【小説】 あちらのお客様からです

「あー、飲まないとやってられない」
私は人気のなくなったオフィスで独り言ちた。

とっくの昔に日は沈み、同僚達は一人また一人と夜の闇に溶けていった。

終わりの見えないタスクを前にした私はどこまで進めるべきかと頭を悩ませる。

少しでも進めておくべきなのかもしれないが、既にモチベーションは消え失せてしまっていた。

明日の自分に引き継ごう。明日の自分からは怒られるに違いないけど。

切り上げると決めてからは早かった。これまでの鈍重な私は何処へ消えてしまったのかという軽やかな動きで退勤の用意を進めていく。

とにかくこの会社という牢獄から離れなければならない。一刻も早くここから出たい。そんな気持ちが私を突き動かしていく。

かくして私は無駄のない動きで会社を後にした。


明日も仕事だが、飲みたい。飲まなければ、やっていられない。

帰りの電車に乗りながら私はぼんやりと考えていた。

コンビニで酒とつまみになりそうな食べ物を買って帰るかと考えたが、なんとなく気乗りしなかった。

仕事が遅くなった日にはコンビニを多用してしまう傾向にあり、ここ数日はコンビニ続きだった。

飽きているという程ではないのだが、会社→コンビニという一定の行動の繰り返しの無機質さに言いようのない虚しさを感じていた。

抜け出せないループに陥ってしまっているような感覚で、そこから抜け出す為に何かしらの変化をつけたかった。

ぼんやりと考えているうちに、JRから地下鉄に乗り換える駅に着いていた。

人の流れに沿って駅構内を抜け、JRの改札外に出る。都内の中でもそこそこの繁華街であるその街は、昼よりも明るいのではと思うくらい煌々と光を放っていた。

私は誘蛾灯に吸い寄せられる虫たちのように、ふらふらと夜の街に吸い寄せられていった。


せっかくなので軽く飲んで帰ろう。そう思ったは良いものの肝心のお店が決まらない。

お店が無数に存在するが故に、どこにしたら良いのかが分からなくなってしまっている。

私は一度立ち止まって考えることにした。

どんな飲み方がしたいのか、それにはどんなお店が良いのかという事を軸に思考を整理していく。

騒がしい居酒屋は避けたいなと思った。楽しそうに飲んでいる学生の集団なんかに遭遇した日には嫉妬で発狂してしまいそうなので。

出来るだけ静かに飲めそうな落ち着いたお店を探そう。少し高くても一杯二杯くらいなら大丈夫だろう。

そう思いながら歩き出した矢先、お誂え向きのお店を発見した。

目の前にある雑居ビルの正面からやや左側にそのお店の看板は立っていた。
看板のすぐ隣には入り口へと続く階段が見える。

黒い看板にはBarという小さな文字と共に店名が記されている。店名だけのシンプルな看板だ。

普段なら怖くて入れないところだが、今日は静かなお店で一人で飲むという強い意志がある。バーに似つかわしく無い陽気な足取りで階段を下っていった。


今回のバーは当たりだった。静かな雰囲気でありながらもマスターの人当たりの良さからか、暖かい感じがする。

一見の私でも居心地よく、一杯二杯のつもりが気付いた時にはその倍くらい飲んでいた。


「あちらのお客様からです」

マスターの言葉と共に目の前にグラスが現れた。

テレビや小説などの中でしか触れたことのないあのフレーズが現実にも存在するのかと私は昂ぶった。

しかし、それも束の間のことであった。私の頭の中は疑問符で埋め尽くされる。

目の前のグラスは空っぽだった。

私が飲んだわけではない。はじめから空っぽだったのだ。

“あちらのお客様”の方を見る。一人の男性が柔和な笑みを浮かべていた。私と同年代あるいは少し年下だろうか。

何か意図があるのだろうか。私が知らないだけでバーでは何らかの意味を持つ行為なのだろうか。

頭を悩ませている間に彼は消えてしまっていた。

意味が理解できないまま、目の前には空のグラスと飲みかけのグラスが鎮座している。


お会計をお願いしたところ、空のグラスの分の料金も含まれていた。

マスターに訊いてみたところ、先程の男から私にツケてくれと言われたらしい。

知り合いでも何でもない旨と勝手にされた旨を伝えたところ、その分はお会計から引いてもらえた。

彼もまた一見客らしく、顔は覚えたので次来たら本人にしっかり請求するとのことだった。

せっかく気持ち良く酔っていたのに一瞬で酔いが覚めてしまった。

コンビニでお酒を買って帰って飲み直そう。

もし先程の彼にまた会うことがあれば、その時は私に奢らせよう。

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