#52 5年前のデジャブ

とある企業様のインターンシップに申し込むために適性検査を受けに行った。性格診断は事前に済ませたので能力検査のみ行った。テストセンターのパソコンに向き合いながらい数十分かけて問題を解いていった。解き終わると、建物から出て最寄りの駅から電車で帰宅した。

電車に揺られる中で先ほどまで行っていた検査のことを思い返すと、初めてながらも手ごたえのない感じがした。初めてながらというのは、どれくらいできればよいか悪いかなどの情報を知らない、また検査の性質上どれくらい正解できたかなどを知ることができないのに、あまり自信がなかったということである。

自信のなさを一番裏付けていたことがあった。検査する際に使用したパソコン画面の右上に回答進捗が円グラフ状に表示されるのだが、検査が終了した際の進捗が4分の3程度までとなっており、全ての設問が終了していなかったため、私は安心できず自信のない状態で終了することとなった。

ただ、既に検査をしたことがある人に聞くと、問題を解いた数ではなくどれだけ正答できているのかが大事で、正答率によってその後の出題される問題が分岐されていくということらしいので、まだ駄目だったとは言い難いなとも思った。

そこで、電車で手持無沙汰にするのではなく、その適性検査に関しての振り返り方などについてスマホで調べようと思った。

ネットで検索すると幾らかの記事が見つかり何個か読んでいった。自分がどれだけ点数を取れたかは企業側は見ることができるが受験者自体は見ることができないという状況の中で自分の出来を予測する方法について紹介するという記事だ。基本的にどの記事も同じような内容が書いてあった。

私が受けた能力検査の中には、言語分野と非言語分野というものがあり、それぞれの予測の仕方が書かれていた。(以下では出題された問題の具体的な内容は書かない。ネットに記載されていた問題形式のみの紹介とする。)

まず言語分野についてだが、高得点の特徴として、長文問題が2つ以上出題されることや、チェックボックス問題が出題されること、記述式があることなどが紹介されていた。数時間経った今思い返すと(このnoteを書くと決めたこともあって)、どれも当てはまらないから出来は良くなかったのだろうなあと感じるが、電車で調べていた際は、「長文といってもどのぐらいの分量が長文なのだろうか、あれを含めれば長文は2つ出題されたといえるのかもしれない」「タブが4つある問題もあったかもしれない」などと自分ができている方になるように思うようにしていた節があった。

次に非言語分野について、推論問題が全体の半分以上出題されることやチェックボックス問題が出題されることが挙げられていた。「推論問題は確かに出題されていたが半分も出ていなかったかもしれない、いや、集中していて気付いていないだけかもしれない」と迷う反面、「チェックボックス問題は確かにあったぞ!」と自信を持てる場面もあった。

最後に、円グラフで表示される回答進捗について、これは話で聞いていた通り、時間を余らして全問解けることが必ずしも良いわけではないということだった。とはいえ、回答進捗には高得点者の目安が示されており、それが時計でいうと9時から10時のあたりで終了しているということだった。反対に、高得点が期待されない場合として、8時のあたりで終了している場合があった。

私の場合は、4分の3は終了していたという記憶が曖昧ではあるが残されていたため9時に相当するのかなというふうに捉えることにした。少し進捗が減ると高得点ではないというところから離れたい気持ちがそういう解釈を促したのかもしれない。

基本的にどの記事も同じ内容だが、結果の予測方法を見ている時間が長かったと後々思った。それは、出来が良い条件に自分が当てはまる箇所を探して自分を安心させたかったからだと理解できたが、それと同時に、この状況は何か既視感があるなとも感じた。それが、大学受験勉強をしていた時期の私のことである。

模試や校内の考査が返却されると、なんとなく悪くはない順位に安心感を覚え、自分ができた箇所ばかりを見つめ、自分が間違えた苦手とされる箇所には正面から向き合っていなかった。正面から向き合えないから自分はもっと頑張って点数を上げなければならないという確固たるモチベーションや向かうべき方向性を定めることができていないことから中々成長できていなかった。そんなんだから、1年浪人を経ても第1志望校には合格することはできずに終了してしまった。

浪人が失敗したときにはじめて、1年間努力(正確には努力じみたもの)しても報われるわけではないんだということを初めて痛感させられたのを今でもはっきりと覚えている。

そこから時間を経てわかった。自分のできていないところや弱点から目をそむけている、自分を否定することからひたすら逃げている人間が私なのだとやっとわかってきた。自分が適性検査において高得点をとれるほどの能力がないということと向き合いたくないから、自分ができていると思いたいから無駄にネットで都合の良い箇所が見つかるまで調べ続けていたのだ。

なぜ自分を否定することから逃げ続けるのかを考えると、おそらく、自分から変わるような努力したくないからだという結論が出た。自分ができていない箇所が見当たらなければ、それだけ向き合うべき困難が少なくなるし手間もなくなる。手間がなくなれば楽になる。ただし、それは本当の意味では楽になっておらずむしろ長期的には苦しみの方へ追い込んでいる。自分の実力や能力に関わる出来なさや弱点から逃げ続けると勿論成長できないから、数年経ってもこの前の自分から全く変わってないなという非常に何となくで捉えどころのない後悔が大きく残る。

そう思うと、自分のできていない部分に向き合った方が長期的にみて得ではないだろうか。短期的にできているところを見て安心することは誤魔化しにしかならない。

そういった経験をしたからこそ、スマホで長時間検索していた自分を数分後には別の角度から愚かだと思えるようになった。昔の自分だったらそうやって逃げていたことにも気づけていなかったから、そこは成長した部分だと思う。

「今更振り返ったところで仕方ない、できてないものはできてない、出来た箇所ばかり探すことで改善しなくてよい理由を探すのではなく、出来ないところと向き合うことで改善すべき箇所を探し、どうすればできるようになるのかを考える、自分から変わるような能動さをもつべき」今までになかった別の角度からの自分からもらった言葉を胸に精進していく。



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