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「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」に対する違和感、あるいは遺書 / A sense of incongruity against a word "After all, you should do what you want to do", or a will

*このエッセイの英語versionは近日中に公開します。 / The English version of this essay will be published in a few days.

序. 遺書(will)を書くということを意志(will)するということ

 今からここに書くのは、自分が生きてしまってきた23年6ヶ月の総決算であり、その意味で過去の自分を葬り去る「遺書」です。この遺書の主題は、「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」と所々で言われた問いそのものに対する違和感です。この違和感は、「意志(will)」「意図(intention)」「欲求(desire)」という、一般的に広く認知されていることばの概念とその使われ方、そして認識のされ方、あるいはひととひとの間のその認識のずれに帰結します。先に言ってしまと、「わたしはこうしたい。だからわたしはこうする。」という一見正常かつ正当に見えるこの論理、あるいはそれに伴う行為こそ、ひととひとの間に「決定的かつ不可逆な」分断を生むことがある、という結論を導き出します。
 念の為付け加えておくと、「遺書」ということばによって「死」あるいは「自殺」ということばが連想されますが、現時点で私はそのようなことは考えていません。後ほど述べますが、いま現在双極性障害の治療中であり(いまは躁状態と鬱状態が混合している「混合期」と言われるステージにいます)、時たま希死念慮が生じることはありますが、そのような状況であっても自殺という選択肢をとらない(とれない)ような工夫を施してあります。

 「わたし(=中井澤卓哉)」という人間が「わたし」の過去と断絶することは、身体的な「死」という事象によってしかできません(「わたし」を知っている「わたし」以外のひとには、記憶という形で「わたし」という人間の過去が断絶せずに存続することはもちろんあり得ます)。それなのに、そんなことは原理的に不可能であると分かっていながら、身体的な「死」以外の方法で、なお「わたし」の過去を断絶しようとする姿勢を維持するのには、理由があります。「過去との断絶の不可能性」(これは数多くの哲学者、特に過去との断絶という文脈ではハンナ・アレントマルティン・ハイデガーが明確に論じてきた通り、「意志」の概念にも結びつきます)という梃子を利用することによって、ある種の背理法的に「ひととひととの(「わたし」と「わたし以外」との)決定的かつ不可逆な分断」を乗り越える可能性を見出したいからです。これは、これまでの、そして今後の人生における私の哲学的探究の主題である「ひととひとがわかりあうための、わかりあえない論」の端緒でもあります。

1. 過去との断絶を駆り立てた2つの出来事

 まずはじめに、「遺書」をもってして過去の自分を葬り去ること考え始めた直接的な契機となった2つの出来事を簡単に振り返ります。

(1)新型コロナウイルスの影響による仕事環境の激変
 ひとつめの契機は、2019年11月末からの新型コロナウイルスのパンデミックです。ちょうど「中国で新型のウイルスが発見されたかも」というニュースが出始めた頃(まだ日本国内ではそれほど注目されてなかった頃)、私はヨーロッパにいました。というのも、日本ファンのキャリア支援を行う会社でヨーロッパ事業の責任者を務めていた関係もあって出張にきており、現地法人の設立を視野に入れながら活動を拡大し始めていたタイミングだったのです。
 その後の顛末はご存知の通り、私たちの業界も多大な影響を受けて、目先生き残れるかどうかの瀬戸際状態が今現在も続いています。1回目の緊急事態宣言後に設立した弊社(一般社団法人ひとと)も御多分に洩れず、国内外のひとの移動が断絶されたことによる損失は、怖くて計算できないくらい計り知れないものです。
 そんな影響がある中で、キャッシュアウト、共同創業者の離脱、組織崩壊など、考えられうるあらゆる危機がたったの1年半で立て続けに起こりました。それでもなんとか生き残ろうと、2020年9月ごろからほぼほぼ週6日オフィス泊、1日平均3時間睡眠が通常モードで働き続けた結果、2021年6月に過労でダウンし、鬱病を再発(*前回は2015年の5月)する結果となりました(ダブルパンチで身体的な病気も併発しました)。
 仕事の側面だけ切り取ってみると、働きすぎと外部環境の激変による適応障害と鬱病に見えますが(実際当初の精神科医による診断は、その通りでした)、この特に鬱病再発に大きく影響を与えたのが、ふたつめの契機です。

(2)一見真逆な結末に見える2回の恋人との別れ
 上記の仕事面での出来事に加えて、この半年間(2021年1月〜6月)で、2回(2人)最愛の恋人との別れを経験しています(最愛が2人とはどういうことだ、というツッコミは一旦おいておきます(笑)。もちろん時期はかぶってないので、二股はしてません。)。今回の大鬱エピソードとそれに伴う抑うつ期間は、2020年8月〜2021年6月の11ヶ月間にあたりますが、この2回の恋人との別れと鬱の程度は、紛れもなく一致しています(そして不思議なことに、会社の経営状態の程度もこの波に一致しています)。急いで付け加えないといけないのは、この経験はあくまで「影響を与えた」というだけであって、鬱の原因が彼女2人に帰属させられることは意味しないということです(そもそも私は、原因を何かに帰属する(一般的な言葉で言い換えると、「何か/誰かのおかげ/せいにする」)という態度をほとんど取りません)。
 また、これに関してはいかんせんセンシティブな内容なので、もちろんあくまでも私視点であるということと、事実認識を歪めないという前提に立った上で、本人及び周囲の関係者含め個人が特定されないように配慮しているため、多少ぼやかしたり曖昧にしたり、現実起きた会話とは若干異なるところがあることはご了承ください。面白いことに、この2人は生まれも文化も母語も育った家庭環境も全く違い、そして私と付き合った期間(時間の長さ)も付き合っている間のコミュニケーションの頻度や取り方も、そして別れ方も何もかも違います。ただ、それはあくまで「表面上」そう見えるだけで、誰しも「ひと」であるという本質に立ち返って見直してみると、とある言動に奇妙な一致と、私の価値観との奇妙な不一致がそこにありました。奇妙に一致した「とある言動」とは、

(a)「あなたはどうしたいの?」
(b)「そのようにするってことは、こうこう思ってるからじゃないの?」

と頻繁に問われたことでした。そして、私がこの2つの問いに対して強烈な違和感を抱いた理由は、恋人関係に限らずあらゆる場面で(最近だと、今年入ったMakers Universityという学生起業家向けのコミュニティで繋がった人から)同種の問いをたくさん浴び、この問いが持つ時代や文脈を超えたある種の普遍性と特異性の両方を感じたからにほかなりません。
 以下、冒頭で提示した「意志(will)」「意図(intention)」「欲求(desire)」の3つ、そしてその3つと「行為(deed/behaviour)」の関係性について、少し立ち入って考えてみたいと思います。

2. 過去との断絶の姿勢(1):意志・意図・欲求と行為の哲学的探究

(2)-1. 「あなたはどうしたいの?」という問い
 まず、(a)「あなたはどうしたいの?」という問いについて、「意志(will)」と「欲求(desire)」の観点から紐解いていきます。本来は、過去の哲学的探究の議論を足掛かりにしながら、仙達の智慧を借りて...といきたいところですが、そうすると膨大かつ難解になってしまうので、学術的厳密性を犠牲にする代わりに、シンプルに書いていきます。
 ここでは大雑把に、「意志(will)」と「欲求(desire)」を、以下のように解釈します。

意志(will):なんらかの行為を決定する1つの認知傾向
欲求(desire):意志(will)を形成する前段階の種々の欲望的感情

 わかりやすく言い換えると、「欲求(desire)」は都度その時々に生じてくる欲望(これこれしたい、など)、「意志(will)」は都度その時々に生じてくる欲望を一定の仕方で整理して、最終的に何かをすることを決める際の考え方、です。この違いを直観的に理解するのにうってつけなのが、ジレンマ状況です。ここではものすごく簡単なジレンマ状況を設定してみます。
 いまチョコとグミ、両方が食べたいと仮定します。「チョコが食べたい」「グミが食べたい」というのが欲求にあたります。しかし、チョコとグミ、両方を買えるお金がなく、どちらか一方しか選べない状況です。この時、例えば「これから3時間試験勉強をするから、より多く糖分が取れるチョコを買おう」と「チョコを買う」という実際の行為に結びつく最終段階の認知(傾向)が意志です。
 実際に私がこの意志と欲求に関して、2人との恋人関係を通じて痛感したことを追体験します。例えば、彼女と外にご飯を食べに行く状況。私は生魚/甲殻類アレルギーなので、刺身や寿司は食べられません(それは事実として彼女も知っています)。しかし、ここでは彼女が「寿司が食べたい」と言った、と仮定します。なお、以下の会話は、私が以下で考察するのに都合がいいように架空に作り上げられたものではありませんが、一方で、現実起きた会話をそのまま文字起こししたものでもありません。実際に起きた会話を記憶の限り正確に再現する過程で、個人が特定されるなどの不利益がないように、若干の加工修正(言語そのものを含む)をしてあります。

(A=彼女、B=筆者)
A:なんか今日寿司食べたいなぁ
B:おー、じゃあ寿司行く?
A:けどたくや(=筆者)、寿司食べれないでしょ?
B:うん、けどいくらとか納豆とかかっぱ巻きは食べれるから、寿司行こうよ。
A:たくやはなんか食べたいものないの?
B:うーん...特に。Aちゃんが寿司食べたいなら、寿司行きたいかな。

上記の会話に基づくと、欲求は以下のようになります。

彼女の欲求:寿司を食べたい
筆者の欲求:Aちゃんが寿司食べたいなら、寿司行きたい

 ここで「なんか食べたいものないの?」という彼女の問いは、「あなたはどうしたいの?」という問いに属すると考えます。それに対して、私は「うーん...特に」という回答をしており、筆者は「〇〇を食べたいという欲求は特にないよ」ということを伝えようとしています。ただし、その前の「いくらとか納豆とかかっぱ巻きは食べれる」ということにおいて、生魚を含む寿司を食べないという意志はある、ということも示唆しています(いちいち「マグロとかは食べないけどね」とこの文脈で言わないのは、この2人が背景知識として「たくや(筆者)が生魚/甲殻類アレルギーである」ということを知っているからです)。
 ただ、ここで「Aちゃんが寿司食べたいなら、寿司行きたいかな」ということばに引っかかる人が多いのではないかと推察します(実際、元カノ2人はそこに強く引っかかっていました)。引っかかりの要因を検討する前に、もう少しだけ欲求について辿ります。
 人間は誰しも欲求を持つものです。わたしたちは、基本的にはその欲求に従って行為する(≒意志を形成する)と暗黙裡に想定しています。また、その時々において一番強い欲求(最大欲求)が、行為を形成する意志に一番大きな影響を与え、実際の行為の原因であると思ってしまう傾向も持っています。
 これら2つの想定を以降では、便宜的に「欲求最大値仮説」と呼ぶことにします。そして以降では、その時々の文脈や状況に応じて、最大欲求に基づいた行為ができないことがままある(というより、そのようなことの方が多い。雨が降ってて出社したくないのに規則で出社しないといけない、など)という事実を認定した上で、

最大欲求を阻害する要因を全て取り除いた場合、一般的にひとは欲求最大値仮説に基づいて意志を形成、行為する

という前提に立ちます。
 さっきのチョコとグミの例を引っ張ってくると、今この瞬間に、チョコとグミ両方食べたいけど、どちらかというとチョコを食べたい欲求の方が強くて、かつ両方買うお金がない、という場合にチョコを買うという意志を形成して、チョコを実際に買うことが、欲求最大値仮説に基づいた行為、ということになります。
 さて、この欲求最大値仮説に則って、さっきの寿司の例を考えてみます。「合理的である」と考えられる行為は以下の3つの選択肢です(*行為の合理性についても書きたいのですが、そこまで及ぶと収集つかなくなるので、ここでは一般的に理解可能で妥当だよねと考えられるみたいな意味合いで「合理的」ということばを使っている、ということだけ述べるに留めておきます)。また、ここではAちゃんの最大欲求を「寿司食べたい」、筆者の最大欲求を「Aちゃんが寿司食べたいなら、寿司行きたい」とします。

(1)Aちゃんの最大欲求通り、寿司を食べに行く(筆者は食べられるものを食べる)
(2)筆者の最大欲求(「Aちゃんが寿司食べたいなら、寿司行きたい」)通り、寿司を食べに行く
(3)どちらの最大欲求も取らずに、別のものを食べに行く
*「何も食べない」という選択肢は、「食欲を満たす」という目的に対して非合理的と判断して選択肢に加えてません。

 ここで明らかなように、どちらの最大欲求をとっても「寿司を食べに行く」という行為は変わりません。欲求最大値仮説に基づくのであれば、どちらの最大欲求も満たす「寿司を食べに行く」というのが最も合理的な行為になるはずですが、それでもなおここで引っかかりを感じるのは何故でしょうか?

 まず第1に前提となる論点は、欲求が対象にしているもの(こういうのを「志向性」といいます)が違うという点です。Aちゃんはあくまでも「食べ物」を志向した欲求であるのに対し、筆者は食べ物ではなく「Aちゃん(ひと)」を志向した欲求を持っています。(*ここでは、「食べ物の話をしているのに人に対して志向を持つ筆者の方が捻くれ者だ...」みたいな話に持っていきたいわけではないので、実際に筆者が捻くれてるかどうかの判断は読者に委ねます(笑)。)
 そして、その欲求の志向性の違いを前提として、「あなたはどうしたいの?」という問いの核心は、

 その時々の文脈や状況に応じて、最大欲求に基づいた行為ができないことは往々にしてある。しかし、個人間の関係において、その最大欲求が一致しかつそれが実現可能な場合は、そのひとたちは最大欲求を満たす行為するはずである。しかし、この寿司の事例では、最大欲求を満たす行為の阻害要因(例えば、一番近い寿司屋が100km先、いまお金が全くないなどの阻害要因)を最大限取り除いたとしても、最大欲求に基づいた意志の形成及び行為である「寿司を食べに行く」ということに引っかかりを感じる。だからこそ、(欲求最大値仮説に忠実な)「寿司行こうよ」という筆者の提案に対して、彼女は「Let's go!」とならずに「なんか食べたいものないの?」という問いが出現する。即ち、その問いを出現させる何かしらの動機が存在する。欲求最大値仮説を受け入れるという姿勢を保ちながら、なおこの問いの出現に整合するような動機は、ひとが必ずしも最大欲求に則って意志を形成していないと勘づく場合に生じる。言い換えると、他者が最大欲求に反して意志または行為を形成しているのではないか、ということを他者に感じる場合、「あなたはどうしたいの?」というような問いが出現する。

と言えると私は考えます。
 この「他者が最大欲求に反して意志または行為を形成しているのではないか」というポイントは、「意図(intention)」の推論、という形で次の問いへの橋渡しとなります。その後の会話の流れを見ながら、その意図の推論について検討します。

(2)-2. 「そのようにするってことは、こうこう思ってるからじゃないの?」という問い

 以下、先程の会話の続きです。

(A=彼女、B=筆者)
A:うーん...けどこの前私が食べたいもの食べたから、今日はたくや(筆者)が食べたいもの食べに行こうよ。
B:俺(筆者)が食べたいものかぁ...いまほんとに特にないんだよなぁ。
A:なんかいつも私が食べたいもの食べてるじゃん。なんか申し訳ないし。
B:別にそんなこと思わなくてもいいよ。
A:それってさ、自分のこと犠牲にして私のことばっかり優先してるんじゃないの?
B:そういうわけじゃないよ、いまはほんとに食べたいものが思い浮かばないだけ。
A:いまはいまはって、これまでもずっとそうだったじゃん。
B:そうだね...ごめん。なんかそうこうしてるうちにチヂミ食べたくなってきたから、韓国料理屋行こ。

 結局韓国料理屋に行くことを提案していることはさておいて、ここまでの議論を整理しながら「自分のこと犠牲にして私のことばっかり優先してるんじゃないの?」という発言を読み解いていきたいと思います。この発言を、「寿司を食べに行こうって提案するってことは、(私の「寿司食べたい」を優先して自分のことを犠牲にして)私のことを優先したいと思ってるからじゃないの?」というように読み替えて「そのようにするってことは、こうこう思ってるからじゃないの?」という問いに属するものとして考えます。先程の議論の順番と同じように、まず「欲求の志向性の違い」に着目して会話をみた後に、先取って提示した「意図(intention)」の推論及び帰属の議論に進みます。
 ひとまず、この発言が出てきた前提と状況を整理します。

(前提)阻害要因を最大限取り除いた場合、人間は欲求最大値仮説に基づいて行為する
(状況)最大欲求が「寿司を食べに行く」という点で一致しており、かつそれが実現可能であるのに、その行為にある種の非合理性を感じる

 「欲求の志向性の違い」に着目すると、ここでは会話「奇妙な逆転」が見受けられます。(2)-1でみた会話では、Aちゃんは「食べ物」を志向した発言をして筆者は「Aちゃん(ひと)」を志向した発言をしていたはずですが、今度は逆にAちゃんは「筆者(ひと)」を志向した発言(「自分のこと犠牲にして私のことばっかり優先してるんじゃないの?」)をしているのに対し、筆者は「食べ物」を志向した発言(「いまはほんとに食べたいものが思い浮かばない」)をしています。
 今一度論点を確認すると、(2)-1で確認したことは、

他者が最大欲求に反して意志または行為を形成しているのではないか、ということを他者に感じる場合、「あなたはどうしたいの?」というような問いが出現する

ということでした。だからこそ、Aちゃんは「なんか食べたいものないの?」という問いを発したわけです。この問いを上記の論理に従って解釈すると、筆者は最大欲求に反して意志をまたは行為を形成していることになるので、Aちゃんは「寿司を食べにいきたい」の反対である「筆者は〇〇(=寿司ではない他のもの)を食べたいという欲求がある」と思っていて、それに対して筆者が「いまはほんとに食べたいものが思い浮かばない」と弁明する構図となっています。そして、「筆者は〇〇(=寿司ではない他のもの)を食べたいという欲求がある」と思うのに、それをあえて言わない動機として「私のことばっかり優先してる」という意図を推論している、と分析できます。欲求の志向性の違いを見抜いた鋭い推論です(だからここで「奇妙な逆転」が生じているのです)。

 ここで、当事者同士が”本当に”どう思っていたかどうか、その推論が”正しい”かどうか、ということはあえて取り上げません。取り上げてもしょうがないからです(他者が考えていることは、どこまで辿っても証明できないため)。本当は何を考えていたか、推論が正しいかどうかよりも、「そもそもここでいう「意図(intention)」とは何なのか」「このような意図の推論は何を示唆するのか」という2点を考えます。

 まず、意志と欲求で確認したところと同じように、「意図(intention)」についても具体例を挙げながらその内実を見ていこうと思います。「意図(intention)」は、任意の行為を基準として2つの側面に分けて考えられます。

事前の意図:行為をする前に形成される、その行為をしようと思うこと
事後の意図:行為を始めた後(あるいはしている最中)に思うこと

 再びチョコとグミの事例で考えます。試験勉強を捗らせるために甘いものを買いに行こうと思ったとします。これが「事前の意図」にあたります。それでコンビニに行って、いざ商品を見てみると「このチョコとグミがいいな」と思ったとします。しかしそこで、財布を家に忘れたことに気がつき、結局何も買わずに帰ったとしましょう。ここで、「財布を忘れたから帰ろう」と思うことが「事後の意図」にあたります。この時、事前-事後関係の基準となっているのは、「甘いものを買う」という行為です。
 通常このように意図を事前-事後に切り分けて考えることは日常的にほとんどありません。なぜなら、事前の意図に基づいてある行為を遂行する場合、事後の意図も一致するケースでありふれているからです。しかしここでは、実際に事前に意図されていた「甘いものを買う」という行為が遂行されずに、「財布を忘れたから帰ろう」という事後の意図が生じて、甘いものを買わずに帰るという行為をしています。
 ここで重要なのは、事前の意図に基づいた行為が遂行されなかったからといって、その事前の意図が否定されるわけでも、事後の意図が正当化される/歪められるわけでもないということです。チョコとグミの例でいうと、実際に何も買わなかったからといって「本当は買う気なかったんだろ」というのはおかしく聞こえますし、「本当は何も買わないことを意図してコンビニに行ったんだろ。さてはお前、あの店員が好きだからコンビニに行ったのか?」と訝しむのもおかしく聞こえます。ただこのひとは、本当に甘いものを買おうと思ってて、たまたま財布を忘れてしまったから何も買わずに帰っただけ、とするほうがこの場合はよっぽど自然です。
 さて、目下私が検討している関心に対して、この「意図(intention)の推論」が示唆することは、一体何なのでしょうか。それを次のようにまとめることができます。

 人間は、最大欲求を満たす阻害要因が完璧に取り除かれたという状況を想定すると、欲求最大値仮説に基づいて行為をする。しかし、そのように行為しても、その行為に対してある種の非合理性を感じてしまうことがある。その非合理性とは、「他者が最大欲求に反して意志または行為を形成しているのではないか、ということを他者に感じる」ことであり、そのような場合に「あなたはどうしたいの?」というような問いが出現する。
 しかしながら、他者が実際にどんな欲求を持っているかということは、決して知り得ない。そのため、他者が最大欲求に反した行為をしていると感じた場合、(普通そのような行為はしないはずなので)「なぜそのようにするのか」という(事前/事後の)意図の推論が生じてしまう。そのような場合に、「そのようにするってことは、こうこう思ってるからじゃないの?」というような問いが出現する。
 しかし、他者の欲求は決して”真である”とは知り得ないので、「他者の行為の遂行」から得られた意図の推論は、あくまで推論であってそれが”正しい”かどうかは、決して判定することができない(どんなにコミュニケーションを取ったとしても、そこに疑えてしまう余地は必ず残ってしまう)。

 ここではある種思考実験的に「人間は欲求最大値仮説に基づいて行為する」と前提に立った上で議論をしているので、現実そのように行為をすることがほとんどない世界を生きている私たちからしてみれば、そのような意図の推論は起こりにくいものである(が、全く起こらないものでもないし、そこにはもちろん個人差もある)と直観できると思います。そのような意味で、上記のように「本人が実際に感じている意図とは別の意図を、他者が推論してしまうこと」を「否定的な意図の推論」と呼ぶことにします。
 ここまでで、生じる次なる問いは次の2つに絞られます。

(1)意図の推論が生じてしまうのは受け入れるとして、その意図の推論が「肯定的に」なる場合と「否定的に」になる場合があるが、その違いは何か?(今回の事例で言うと、なぜ「いまはほんとに食べたいものがない」ということをすんなりと受け入れられずに、「私のことばっかり優先している」という、本人にない意図の推論が生じているのか)
(2)推論の正当性を他者視点から決して認知できないとしたら、結局ひととひとはお互いにわかりあうことができないのか?

 この2つの問いを「他者の行為に対する認知的不協和」という観点から説明することによって、ようやく「それは結局あなたがどうしたいかじゃない?」に対する違和感の本質に辿り着く準備が整います。

(2)-3. 他者の行為に対する認知的不協和
 まず、「自分」の行為に関する「認知的不協和」ということばの説明からします。これまでのことばを使って説明すると、認知的不協和は以下のように定義することができます。

認知的不協和:自分の欲求や意志と、それに応じる行為が一致していない心的状態

 例えば、「学校に行きたくない」という欲求があるのに、「毎日学校に行っている(行ってしまっている)」という行為をしているような状態が認知的不協和です。この場合はもちろん、不快な感情が伴うので、その不快な感情の程度が甚だしくなった場合、一般的には「行為」を変更します(学校に行かない、など)。
 しかしそれだけではなく、この認知的不協和を解決するために、「第3項」を持ち出して欲求と行為のずれを正当化して不快な感情を安定させる(あるいは押し殺す)というようなことも生じます。むちゃくちゃシンプルな例でいうと、「学校に行きたくない」という欲求があるけれども、友達に会えるから毎日「学校に行く」というような感じです。このように、「友達に会える」という第3項を持ち出して認知的不協和を解決しようとする(≒精神的な安定性を得ようとする)ことは、誰しも意識的・無意識的に行っていて、行為の変更よりもありふれているのではないでしょうか。

 上の例は、あくまでも「自己」内での認知的不協和なので、自分が自分自身に確かめればそれが”正しい”かどうか(認知的不協和が軽減されたかどうか)は判定することができます。ただ、ここに「他者」が介在すると、前節で示唆した通り、問題は一気に厄介になります。これが、「否定的な意図の推論」が生じる本質です。
 認知的不協和ということばに含まれる「認知」は、自己に対してのみ志向性を持つだけでなく、当然ですが他者を含む外部環境に対しても志向性を持ちます。先程の「否定的な意図の推論」をこの枠組みで考えてみると、果たして「何と何の不協和が、この意図の推論を生む動機となっているのか?」という問いに帰着することがわかります。
 それは、「自分ならこの状況であれば、このような行為をするであろう」という「自己認識」と「他者の実際の行為」が食い違った時に生じる不協和、ということになります。簡単なことばで言い換えると、「普通なら自分はこうするし、他人もこうするでしょ」と思っていたこととは違う行為が実際に観察された時にその不協和が生じ、その程度が大きいと「そうしないということは、もしかしたらこういう意図があるのではないか?」という「否定的な意図の推論」が生じる契機となるのです。
 そして、前述した通り、その意図の推論は、本人が実際に感じている事前の意図を否定するわけでも、実際に行為した際の事後の意図を正当化したり歪曲したりするわけでもなく、単に「推論」という域に留まって”正しい”かどうかは決して証明も判定もすることができない、というところに行き着きます。これが先述した、2つ目の問いに結びつきます。

他者の欲求は決して”真である”とは知り得ないので、「他者の行為の遂行」から得られた意図の推論は、あくまで推論であってそれが”正しい”かどうかは、決して判定することができない(どんなにコミュニケーションを取ったとしても、そこに疑えてしまう余地は必ず残ってしまう)。だとしたら(=推論の正当性を他者視点から決して認知できないとしたら)、結局ひととひとはお互いにわかりあうことができないのか?

 ここまで、私がこの半年の間にお別れした2人の恋人から頻繁に投げかけられた(a)あなたはどうしたいの?、(b)そのようにするってことは、こうこう思ってるからじゃないの?、という2つの問いの本質を、「意志(will)」「意図(intention)」「欲求(desire)」「行為(deed/behaviour)」を手がかりに、欲求最大値仮説と認知的不協和という概念を操作的に利用し思考実験をすることによって読み解いてきました。
 だいぶ長々と書いてきましたが、私が最終的に論じたかったことは、「それは結局あなたがどうしたいかじゃない?」という問いに対する違和感でした。その問いに対する違和感を理解する上で必要な作業として、2人の恋人と別れたという具体例に即しながら、「意志(will)」「意図(intention)」「欲求(desire)」「行為(deed/behaviour)」への理解を確認しました。差し当たり確認してきた論点をまとめた上で、その論点が「それは結局あなたがどうしたいかじゃない?」という問いになぜどのように結びつくのか、私が感じた時代や文脈を超えた普遍性と特異性の正体は一体なんなのかについて迫りたいと思います。

(論点1:ことばの定義)
意志(will):なんらかの行為を決定する1つの認知傾向
欲求(desire):意志(will)を形成する前段階の種々の欲望的感情
事前の意図:行為をする前に形成される、その行為をしようと思うこと
事後の意図:行為を始めた後(あるいはしている最中)に思うこと
(論点2:上記の概念が示唆すること)
 その時々の文脈や状況に応じて、最大欲求に基づいた行為ができないことは往々にしてある。しかし、個人間の関係において、その最大欲求が一致しかつそれが実現可能な場合は、そのひとたちは最大欲求を満たす行為するはずである。しかし、この寿司の事例では、最大欲求を満たす行為の阻害要因(例えば、一番近い寿司屋が100km先、いまお金が全くないなどの阻害要因)を最大限取り除いたとしても、最大欲求に基づいた意志の形成及び行為である「寿司を食べに行く」ということに引っかかりを感じる。だからこそ、(欲求最大値仮説に忠実な)「寿司行こうよ」という筆者の提案に対して、彼女は「Let's go!」とならずに「なんか食べたいものないの?」という問いが出現する。即ち、その問いを出現させる何かしらの動機が存在する。欲求最大値仮説を受け入れるという姿勢を保ちながら、なおこの問いの出現に整合するような動機は、ひとが必ずしも最大欲求に則って意志を形成していないと勘づく場合に生じる。言い換えると、他者が最大欲求に反して意志または行為を形成しているのではないか、ということを他者に感じる場合、「あなたはどうしたいの?」というような問いが出現する。
 しかしながら、他者が実際にどんな欲求を持っているかということは、決して知り得ない。そのため、他者が最大欲求に反した行為をしていると感じた場合、(普通そのような行為はしないはずなので)「なぜそのようにするのか」という(事前/事後の)意図の推論が生じてしまう。そのような場合に、「そのようにするってことは、こうこう思ってるからじゃないの?」というような問いが出現する。
 しかし、こうして「他者の行為の遂行」から得られた意図の推論は、あくまで推論であってそれが”正しい”かどうかは、決して判定することができない(どんなにコミュニケーションを取ったとしても、そこに疑えてしまう余地は必ず残ってしまう)。だとしたら、結局ひととひとはお互いにわかりあうことができないのか?

3. 過去との断絶の姿勢(2):「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」に対する違和感

(1)「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」という問いの文脈
 
まず、私が頻繁に「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」と問われた背景を見ます。

A=筆者、B=友達
A:会社畳もうと思ってるんだよね。
B:え、なんで?
A:なんかもうコロナでどうしようもない。
B:まあそうだよなぁ。じゃああのプロジェクトはどうするの?
A:めちゃくちゃやりたい。けど、現状どうしようもない。
B:そうだよね...気持ちはわかるけど、結局会社畳むも畳まないも、たくやがどうしたいかだと思うし、たくやがどうしたいかってのを一番大事にしてね。

 前節で確認した概念を参考にしつつ、前節での議論と比較しながら、最後の一見優しいフレーズに対して私が抱く「違和感」を見ていこうと思います。(*なお、ここでは相談に乗ってくれた友達を批判する意図は全くありませんし、今回いろんな場面で相談に乗ってくれた友達は、みんなほんとに優しい人たちです。あくまでも違和感を考える足掛かりにしているということを予め述べておきたいと思います。)

 まず、前節の会話とこの会話の「決定的な違い」を1つだけ指摘しておきます。それは、前節の彼女との会話では「行為が共同的」だったのに対し、この会話は「行為は共同的ではない」という点です。「行為が共同的/共同的ではない」とはどういうことかというと、前節の彼女との会話では「食べに行く」という行為を一緒にするのに対して、この会話では「会社を畳む」という行為を筆者と友達は一緒にするわけではない、ということです。

 その点を踏まえた上で、前節の概念を利用しながらこの会話を読み解いていきます。

(筆者の欲求・行為の事前の意図・認知的不協和)
欲求:(あのプロジェクト)めちゃくちゃやりたい
行為の事前の意図:会社畳もうと思ってる
認知的不協和:会社畳むと、あのプロジェクトが終わる(=現状どうしようもない)

 このようにシンプルにまとめることができます。そして、この後の相談では認知的不協和を軽減するための話が続くのですが、その続きの一部を見てみます。

A=筆者、B=友達
A:とりあえずは、自分の生活ができなくなるギリギリのレベルまでは、自分のお金突っ込んででも、いま働いてくれてるメンバーを守りたいし、その限りで事業は続けようと思う。もちろんちゃんと撤退基準を決めてね。
B:それはちょっと自己犠牲がすぎない?ほんとに自分の生活犠牲にしたいの?そこまでして、たくやが仮に働けなくなったら、元も子もないじゃん。
A:そうだけど、そういう風にならないような撤退線は必ず張るようにしてある。もし仮に俺が働けなくなっても、いま頑張ってる他のメンバーだけには、同じ苦しみを味わってほしくない。
B:友達の立場としては、たくやが犠牲になるのは、おすすめできない。
A:ありがとう。そう言ってくれるだけで、ほんとに救われる。
B:なんにせよ、まず自分を大切にしてほしい。自分が一番こうしたいと思う選択を選んで欲しい。自分がしたくない選択をして、自分を大切にしないことはしないでほしい。
A:ありがとう。でも、たとえそれがしたくないことであったとしても、この苦しみを味わうのが自分だけで済むのであれば、そうする。もちろん、死なない程度に。

 一気に複雑になりましたが、同じように前節の概念を用いて、この会話を整理してみます。

(筆者の欲求・意志・行為の事前の意図・認知的不協和の解消方法)
欲求1:事業を続けたい
欲求2:自分が生活できなくなるギリギリのレベルまでは自分のお金を突っ込む
意志:いま働いてくれてるメンバーを守りたい / 同じ苦しみを味わってほしくない
事前の意図1:会社を畳もうと思っている
事前の意図2:撤退基準を決めて、その限りで事業を続けようと思っている
認知的不協和の解消方法:自分を犠牲にする(≒自分が生活できなくなるギリギリのレベルまでは自分のお金を突っ込む)ことによって、事業を続ける / 同じ苦しみを仲間に与えない

 認知的不協和を解消する方途を模索することによって様々な欲求や事前の意図が浮かび上がってきますが、重要な点を以下3つにまとめます。

(1)「事業を続ける」という欲求に従っていること
(2)「事業を続ける」上で生じる可能性がある「同じ苦しみを他のメンバーに与える」ことは絶対にしたくないという意志があること
(3)(1)と(2)の認知的不協和を解消する方法として「自己犠牲的行為(≒自分が生活できなくなるギリギリのレベルまでは自分のお金を突っ込む)」という第3項を持ち出していること

 そして、友達の「それはちょっと自己犠牲がすぎない?ほんとに自分の生活犠牲にしたいの?」というのは、「否定的な意図の推論」にあたります(実際、私はこれを「自己犠牲」と認識しておらず、認知的不協和を解消する上での合理的な手段としか捉えていません)。また、最後の「なんにせよ、まず自分を大切にしてほしい。自分が一番こうしたいと思う選択を選んで欲しい。自分がしたくない選択をして、自分を大切にしないことはしないでほしい。」という発言は、「欲求最大値仮説」に則った行為をするであろうという前節の前提を引き継ぐと、至極真っ当なアドバイスです(こんなめんどくさい考え方をする以前に、今回はほんとに多くの友達に同様のことばをかけてもらい、その優しさにほんとに救われて泣きました)。

 さて、この状況(実際に私が目下直面している状況です)を改めて、「最大欲求と意志が対立する状況=ジレンマ状況」と解釈した上で、そのときひとはどうするのか?という観点で整理します。

(意志)他のひとに同じ苦しみを与えたくない
(ジレンマ)「事業を続ける」という最大欲求に従うと、意志に反する結果を導く可能性が高い
(そのときひとはどうするのか?)
a. 何かしらの形で、最大欲求を阻害する要因を取り除く
b. 何かしらの欲求を犠牲にする(自己犠牲的な行為をする)
c. 意志を優先して、最大欲求を諦める(このケースだと、会社を畳む)

 ここで筆者はbの選択をしているわけですが、友達はそれに違和感があって「否定的な意図の推論」を経て、「自分が一番こうしたいと思う選択を選んで欲しい」と言っています。そして、それ以上に重要なポイントは、「自分がしたくない選択をして、自分を大切にしないことはしないでほしい」ということばによって、自己犠牲的行為に反対、あるいは自分がしたくないことをする=自分を大切にしていない、という立場を表明しているようにみえる、ということです(*実際どういう意味があったのかはわかりませんが、私はそのように推論しています)。

 さて、私は、

これを「自己犠牲」と認識しておらず、認知的不協和を解消する上での合理的な手段としか捉えていません

と事前に表明していました。すなわち、ここではお互いに「否定的な意図の推論」が生じています(私→友達に対する「否定的な意図の推論」は、「自分が一番こうしたいと思う選択を選んで欲しい」ということに対する違和感と、いままさにここに書いているその(めんどくさい)分析です)。

 「そのときひとはどうするのか?」という(合理的な)行為の選択肢として、予め3つの選択をするであろうということを指摘しました。いよいよ最後に、この3つの選択を「偶然性」「相互作用性」「経時性」という3つの概念を操作的に利用することによって、私が抱いた違和感の本質を掴みにいきたいと思います。

*なお、「否定的な意図の推論」について、「本人が自覚していない「無意識」を他者が正確に指摘しているのではないか」という精神分析的な観点からの批判があることを重々承知している、ということを付け加えておきます。この点については、私自身不勉強なところもたくさんあり、現時点では力不足でその観点から考察する余裕がありません。また別の機会があったら、書いてみたいと思います。

(2)違和感の本質:「最大欲求に基づいて行為せよ」は分断を生むことがある

 まず、「序」にて私が予め述べた結論から入ります。

「わたしはこうしたい。だからわたしはこうする。」という一見正常かつ正当に見えるこの論理、あるいはそれに伴う行為こそ、ひととひとの間に「決定的かつ不可逆な」分断を生むことがある

 ここで「分断」ということばをもってして私が言いたいことは、「偶然性との分断」「(ひととひととの)相互作用の分断」「経時性(≒過去)との分断」という3つの分断です。それぞれどういう意味なのかを、最大欲求と意志が対立するジレンマ状況における3つの選択肢を検討しながら探っていきます。ジレンマ状況における3つの選択肢とは、

a. 何かしらの形で、最大欲求を阻害する要因を取り除く
b. 何かしらの欲求を犠牲にする(自己犠牲的な行為をする)
c. 意志を優先して、最大欲求を諦める

でした。ここでは、「欲求最大値仮説」に基づいた「最大欲求に基づいて行為する」という選択肢がありません(aが実現すれば、その選択肢が出てくる可能性はあります)。予め述べていた通り、「その時々の文脈や状況に応じて、最大欲求に基づいた行為ができないことは往々にしてある」し、このケースもそうなのです。それでもなお、「自分が一番こうしたいと思う選択を選んで欲しい≒最大欲求に基づいて行為せよ」というアドバイスが、正常かつ正当、そしてそれすらをも越えて優しさを感じてしまうというのは、一体全体どういうことなのでしょうか。

 いたってシンプルに解釈すると、最大欲求に基づいて行為することなど半ば不可能であるにもかかわらず(「欲求最大値仮説」は仮説でしかないのにもかかわらず)、やはりひとは「欲求最大値仮説」に基づいて行為するということが至極当たり前に受け入れられている、という時代に生きているということに尽きると私は思います。この時代性は、いったい何を意味するのでしょうか。

(2)- 1. 「偶然性」を覆い隠すという視点
 
まず、「偶然性」という概念をもとにその意味を考えます。「偶然性」とは、「いまたまたまこうなってしまっている」という程度の意味合いで理解しておけばとりあえずokです。
 ここではこれまでの議論と少し視点を変えて、「わたしはこうしたい。だからこうする。」「最大欲求に基づいて行為する」ということをした結果に目を向けてみます。そのような欲求に基づいて行為した結果(例えば、「この大学に行きたいと思った。一生懸命勉強した。その結果、合格できた。」みたいな感じです)から帰結することは、「わたしのおかげで/せいでこうなった」という観念です。
 しかし、いまの大学受験の例でいうと、ほんとうにわたしの「おかげ/せいでこうなった」と言えることなどあるのでしょうか?一生懸命勉強「できた」裏には、そもそも一生懸命勉強できる環境に「たまたま」いることができたこともあるし、勉強に集中できる環境に「たまたま」いることができたこともあるし...とあげればきりがありません。そして、究極的に遡っていくと、「このような環境に生まれ落ちてしまった」という、遡っても仕方がない原因にまで遡れてしまうのです。

 そのように考えると、「こうしたい」という欲求も、様々な偶然性によって支えられて生じてきたものであるということができます。そうすると、「わたしはこうしたい」というのはそもそも偶然的である部分がある(重要なのは、これは必ずしも全てが偶然であることを意味しない、ということです)ということを認識することができます。それは、「できたはずなのに、できなかった」「本来はこうあるべきはずなのに、なぜかそうなってない」「したいことがわからない」といういまを生きる人に蔓延る「自由であることの苦しみ」を軽減するものであると私は思います。
 「こうしたいからこうした」という結果生じる「わたしのおかげ/せいである」は、時に過度な傲慢さや無力感に帰結します。これは、個人にその原因を過度に帰属すると言う意味で「分断」を生むという傾向をもつものである、と私は考えます。

 そして、この偶然性を覆い隠す「こうしたいからこうした」という現象は、そのまま次の「相互作用性の分断」と大きく関わっています。

(2)- 2. 「相互作用性」を覆い隠すという視点
 「わたしはこうしたい」というのはそもそも偶然的である部分がある、という「偶然的」には、ほかのひととの関わり、その時々の環境や状況、生まれてしまったという厳然たる事実など...様々なレイヤーの様々な「過去」がカオスに絡まり合っているという意味があります。その中でも、「ほかのひととの関わり」という部分に着目して「相互作用性の分断」を見てみます。

 「わたしはこうしたい」という欲求が生じてきた契機を具に振り返ってみれば、「あの時、このひとにこう言われたことがきっかけとなってこうすることになった」という経験がある人は多いと思います(例えば私の例でいうと、たまたま高校の担任の先生が筑波大学を教えてくれて、筑波大学に進学することになったとか、たまたま友達が「世界青年の船」の話をしてくれて、「東南アジア青年の船」に参加することになった、など)。
 「わたしはこうしたい」というのは、暗黙裡に「(今この瞬間)わたしはこうしたい」という意味を含んでいます。これを「欲求の現在性」と呼ぶことにします。「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」というのも、(「結局」ということばが強く示唆するように)「いまこの瞬間、あなたがどうしたいかじゃない?」ということを示唆しているように感じられます。この欲求の現在性に従って行為すると、先程の「偶然性」を覆い隠すだけではなく、その欲求が生じてきた背景にあった「ひと」との関わりまでをも覆い隠してしまうことがあるのではないか、と私は考えます。
 これは、(私の勝手な推測ですが)「時に過度な傲慢さや無力感に帰結」する中の「傲慢さへの帰結」に大きく関わっていると考えています。その欲求を生み出す過程で関わってくれた様々なひととの相互作用を捨象して、「わたしは」こうしたいからこうした、というのは、そのような意味で「ひととひととの相互作用性の分断」を生んでしまう、と私は考えます。また、繰り返しになりますが、これは必ずしも「わたしはこうしたいからこうした」というのが常々ひととの分断を生む、ということは意味しません

 この相互作用性の分断は、偶然性の分断と作用しながら3つ目の「経時性との分断」に深く関わります。そして、この経時性との分断は、この遺書の裏の主題でもある「過去との分断」と読み替えることができます。

(2)- 3. 「経時性」を覆い隠すという視点
 その時々の欲求は、偶然的である部分があること、「わたし」という個人で完結するものではなく「ひと」との相互作用の中で生じてくるものもあることを確認しました。最後は、「時間(経時性)」という観点をここに付け加えて、私の違和感の本質を掴み切りたいと思います。

 「わたしはこうしたい。だからこうする。」というのは、偶然性と相互作用性という文脈において分断を生むことがあることを指摘してきました。そもそもその「偶然的である部分」と「相互作用的である部分」は、過去に生じたことであることがわかると思います。過去に生じたそのような偶然的・相互作用的な部分が相まって「こうしたい」という欲求が生じた...と考えると、「わたしはこうしたい。だからこうする。」というのは、偶然性・相互作用性を覆い隠すだけでなく、(相互作用性の箇所で「今この瞬間」という言葉を持ってして暗黙に示唆したように)「過去」をも覆い隠してしまうことがある、と言うことができます(しつこいですが、これは必ずしも、このような姿勢(「わたしはこうしたい。だからこうする。」)がいつも過去を覆い隠す、ということを意味しません)。

 そして、あえて「過去」を覆い隠すという視点で見ましたが、過去を覆い隠すような欲求に従った行為は、現在視点で見ると「未来」において「わたしのおかげで/せいでこうなった」という観念に帰結することがあります。これが「失敗」などというレンズを通してみると、「わたしのせいでこうなった」という過度な無力感を生じさせる契機になるだけではなく、「こうなってしまったらどうしよう」という不安を生む契機にもなり得ます。

 以上、「偶然性」「相互作用性」「経時性」との分断という視点で、「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」という問いと、その結果の行為がもつ意味を検討してきました。そして、ここまできてようやく違和感の本質を言語化することができるようになりました。
 その違和感の本質とは、ここまでしつこく指摘してきた「これは必ずしも...ということを意味しない」という点において、私が問われてきた場面は「偶然性・相互作用性・経時性を覆い隠しているのではないか?」と直観した、ということに他なりません。そしてその直観と違和感は、「どのような時にそれが偶然性・相互作用性・経時性を覆い隠して、どのような時に覆い隠さないのか?覆い隠さないとしたら、それはひとにどのような可能性をもたらすのか?」という問いに接続されます。

(2)- 4. 「どうしたい?」という問いがもつ超越的な普遍性と特異性
 わたしは、「それは結局、あなたがどうしたいかじゃない?」という問いを、様々な場面でここ8年投げかけられ続けてきました。この違和感を極限までブーストしたのが、2021年の2月に入ったMakers Universityという学生起業家のコミュニティでの友人とのやりとりでした。
 起業家という、ある種の特異性をもった集団内でそのような問いを投げかけられることについて、「それは文脈限定的だ」と片付けることは容易です。しかし私は、一見起業家・経営者繋がりという「仕事」とは対極に位置するように思われる恋人との繋がりという「生活(プライベート)」の場面においても、奇妙すぎるほど同じような問いを投げかけられたことによって、その問いにある種の特異性のみならず、時代や文脈を越えた普遍性をも見出すこととなりました。

 その問いに対して違和感を抱いたのは、紛れもなく「ひとはひととのつながりの中で生きる」という私の信念に反するような意味合いを感じたからに他なりません。「あなたはどうしたいの?」「わたしはこうしたい」という言明は、欲求や意志、行為を一個人の中に閉じ込めてしまうような作用をもっています(そうでない時ももちろんありますが)。これは、ある意味では近代西洋から生まれた個人主義的観念の帰結ともみることができますし、そこから生じる「他者の感情を同じように感じることは決してできない」という他者論の根深い問題にも通じます。

 しかし、私はここで、「結局わかりあえる時もあれば、そうじゃない時もあるよね」という相対主義的な考え方や、「結局分かり合えないものはわかりあえないんだ」というある種のニヒリズムに対しても、強烈な違和感を抱いていました。それは、たった一度「わかりあえない」という事象に直面しただけで、「わかりあえる」という楽観的な希望を反射的・反動的に退けるだけで、結局は同じことしか言っていないと直観していたからです。

 私は、単に楽観的に「ひととひとはわかりあえる」と主張するのでも、「結局はわかりあえないよね」と相対主義的・ニヒリズムに陥るのでもなく、あえて「ほんとうにその2つしか道はないのか?」と問おうとしました。それは、「できない」「わかりあえない」ということを認識してはじめて、「できる」「わかりあえる」部分がぼんやりと浮かび上がってくるのではないか?、ということを、たった23年と半年という短い時間ではあるものの、強烈な実体験をもって経験してきたからに他なりません。

 「できた」とき、「わかりあえた」ときはもちろん嬉しいし、幸せです。しかし、「できなかった」とき、「わかりあえなかった」とき、しょうがないよね、そういう時もあるよね、バランスの問題だよね、で片付けてしまいがちであることも、いまという時代を生きていると往々にしてあるのではないでしょうか。私は、そのような態度を取りません。「できない、わかりあえない、そうなってしまってもなお、できる余地はあるのか?わかりあえる余地はあるのか?」ということを探究しつづけます。そのための足掛かりとして、「できない」「わかりあえない」ということを認識しなければならない、そう考えます。

4. 過去との断絶の姿勢(3):「生」と「死」を垣間見た8年間

 思えば高校に入学してから今までの8年間は、連続的に「生」と「死」を垣間見た8年間であったと総括することができるように思います。

 小学校・中学校までの環境に嫌気がさして、地元を飛び出すような形で片道2時間かかる高校を進学先に選んだことが、この8年間のはじまりでした。高校3年間は、国際高校だったということもあり、同じ日本・同じ神奈川県内にいるとは思えないくらいのカルチャーショックの連続で、文字通りこれまでの当たり前が破壊され更新されていくような毎日を過ごしました。
 結果論的に見れば、その高校に進学したことが「はじまり」とすることもできます。しかしそれは、私個人の努力=そこそこ入試の難易度が高い壁を乗り越えたという「たった1つ」の事象にのみ帰属させられるものではありません。たまたまその高校が県立だったということ、姉の友人がその高校に進学していてたまたまその高校の存在を知れたということ、「行きたいところに行けばいい」という親のもとで育ったこと、辛苦あったものの3年間通い切る経済的状況であったこと...あげればきりがない無限かつカオスな事象が絡み合ってその「はじまり」が可能となった、という姿勢を私は断固として持っています。そういう意味で、これははじまりでもなんでもなく、偶然性と相互作用性によって生じ支えられている過去と繋がっている一連の出来事です
 最高の学習環境、友人に恵まれながらも、1年生の夏に熱中症で倒れ救急搬送されて以来、認識できる範囲で最初の鬱期と身体的な病気が発現しました。あれほどまでに「死」を身近に実感して、なおかつ毎日「死」を考えることは、もうそうそうないのではないかと思うほどに、強烈な強迫観念となって私を哲学の道に誘いました。
 そして、鬱状態で毎日薬を飲みながらセンター試験前日の夜までコンビニでバイトするという、今となっては狂気の沙汰としか思えない状態で選んだ大学進学も、私個人の努力=そこそこ入試の難易度が高い壁を乗り越えたという「たった1つ」の事象にのみ帰属させられるものではありません。病気と闘いながらヘラヘラ過ごしてた高校2年〜3年の7月まで、どの大学にするかすら何も考えてない状態で相談に乗ってくれた担任の先生がたまたま「筑波大学」を教えてくれたこと(その時まで、私は筑波大学の「つ」の字も、どこにあるかも知りませんでした)、鬱状態でも雇い続けてくれた今となってはなきバイト先、一緒に日本史・世界史の一問一答ゲームに付き合ってくれた友人...あげればきりがない無限かつカオスな事象が絡み合ってわたしが生きる・活きる(生活する)ことができている、という姿勢を私は断固として持っています。

 この姿勢は、大学進学後も、今もなお変わりません。高校が特異すぎて逆カルチャーショック状態に陥った入学後、4つのバイトを掛け持ちしながらなんとか生活を維持していた大学1年目、それに嫌気がさして飛び出すように参加した「東南アジア青年の船」、誘われるように日本語教育の世界に足を踏み入れ、文字通り私を世界に飛び出させてくれた「トビタテ!留学JAPAN」、それがきっかけとなってつながった人、仕事から、起業にいたり、さまざまなご縁が積み重なって、今があります。その時々、決定的な役割を果たしてくれた個人や出来事、発言は多々ありますが、それによって「無限かつカオスな事象が絡み合って何かが生じる」ということが否定されるわけでも、逆にだからと言って「その瞬間瞬間の出来事や発言、個人の貢献が色褪せる」ことにもなりません。
 そして最も重要なことは、「私は無力であり、他人のおかげでいまここにいられる」ということもまた意味しないということです。「無限かつカオスな事象が絡み合って何かが生じること」と「その瞬間瞬間の出来事や発言、個人の貢献が色褪せることにもならない」という両方に「わたし」という存在やわたしがした行為や努力も当然ながら含まれています。この8年間の間に訪れた躁状態の時の(振り返ってみれば狂気としか思えない)仕事量が決定的な役割を果たしたことももちろんありますし、私が努力したことが大きな要因となって掴み取ることができた結果ももちろんありますが、それは他の絡み合っている事象を無実化したり、無効化することを意味しません。

 「あらゆることは部分的に真である」ーひとことにまとめると、このことばに全て凝縮されます。その時々の状況という偶然性が絡み合う前提に立ちながら、完全にわかりあうことなど不可能であるという地平に立つことによって「わかりあえる」部分が浮かび上がり、相互作用を通じて逆説的に第3の道を見出すことができ、その意味で偶然性から解放された意志のある選択をすることができる...そこで生じている行為は、「個人」の最大欲求に基づいたものではなく、わたしとわたし以外のーひととひとのー相互作用に他なりません。

 私は「たまたま」双極性障害という特異性を持ってしまい、このタイミングで「たまたま」それを自覚しました。あえてそのレンズを通して過去8年間を振り返ってみると、病院に運ばれながら「死」を実感し(鬱期:2013年8月〜2016年3月)、軽躁状態(2016年4月〜5月 / 2017年3月〜)と安定期(2016年6月〜2017年2月)を繰り返し、異国の地で生きる意味を見出し(躁転:2017年11月)、狂気の活動量(軽躁及び躁が優勢の時期:2017年12月〜2020年8月)で数ヶ月単位で軽い鬱転や大きい体調不良を繰り返しながらも激変する外部環境に適応し続けた結果(鬱転:2020年9月)、精神的・身体的疾患による再度の「死」の実感という代償の果てに、種々の知識・経験・能力を得た、という見方になります。

 そして、この8年間の最初の鬱期であった16歳の時、本気で「(身体的な)死」を考えていました(実際、2回未遂しています)。色んな偶然や周囲の助けがあって今この瞬間も生きることができていますが、ちょうどその時によく聴いていた曲に、『16歳』(高橋優)という曲がありました。

語り継がれるひとの過ちを繰り返すために僕らは生まれてきたのかな?
汚れていくことが成長ですか?
些細なことで傷跡が増えていく頼りない心を、平気な顔して欺いているこの群れの中から、さあ抜け出そう、今すぐに。

やられたままやり返すことでしか、愛も憎しみも広がっていかないんだとしたら、僕はせめて誰かを愛したい。
さようなら、ひととひとの果たし合いと、厭いの涙よ。
僕らは多分立派なんかじゃないよ、だから何回も間違うんだろう。
でも瞳は、死んでないだろう。

 この曲を何度も聴いて、「自分が生きてきた16年という同じ時間分、せめて誰かを愛することで恩送りをしてから死のう」と強く決心したことを鮮明に覚えています(なので当時は、「俺は32歳で死ぬんだ」と周囲の友達や恋人に言っていました)。

 なんの因果かはわかりませんが、いまはちょうどその時間的な折り返し地点である8年がたった時です(そして、このエッセイを出した日が8月8日であること、いま所属している2つの会社の創業日がともに8月8日であることに、運命的な何かを感じざるを得ません)。当時の自分に、「相変わらず、周りの人に助けられまくっている」ということと「過去の過ちや痛みを繰り返してしまうことももちろんあるけれども、そんな中でもなお、誰かを愛し、恩送りをすることによって、よく生きているよ」ということを伝えてあげたいです。そうやって、23年と半年生きて、ようやく自分の人生を赦すことができるようになりました。

 そして、8年後の自分は、きっと身体的な死を選びません。私は、32歳になったら藝術家になります。それまでの8年で、何があっても(たとえ余命宣告などされようとも)身体的に死ぬことはせず、日本語教育(言語)の領域で決定的な仕事を果たします。その意味で、私の「過去との断絶」は、今後8年かけて行われるプロセスそのものであり、これまでの「わたし」を概念的な死に葬り去って藝術家として生まれ変わるための長い葬式であり、仕事を通じて世界とひとに働きかけまた私自身も働きかけられる儀式でもあります。
 このように思い至った直接的な契機が、最初に書いた新型コロナウイルスによる仕事環境の激変と最愛のひととの2回の別れであり、他のさまざまな事象がそこに絡み合って、この遺書を今後8年間に及ぶ断絶のプロセスの「はじまり」として位置づけることにしました。それは、これまで「自分の人生を許さず、他人のために生きるという志向性をたまたま持ってしまった自分」を葬り去ることからはじまります。
 自分の人生を赦さず、他人のために生きるー一見美しく見えるこの論理は、決定的な矛盾を孕んでいます。他人のために生きるためには、自分もなお生きなければならない、という点で自分の人生も赦さなければならないのです。その意味で、これまで「自分の人生を許さない」志向性を持ってしまってきた23年6ヶ月の「過去を断絶」する姿勢を維持しなければ、わたしとわたし以外の人生のーひととひとの人生のー分断を越えていく可能性を見出すことはできません(そしてこれは、原理的に不可能なプロジェクトですが、過去の断絶の不可能性は、そのままひととひとの分断の超越不可能性を意味しません)。
 そういう志向性を持ってしまったことに対する無力感に、さまざまなひととの相互作用を通じて働きかけながら、その無力感から解放された意志のある選択の余地をともに探していくー気付けば、ともに人生を歩んでいく心強い仲間がすでにたくさんいて、今回は特に彼らにものすごく救われました。

 2回の恋人との別れに見出した奇妙な言動の一致から始まった今回の思索の旅を、これまた奇妙すぎるほどの一致で締めくくりたいと思います。その奇妙にも一致した言動とは、別れる間際に

「(あなたは)エゴだよ」

と言われたことです。
 動かし難い現実に対して、諦念をもって受動的な適応をしてきたーその帰結として「せめて誰かを愛することで恩送りしてから死のう」という観念が生じました。徹底的に突き詰めた結果、確かに表面上は「誰かのため」になっていたかもしれません。そのように認識していたからこそ、「(あなたは)エゴだよ」ということばは、私の心に取り戻しがつかない深い傷を残しました。しかし、「誰かのため」を成り立たせる前提である自分を全く顧みていなかったという点においては、自己犠牲であり、自己満足であり、「エゴ」だったと認めざるを得ません。

 ただし、私はそれを「部分的に真である」という点においてのみ認めるにとどめます。結局は、完璧なる「誰かのため」も、完璧なる「自分のため」も、どこまでいってもイデアであって、どこにも存在しないのです(存在しないからといって意味がないわけでもありませんし、時には有効な操作概念となったりもします)。自己犠牲的・自己満足的・エゴイスティックな行為を繰り返すことによって周囲から頻繁に問われた「結局あなたはどうしたいの?」という問いは、私の行為の軸を「誰かのため」の極から「自分のため」の極に引っ張ってくれる上で極めて有効な問いであり、強烈な違和感を残し続けた結果としてこの地点にたどり着いたという意味で、非常に重要でした。そして、(ヴィトゲンシュタインに乗っかって格好つけて言えば)この「外そうと思っても外すことができない梯子」の上を登り続けていくことが人生そのものであり、「この梯子は外せない。だが、それでもなお外そうとする意志が生じてきたその時に、新しい地平が見えてくる。その景色をともに見たいひとと、人生を共に歩み続ける。」という点において、私は自己犠牲的に生きてきた過去を断絶する姿勢を持ち続けます。そして、これからも自己犠牲的に生きてしまうであろう自分を赦し、どうしても断絶できない過去を受け入れながら、ひととひととの分かち合いを通じて、より豊かな人生をいろんなひとと一緒に幸せに歩んでいきます。

最後に. Life review - 遺書に代えて

 最後に、たまたまこのエッセイを書いている時に読んでいた本(大津秀一(2020)『傾聴力ー相手の心をひらき、信頼を深める』大和書房)の一節に興味深いものを見つけたので、それに乗っからせていただいてエッセイを締めくくりたいと思います。


 緩和ケアの文脈においては、「ライフレビュー(Life review)」という現象が観察されることがあるそうです。本の中では、「死期が迫ると人は過去を振り返る傾向があり、過去を他者に語る、これまでの生(ライフ)を振り返る(レビュー)という行為となって現れることがある」(大津2020: 105-106)と説明されています。
 それに続く文脈で、「ディグニティセラピー」という治療法が紹介されています。それは、次の9つの質問の答えを記録して、大切なひとに残すというものだそうです。この9つの質問は、まさしくライフレビュー的だなと思ったので、この「遺書」の締めくくりにふさわしいと思い、その質問の記録をもってして過去との断絶という葬式のはじまりに変えたいと思います。

(1)人生で一番の思い出として残っていること、最も大切だと考えていることは何でしょうか?人生で一番生き生きとしていたと思うのは、いつでしょうか?

 東南アジア青年の船(2017年)に参加した際訪れたカンボジアでのホームステイ。共通言語がなく、3日間ひとこともことばを交わすことができなかったにもかかわらず、別れ際にお互い号泣するという衝撃的な経験をしました。「ひととひとは、ことばを通じてわかりあっているように思ってしまうことがあるけれども、決して他人の心は完璧にはわからない。だからこそ、「わかりあえた」と思う瞬間に、ひとは大きな喜びを感じる」という、私が生きる上で最も大切な教訓を得ました。
 自分の人生を赦し、どんな逆境にいようとも心強い仲間と共に生きている実感があるいまこの瞬間が、一番生き生きとしています。

(2)皆さん自身のことで、ご家族に知っておいてもらいたいことや、ご家族に覚えておいてほしいことが、何か特別にありますか?

 特に父と姉へ。どういう経緯があったか、なぜそうなってしまったのか、本当によくわかりませんが、かれこれ10年以上ひとことも会話していない状態が続いてしまっています。「自分の人生を赦す」ことは、運命的にこの家族に生まれ落ちてしまったことを赦す、よりよい未来をともに歩んでいくことももちろん含んでいます。現状、私と父は万が一新型コロナウイルスに感染すると重症化リスクが高いため、接触することができませんが、ゆっくりと時間をかけながら対話を積み上げていくことが、そして死に際「この家族に生まれてよかった」と心の底から思えることが、「生まれてきてくれてよかった」と思ってもらえることが、何よりの願いです。

(3)人生で果たしてきた役割のうち最も大切なものは何でしょう?なぜそれは重要なのでしょう?そしてその役割において、成し遂げたことは何ですか?

 役割としてシャドー(影)を担うことが多く、それが果たしてきた役割で最も重要でした。会社の経営、野球のゲームキャプテン、プロジェクトの実行、ひとの相談に乗ること...光がより一層輝くために、影はより一層濃くなければなりません。これは、自分だけが自分の人生の主人公ではなく、ひとはひととともに生きるという観点において、「ひとに支えられる」重要性を実感する上で外せない経験値でした。まだ多くは成し遂げてませんが、これからも時にシャドーであり続け、時に自分も輝き他のひとの人生を照らせるように、人生を歩み続けます。

(4)成し遂げたことで最も重要なことは何ですか?一番誇らしく感じたことは何ですか?

 こうしていま、たくさんのひとに救われながら生きていること、これが成し遂げたこと(今現在も成し遂げ続けていること)で最も重要です。これは同時に、自分の人生を許すための最重要条件でもありました。気がついたら、たくさんのひとに恵まれていた、ということに一番誇りを感じます。

(5)愛する人たちに言っておかなければならないと感じているけれども、伝えられていないことはありますか?できればもう一度言っておきたいことはありますか?

 「あなたが思っている以上に、私はあなたに救われました。ありがとう。」ということばを、直接伝えたいです。「あなたがいてくれたおかげで、いまこうして生きることができています。ありがとう。」と、もう一度直接伝えたいです。

(6)愛する人たちに向けての夢や希望はどんなことでしょうか?

 健康で、笑顔で楽しく幸せに人生を歩んでほしいです。そこにいてくれるだけで、他に何もいりません。人生を歩むという過程の中で、どうしても避けることができない苦しみという副作用が出てきて、もしそこに私が必要であれば、できる限りそばにいて、寄り添いながらともに同じ人生を歩みたいです。

(7)人生から学んだことの中で、他の人に伝えておきたいことは、どんなことですか?ご家族に残しておきたいアドバイスや教訓、導きの言葉は、どんなものですか?

 ひととひとは、どう頑張ったってお互いを完全にはわかりあえないけれども、だからといって全くわかりあえないわけでもないということ、そしてわかりあう過程の中では、苦しみという副作用が必ず生じるけれども、時に立ち止まったり時に対話したりして、お互いに歩み寄ることを諦めなければ、必ずや喜びも悲しみも分かち合うことができる、ということを伝えたいです。

(8)将来、家族の役に立つように、残しておきたい指示や言葉はありますか?

 Those who do not remember the past are condemned to repeat it(過去を忘れるものは、それを繰り返す運命にある)ということばを残したいです。何かの苦しみに直面した時は、自分や他人、先人の過去に学ぶよう伝えたいです。

(9)このずっと残る記録を作るにあたって、他に加えておきたいものがありますか?

 ここまで私の人生に関わってくださった全ての方に、深く感謝します。
 これからさき、どんなひととともに人生を歩み、どんなひととどんな景色を見ることができるのか、とても楽しみで仕方ありません。その過程で、どんなに苦しいことがあったとしても、「生きててよかった」と必ず思うことができると信じて、これからも人生を楽しく幸せに歩んでいきます。

(おまけ:ここ最近読んだ本で、今回の思索に大きな影響を与えたもの)

 最後に、たまたま書店で手にとって、自分の思索を「ひととひとがわかりあうための、わかりあえない論」であると確信させてくれた本を紹介して終えます。


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