見出し画像

「人間」 その美しさについて

最近、通勤電車の中や会社の昼休み、夜寝る前などに、自分とは何か、人間とは何なのかということをよく考えています(別に病んでいるとかではありませんので・・・)。しかし、一向にわかりません。


本当に一体何なんでしょうね、人間って。考えれば考えるほどわからなくなってきます。


もちろん辞書を引いても、全然わかりません。「人間=ホモサピエンス、霊長目ヒト科ヒト属の哺乳類・・・」面白くも何ともないですね。そういうことではないんですよね。ヒドいものだと、「人間=知能が高く、言語を有し、高度な文明を持った最も高等な動物の一類」なんて書いてあります。


これ書いた人、完全に一行抜けちゃってますね。それを言うなら、「人間=知能が高く、言語を有し、高度な文明を持った最も高等な動物と思い込んでいる最も愚かで哀れな動物の一類」じゃないでしょうか。


人間が高等動物かどうかは知りませんが、そもそも人間って美しくないんですよね。そう思いません?


まず、色がない。地味というか芸がないというか。髪の色や目の色に多少色合いはあっても、体を覆う皮膚全体の色が単色で柄もないし、全然面白くない。「雪のように白い肌」とか「躍動感溢れる褐色の肉体」とか、頑張ってもせいぜいその程度の美しさしかないんですね。


それに比べ、花の色の見事なこと。そして、そのバリエーションの豊富さ。どうやったら小さな種から自然にあんな色や模様を自らの表面に作り出せるのか、いくら考えても不思議でなりません。しかもほぼ水と空気と土と太陽光だけで。これはもう完敗と言うしかありませんね・・・。


鳥も美しいですね。コンゴウインコの目の覚めるような鮮やかな羽色。マガモの光沢感のあるベロアのような緑の顔と黄色いくちばしのコントラスト。タンチョウの赤い頭と体の白黒のバランス。そして悠然と空を舞う姿。機能美とでもいうのでしょうか。孔雀なんかもう美しすぎて、想像上の生き物としか思えません。「知能が、文明が」といくら勝ち誇ってみても、生命体としての総合力で見たら何だかもう完全に人間の負けって感じですよね。



我々の仲間である哺乳類も負けてはいません。例えばヒョウ。めちゃめちゃかっこいいですね。大阪のおばちゃん達が惚れ込むのもわかります。シマウマやキリンの柄もユニークです。猿もいいですね。マンドリル、ご存知ですか?あの奇抜な顔、色使い。最高にクールです。


自然界にあふれる動植物の色やデザインは、とても独創的でアーティスティックです。その美しい姿にはいつも驚かされます。それは到底人間が作り出せる類いのものではないですね。人間はもともとそういう「鮮烈な美しさ」を持ち合わせていないから、それに憧れ、模倣し、ファッションとして取り入れてきたのかも知れません。それくらいしかできないですから。

画像1

花が色とりどりなことなんか前から知っているし、そんなことは当たり前。そういう捉え方で、その色の不思議そのものに気づこうともせず、驚きもしなければ、花の本当の美しさなんて、絶対に見えては来ないでしょう。


そういう視点で世界を見ていく。どんどん見ていく。そして、立ち戻って人間の姿を見てみる。するとどうですか?ちょっとがっかりしちゃいませんか?ああ、自分のこの姿の何と醜いことか……。色鮮やかな羽毛もない。皮膚は単色で光沢もない。全然美しくもないし、面白くもない、この体。


人種の違い、肌の色の違い、性別の違い、国籍の違い、貧富の差、そういうもので人間を判断しちゃダメよ、と言われます。確かにそうです。その通りなんでしょうけど、動物や植物の美しさにひとつひとつ目を向けていって、その不思議に気づいてくると、だんだん人間同士のその程度の差異なんてどうでもよくなってくるんですね。


「人権だ」「ダイバーシティだ」と殊更に叫ばなくても、一人ひとりがただじっくりと自然を見つめ、その不思議に気付いていけばでいいんです。そうすれば、そんな人間同士の小さな差異を問題にすること自体、いかに馬鹿げていて、くだらないことかが、明確になってきます。どんなに偉ぶってみたところで、所詮、我々はみんな同じ醜い人間なんだ、とそういうふうに感じ方が変わってきます。


有名な仏教書「歎異抄」には、我々人間とは「煩悩具足の凡夫(煩悩の塊に手や足が生えたようなもの)」と明言されています。


確かに毎日やることと言えば、寝て、起きて、食べて、出して、また寝る。その繰り返し。動物と何ら変わりませんね。ただ、その合間に人間は仕事をします。生きるため、家族のためと、辛くても一生懸命頑張りますよね。一見すると、仕事をすることは高い文明を持った人間の高尚な行為のように思われますが、本当にそうなんでしょうか。


我々の仕事といっても大抵は間接的あるいは直接的に、自分たち人間の欲や執着心を満たすための行為であり、さまざまな業をせっせと日々作り出しているだけのような気がします。だから日本では生きるための仕事(業)のことを今でも「生業(なりわい)」と呼んでいるのかも知れません。


何かを理解するために別の何かと比較するのは、手っ取り早い手法です。仏教的視点も非常に理に適っていると思います。それでもやっぱり人間って何のことやら。さっぱりわかりません・・・。これからも考え続けていくしかありませんね。

自分にとって「人間とはこんなものだ」という定義を持っていらっしゃる方は、ぜひ私に教えてください。とても興味があります。

それでは今日はこの辺で。おやすみなさい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?