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生命の鼓動に我喜びの舞をもって処す

生命の鼓動を見た。
何を大袈裟にと思われてるだろうがそう、そのとおりだ、大袈裟に始めている。その自負もしっかりと、ある。その上でどこまで展開させられるか試されてる気分だ。少しでも興味を惹けたならやはり喜びの舞で応えようか...そのままその視点を下にスライドしていってもらいたい。


最初に断っておくが大したことは書いてない。音楽の便りでもなんでもない、涙腺に触れるよなぐっとくるよ話でもない、明日から頑張れるような誰かの背中を押す話なんかでも一切ない。リンクを踏んで飛んできてもらったのであればここで引き返してもらっても大丈夫である。 (本音は裏腹とはよくいったものだ)

生命のはじまり。
分かるだろうか、そう、
生命の始まりの瞬間を目にした。

延長された大人春休み、草木を愛でることを始めた。始めたら始めたで、日々のいいサイクルになっている。飯食うように歯磨きするように風呂入るように庭の草木に水をやる。
これはカイワレなどという種が発芽した瞬間の写真である。

なんとまぁ健気なことか、知識ゼロでも、水と、新聞の布団を被せて光を遮り3日で発芽。喜びの舞。

水に栄養なんてないのではないのか。なんてコスパの高い植物なのか。素晴らしい。

そこで気づいた、何が嬉しくて舞うのだ自分はと。
そのカイワレ食うのが楽しみとかとかではなく、目に見える成長、進化というものに心が高ぶっているのだ。
よくよく考えたら、日常でもそのようなことは多々あって、目に見える成長、進化があれば自分のことであれど他人のことであれど関係なく嬉しいものだ。

ただ点数をつけることができたり、競ってタイムがでたりすることであれば、成長や進化は分かりやすいが、人の成長や進化、音楽の技術やセンスの向上などは数値化できないしなかなか手にとるように分かることではない。

諸君、だからである!!(突然のギレンザビ!?)このように些細なことであれど、目に見える成長、進化に一喜一憂してしまうんだろう。わたしはこの大人の春休み、より一層、喜びの舞に磨きがかかることであろう。

真面目なことを最後に言わせてほしい、snsでも結局、評価が数値化(いいね数)されるようになったりフォロワー数で人の影響力が数値で表されるようになったから、進化とか成長が見えたり、何も変わってないように見えたりする。それで一喜一憂してしまうんだろうな。

ある程度は必要だけど自分がそれによってぶれないような、つよい足腰もって、真っ直ぐなハートで、前進したいものである。

長々と書きました、最後まで読んでくれたあなた、ありがとう。感謝してます。

p.s 処すの使い方あってんのか分からないけど
しょす ! て言い切りたかったんです。

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