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小川洋子の「謝りたい」と、もう一つのコンパッション

小川洋子のエッセイから


 小川洋子さんのエッセイにこんな文章をみました。ミュージカルにはまって楽しむ小川さんに、コロナ禍がせまります。

 いよいよ、そう、本当にいよいよ、(ミュージカルの)序曲が鳴り響こうとしている。
 これがコロナ禍前の私だ。あの頃は、何もかもが当然だと思っていた。そのことを、誰かに向かってかはよくわからないが、謝りたい。すべては奇跡だったのだ。

すべては奇跡(小川洋子「遠慮深いうたたね」河出書房新社 2021 p86)
※( )筆者 補足

 だれというわけでもない「あやまりたい」おもい。自分がたのしいおもいをしているのに周りが大変なことになってることへの申し訳なさ。自分がわるいことをしているわけでもないのに、感染した誰かに、コロナ禍のだれかに、何にも関係ないのに、「あやまりたい」という小川さんの姿・・・・そう考えていると、どうしても頭によぎる謝罪の言葉がありました。

  中村草田男の俳句に「直面一瞬 ゆるし給はれ 冬日の顔々」というのがある。これは瀬戸内海にあるハンセン病(昔は癩病といった)の療養所のある島を訪れた時の句である。訪れた船を出迎える、冬の夕焼けに照らされた人々の顔は、花がなかったり、目がただれていたり、無惨に崩れている。それを見た瞬間、まったく自然発生的に思わず「許してください」という心の叫びがでたのである。この人々がハンセン病にかかったことについては作者は何の責任もない。したがって負目や罪悪感を持つ必要は論理的にはまったくないわけである。


霜山徳爾(2000)素足の心理療法 十八終章 p342
(「多愁多恨亦悠悠ー霜山徳爾著作集6ー」)学樹書院
 

 これ。霜山徳爾先生の名著。若い心理臨床家に向けた著作。
 島を訪れた俳人・中村草田男と、病人と、まったく無関係。でも、触れてしまった以上さけられない、どうしようもなくほとばしる叫び。上記の一句を受けて霜山先生は続けます

 これはまた、心理臨床にとって示唆的な句ではないだろうか。アルツハイマー性の痴呆、緊張病性の昏迷状態、内因性のうつ病のふかい憂愁、外傷体験による無残な心理反応・・・初診のこれらの患者を前にして、最初に出てくわれわれの臨床的な気持ちは、やはり「許し給はれ」ではないだろうか。

霜山徳爾(2000)素足の心理療法 十八終章 p342
(「多愁多恨亦悠悠ー霜山徳爾著作集6ー」)学樹書院

「ゆるしてください」とコンパッション 



 思わず「ゆるしてください」とほとばしる、その根底にある態度はコンパッションだ、と鶴田(2010)は解きます。他者の苦痛を、苦悩に深く共感し、そしてその痛みを取り除こうと願う態度。先の、霜山先生の句の引用に触れて、こういいます。

限界状況に置かれた人々に対しては「ゆるしてください」という言葉が自然と漏れる。運の乏しさに逢い、モイラ(運命)に打たれた人々に対する共苦(compassion)から内面的に「許してください」という言葉が迸り出る。そしてこれはともに人間であることへの治療者(カウンセラー)のひたすらな「祈り」にも似た気持ちである、と霜山は述べる

カウンセラーが如何にいきるかー卓越した心理臨床家・霜山徳爾の生き方を手掛かりにしてー
鶴田一郎 2010 広島国際大学教職教育論叢 創刊号

 そうか。コンパッションに満ちた態度。苦しみを抱えた人とともに苦しむ(共苦)態度こそが、大切なんだ。その態度のもとには、苦しむ病人も、詩人も、同じ地平に立たざるを得ないため、ほとばしり出る言葉こそが、「ゆるしてくだしい」なんでしょう。

 鶴田(2010)はコンパッションをこう説明します

 一般には「思いやり」、宗教界では「憐れみ」と翻訳されている言葉だが、神学者で司祭であったH.J.M.ナウエン(Henri J.M.Nouwen)によって次のように明確に解説されている。「コンパッションという言葉は、ラテン語のpati(苦しみに耐える)とcum(共に)からなり、この二語をくみあわせて『共に苦しみ耐える』ことを意味する。コンパッションは、何者かが傷ついている状況へと赴かせて、痛みを負っている他者の立場へと入っていかせ、失意や恐怖、混乱や苦悩を他者と分かち合わせるようにさせる。コンパッションは、悲惨な渦中にある人とともに声を出して一緒に泣いたり、孤独に苦しむ人とともに悲しみを共有したり、むせび泣く人とともに涙を流すことを私たちに促す。それはまた、弱い人とともに弱くなり、傷ついた人と共に気ずつき、無力な人とともに無力になることを要求する。コンパッションは人間存在の本質に完全に浸りきることを意味する」(Nouwen,1983)

カウンセラーが如何にいきるかー卓越した心理臨床家・霜山徳爾の生き方を手掛かりにしてー鶴田一郎 2010 広島国際大学教職教育論叢 創刊号
(なお、Nouwen,1983の出典はMcNeil,D.P.,Morrison,D.A.,Nouwen,H.J.M.(1983) Compassion,a reflection on the Christian life. New York,London,Toronto,Sydney,Auckland:Doubleday.)


 司祭のナウエンの引用が主です。そう、クリスチャンの司祭の言葉。ここにもう一つのコンパッションがあります。キリスト教を基礎としたコンパッション。
 昨今注目の「コンパッション」概念のバックグラウンドは仏教。クリスティーン・ネフのセルフコンパッションも、ポール・ギルバートのコンパッションフォーカスセラピーでも仏教がベースになっています。
 ポール・ギルバートの定義では

自分自身や生きとし生けるものの苦しみに対する深い気づきを伴う、基本的なやさしさであり、苦しみを和らげようとする努力と一体となるもの

Gilbert,P.(2009)Intrducing compassion-forcused therapy .
Advances in psychiatric Treatment 15,99-105
(デニス・ターシュ他著 2021 ACT実践家のためのコンパションの科学
ー心理的柔軟性をはぐくむツールー北大路書房, の引用より孫引用)

 

 仏教が背景のコンパッションのほうが、より行動的、かつ積極的に「和らげよう」としているのが違うようにも思えます。でも双方、似ているように思えます。キリスト教ー仏教の違いこそはわかりません。瞑想にも様々な宗教の瞑想があるのとおなじように、「コンパッション」も信仰こそ異なるものの、古く伝統的にある、同じような概念なのかもしれません。

小川さんにみる、コンパッション

 小川洋子さんが、「だれともなく」あやまりたい、と思った言葉は、病人を前にほとばしり出た「許してください」と同じような響きにおもえていました。自分の小さな日々の営みとは、何の因果関係もない、感染症というわざわいを前に思わず出た言葉。関係のないものどおしを結び付け、世界の痛みを、自分の痛みとして共にしようとする作家の気概ように思えます。小川さんは、ホロコースト文学(強制収容所の体験記)において、生死の極限状況である強制収容所内でも文学が求められたことに触れ、ほかのエッセイでこう結んでいます。


 強制収容所の人々に文学が届いた、という事実は、私を励ましてくれる。改めて文学に誇りを感じる。死を前にした人に、なお喜びを与えるような作品を、自分もかなければならない、と思う。

答えのない問い(小川洋子「遠慮深いうたたね」河出書房新社 2021 p234)

 この姿勢。コンパッション、といいたい。読者の苦しみと共にあろうとするような、読者の痛みを和らげようとその思いに一体化するような姿勢といえるのではないでしょうか。
 

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