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愛情の試練-特別養子縁組『 朝が来る』を観て

昨年末、映画『 朝が来る』を観ました。

今まで特別養子縁組のことなんか考えたことなかったんですけど、特別養子縁組をするというのは、ものすっごく大変なんですね。

手続きとか条件とかもきっと大変でしょうけど、自分が大変って思ったのは、夫婦の愛情がこれでもかってぐらい試されちゃうことです。

子どもがほしい→できない→あきらめられない→不妊治療→できない→検査→さらに不妊治療→できない→(中略)→どうしてもできない→自分達の子どもを持つことをあきらめる→特別養子縁組

流れの順番は多少異なるとしても、およそこれだけのステップがあって、どのステップにおいてもその都度愛が試されますよね…

なかでも

自分達の子どもを持つことをあきらめる→
特別養子縁組

のステップが群を抜いてハードルが高い…
つまり最大の愛の試練です。

「あきらめる」ときの試練は、

パートナーを愛していればいるほど、パートナーに対して子どもができなかったことを申し訳なく思っちゃうってことです。

映画のなかで、夫の清和が、自分の無精子症のせいで子どもが難しいとわかったとき、
離婚してくれてもいい、
と妻佐都子に伝えます。

少し前までは、お互いの幸せが幸せだと単純に信じていられたのに、相手の幸せを心から願って離婚を口にするんです…

もちろん離婚はしません。
佐都子は夫の愛情が痛いほどわかっています。
子どもは正直ほしい。でも、佐都子はむしろ傷ついている夫の気持ちの方を思うんです。

さて、
ここまでだって充分厳しい試練だったと思うのですが、本当の試練はこれからです。

「特別養子縁組」の試練は、

愛は血のつながりを超えると覚悟できるかということです。

たとえば、もし子どもが犯罪を犯したとして、全世界がその子を否定したとしても、親である私たちだけは、子どもを愛し守り抜くことができるだろうか…

「私たち」が「愛し守り抜く」。

こういう覚悟は、妊娠してから芽生え、出産、子育てのプロセスの中で徐々に育っていくもので、意識化すらしない場合がほとんどじゃないでしょうか。

しかし、特別養子縁組の場合はこのプロセスがなく、「私たち」が「愛し守り抜く」ということをあらかじめ覚悟しておかなければなりません。

先に「もし子どもが犯罪を犯したら…」といいましたが、それはちょっと極端なたとえではないかとおっしゃるかもしれません。

しかしきっと特別養子縁組をされるような方々はそこまで考えるのではないでしょうか。
少なくとも、この映画の夫婦はそこまで考えたと思います。

知らず知らず私たちは、親子の血の繋がりを無条件の愛情の前提にしていますが、特別養子縁組においては、この子どもに対する無条件の愛情を、あらかじめ覚悟することが求められているのではないかと思います。

赤ちゃんとはいえ、初対面では他人です。他人に対して無条件に愛すると覚悟するのは、どれだけハードルが高いことでしょう。

そのハードルを越えて迎え入れる。私はこの映画を観て、特別養子縁組をされる方々の愛情の深さとその覚悟のありように、畏敬の念を覚えました。

そして、もしかしたら、ごく身近に特別養子縁組をされたご夫婦がいるかもしれないと想像させられ、壁一枚隔てた日常には、想像すらしていなかった喜びや、悲しみがあるものだと思わされました。

アクション超大作のような、非日常を味わうというのも映画の楽しみですし、自分も大好きです。
でも一方で、この『 朝が来る』のような、何気なく生活している日常を描いていながら、その日常の想像してもいない側面に気付かされ、日常の見方そのものも変えてしまう映画も素晴らしく、私はむしろそのような映画の方が好きなのかもと思いました。

いや、単にこの『 朝が来る』がとても素晴らしいということだけかもしれませんね…

あ、ちなみに『朝が来る 』は特別養子縁組した夫婦だけがクローズアップされたストーリーではなく、その特別養子縁組の子どもの産みの母である少女をクローズアップされたストーリーも描かれていて、そのふたつの運命が最後に巡り会う映画になっています。

是非みなさんもご覧になってみてください。
心からお勧めします!

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