんだから、教室にいきなさいよ。』
とだるそうな顔をしながら、
強い口調で言われました。
行きたくても、教室に入れないのに
なんでそんなことを言うんだ。と思い、
くやしくて泣きながら、何も言わずに
歩いて家に帰りました。

その後、教室に行ったことも
何度かありましたが、
無視され、
私の姿を見た友達だった子達は
皆冷たい目で私を見、
私の姿をみたら皆散っていく。
2年間一緒に頑張ってきた
部活の子達も皆そうでした。

3年生のイベントの会場設営をしていた時、
あまり、学校に行っていなかった私は
一人ぼっちで何をしていいかわからず
誰に聞くこともできずに
立ち尽くしていました。

立ち尽くす私の後ろから
前まで仲の良かった子らが
『お前マヂできもいんだよ。』等と
罵詈雑言を浴びせられ、
後ろを振り返ると私に言っているのでした。

仕方ないのかもしれないですが
ほんとうに辛かった。
その場で呆然として、
泣くのを堪え、
すぐにその場から逃げ出したかったけど動けず、
立ち尽くしていました。

その時私は、
『あの日から学校のほぼ全員が私の敵になったんだ。』と
実感しました。

おばーは味方でいてくれたけど
家にも、学校にも、居場所がないと思った私は、
もう疲れた。死のうと思い、
8階建てのビルの屋上に立ちました。

靴を脱ぎ、ギリギリのところに立ちました。
でも足がすくむんです。
飛ぼうとしても飛べないんです。

飛ぼうとすると、家族の顔が浮かぶんです。
TVを見て笑いながらご飯を食べたこと。
一緒に海に行って遊んだこと。
親戚も集まって旅行に行ったこと。
どれくらい経ったのかはわかりませんが、
結局、飛べなかった。
そして、また私は情けない自分にあきれ、
その場で泣き崩れました。

これが私の学校にいけなくなった理由
生きることに絶望し屋上から飛び降りようとした
中学時代の私です。


『楽譜が読めない』とあの時、
言えていたら、
こんなことには
ならなかったのかもしれません。
そのたった一言を、
言えなかった私は
こうなってしまった。

その一言が言えていたら、
どう言う未来が、待っていたのかと
今でも考える事があります。

欲を言えば、小学校・中学校の同窓会、
成人式にでたかったなぁ。
とも思いますけどね。

でも、これでよかったのだと思います。
あのままいっていたら、
私の腐った根性は治らなかった。
人の痛みがわからない人間に
なっていたと思います。
勉強や読書を
しようなんて思わなかったと
思います。

人の痛みがわかるようになり
性格を何年もかけて、
自分と向き合って改善していき、
まだ不完全ではありますが、
当時に比べると全然良くはなりました。

今は親友と呼べる人ができ、
友達にも囲まれ、
良き先生達にも巡り会え、
家族ともすごく仲良くなれました。

母は言います。
あなたも頑張ったし辛かっただろうけど、
私も辛かった。
だけど、私もあなたのおかげで成長できたから
結果的にこれで良かったのよ。と。

そして何より、昔では考えられない、
人に囲まれ、笑い合い、毎日が楽しいのだから。
結果的にはこれでよかったのだと、
私も思います。



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