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「ちゃんとしなくちゃ」という呪いについて考えてみた

久しぶりの投稿です。10月に㈱クリアーを創業してから8ヶ月、色々な企業さんの学びの場に混ぜてもらったり、そんな場を作らせてもらったり、時には内側に忍び込んでみたりという活動をしていました。

そんな活動の中で、「ちゃんとしましょう」というキーワードをたびたび耳にしたり、時には自分が言ったりすることがありました。

この言葉、親御さんや親戚の方、先輩、上司などから言われたことがあるという経験をお持ちの方も多いと思いますが、僕の場合は言われた記憶よりも、自分が言った記憶の方が印象に残っている気がします。もしかすると、子どもの頃からそういう風に育っていたのかもしれません。

どういう文脈でこの言葉が出てくるのかはその時によって様々で、「ちゃんとする」という言葉自体が人によって認識が変わる曖昧な言葉なので、僕は基本的にあまり使いたくない言葉なのですが、それでも「ちゃんとしよう」という投げかけを意図的にすることがあります。

曖昧な言葉は、事前に前提条件を共有してから使う

ちゃんとする
しっかりとする、堂々とする、立派である、まともである、などの意味表現。「ちゃんとした」「ちゃんとしなさい」などの形で用いられることが多い。

Weblio辞書より

こういった色々な意図を含む曖昧な言葉は略語のようなものだと考えていて、前提条件となる内容やイメージが共有されていてはじめて使える言葉ではないかと思います。ここが間違っていたり、前提条件がそもそも共有されていないのに曖昧な言葉を使ってしまうと、同じ言葉を使っているのに意味が全然噛み合わないというコントのような状況になります。コントだと笑えますが、現実でそのような状況になってしまうと笑えないどころか、コミュニケーション・関係性が崩壊することにも繋がりかねません。

ここで言う「前提条件」とは、「◯◯が▲▲のようになっている状態」というように言語化できるようなものなら良いですが、言語化が難しいことの場合は、「◯◯さんっぽい感じ」とか「漫画のあの作品っぽい感じ」とか、イメージや感情の共有でも良いと思います。「文脈」や「コンテクスト(Context)」という言葉で呼ばれることも多いのかと思います。

何を「ちゃんとする」のか?

この、「ちゃんとしましょう」という言葉ですが、自分はどういう時にこの言葉を使っているんだろう?どういう前提条件について考えていたところ、ふと「人として」「組織・チームとして」という、主語が頭についていることに気づいたのです。つまり、この言葉を使うときは主語が大きいのです。

主語が大きいというのは、本来は自分の意見なのに、大勢が主張していることや本来そうしなければいけないことのように言い換えている状態です。

ちなみに僕自身は、主語が大きい意見を言われることが特に好きではありませんが、それを踏まえて大きな主語を使うときは、自分の意図を相手にわかってもらいたいという想いから来ている場合が多かったように思います。ただ、その大きな主語も、なぜそうしてほしいのかが伝わっていないと、ただウザいだけで終わってしまいます。

なぜ、ちゃんとしないといけないのだろう?

では、なぜちゃんとしないといけないのか?ということについて考えてみると、これは地方で企業支援などの仕事をしていると思うことですが、組織や企業としてちゃんとしていないということは、ビジネス上の文脈がその人と共有できないということになります。

例えば、契約やコンプライアンス・法務の部分に加えて、業界独自の商習慣などそれぞれのルールやマナー・作法がありますが、それを守ってくれないかもしれない会社・経営者とは付き合いたいたくないですよね。どれだけ人や物・サービスが良くても、ちゃんとしてない会社はそれだけで損をしますし、ルール通りに動いていても、挨拶や掃除などの社会人としての基礎ができていない人は、仕事を一緒にしようとはなりにくいと思います。

また逆に、今の時代は「ちゃんとしすぎ」な側面もあると思います。それなりに大きな会社だったりそれなりの立場で仕事をしていると、「ちゃんとしなければならない」という圧力が、方針制約となってまるで呪いのように自分に降り掛かってきます。そして、それは自分のチームや周囲に広がっていきます。

つまり、以下の3つがループしてどんどんエスカレートして詰まっていく状態と言えるでしょう。

①ちゃんとしなければ競争の場に乗れない
②ちゃんとしている人が一定のルール下においての競争に勝ちやすい
③なので、競争に勝ちたい人(ちゃんとしたい)からの圧力がかかる

地方(田舎)の場合は逆に、ちゃんとしなくてもそれなりに競争に乗れるので、逆のループが回って詰まっていくわけですね。

だからこそ、ちゃんとすることに疲れた人たちは田舎を目指し、ちゃんとしていないことに疲れた人たちは都会を目指す、そんな状況になるわけです。20年前ぐらいの創作物なんかを見ていると、今思えばコンプラNGなものもありますが「これぐらいでちょうどいいよな~」って思うものもたくさんあるわけです。平成自体に昭和懐古があったように、今はY2Kファッションなどを筆頭に平成懐古の時代なんだなと思います。

何事も、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。やり過ぎはよくありませんし、無理に抗う必要もありませんが、自分がその方針制約の輪の中にいて、「ちゃんとすること」はループして閉塞していくという認識は必要かなと思います。

つまり何が言いたいか、ちゃんとしなくて良い場を提供する都会的なモデルと、ちゃんとできる場を提供する田舎的なモデルは、環境によってうまく使い分けないといけないなぁ…とそんなことをこの呪いの中で考えていました。

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