ウズベキスタン02 サマルカンド前編
ウズベキスタン02 サマルカンド編
1日目ウズベキスタンサマルカンド空港に到着しました!夜に到着したのでホテルに直行して次の日に備えます。(入出国編も書いてみようかな)
翌日、サマルカンド観光をしました!
サマルカンドはサンスクリット語の人々が出会う街を意味します。青空にブルーのドームが映え、地上で最も美しい都市と称されるシルクロードの中心地として栄えました。
街の中心レジスタン広場
まず向かったのはグリエミール廟です。
グリエミール廟は14世紀から15世紀ティムール帝国時代の王様、「ティムール」とその息子と孫が眠る墓です。ティムールは35年間の遠征で負けなかったウズベキスタンの英雄でもあります。ティムールがモンゴル人だったという説がありますが、それは否定できます。なぜなら、モンゴルで偉い人はハンがつくからです。チンギスハン、フビライハンなど皆、「ハン」が付きます。しかし、ティムールの本名はアーミール・ティムールなのでモンゴル人ではなく、現地の人だと言えます。
グリエミール廟の外観
ミナレット、ドームが遠くからでも美しく見ることができます。
グリエミール廟入り口
青色のタイルが美しく目を奪われます。
門の間からドームを見ることができます。
次に中に入り、親子3代の墓を確認します。
実際の墓石があるところの入り口
中に入るとそこは金箔で装飾された美しい内装が広がります。
ティムールが眠る墓
地下にも墓がようだが、地下の墓は偉い人だけしか入れない。
また、この墓はティムール自身が自分のために作ったわけではない。誰のためだったかというと、大好きな孫の為に作ったようだ。なぜかというと、もともと王位継承人は息子の予定だったが、長男は若くして戦死してしまった。だからその息子である孫のためにつくったとされる。
しかしその孫も18歳の頃死んでしまった。孫の名前はモハメツーサンという。時系列的にはこうなります。
1402孫死ぬ
1403お墓できる
1405ティムール死ぬ
故に、後継が最後まで決められなかった。
後継が決められず死んだことが国内にバレてしまったら内戦戦いが起こる可能性が高かった。だから、このグリエミールに静かに墓に葬ったとされる。
墓の天井
天国を表す植物のデザインがある
親子3代が眠る墓
騎馬族のお墓聖なるお墓とされる
ティムールは中の内装、デザインにこだわっており、全てのデザインの意味を持たせている。
例えば、
金箔 お祈りの死
菱形のデザイン モハメドサン
星型 宇宙
緑 天国
などである。
ウズベキスタンでは魂はまず、宇宙に行って裁判を受けるとされる。そのため、まず、宇宙を表す星型を通り、天井の天国に行く流れを表現している。このことから天井には植物的なデザインがたくさん見られる。
現在の内装の95%よ金箔は塗り直したものである。なぜかというと、生活が厳しいと現地の人に盗まれてしまったからである。
入り口が一つしかないのにも理由がある。それは、観光客が多すぎてゲートの入り口を変えたから。入り口の写真に木の棒が確認できるが、昔は絨毯がかけてあって偉い人が来た時に外からは見えないようになっていたようだ。
木の棒が確認できる
グリエミールの次は、旅行ガイドに必ず載っているレジスタン広場に向かう。
レジスタン広場
観光客が世界各国から来ている。また、現地の人も確認できた。
ここで、ウズベキスタンの名前の由来について話そう。ウズベキスタンの宗教はほとんどがイスラム教が信じられている。イスラム教はアラビアから来たものだからアラビア語が多い。アラビア語でスタンは土地、国の意味である。英語で言うところのランドと似た意味である。ランドが付く国として、ドイチェランド🇩🇪、イングランド🏴がある。
同様に、スタンが付く国はたくさんある。例えば、カザフスタン🇰🇿、アフガニスタン🇦🇫、キリギスタン、ウズベキスタン🇺🇿だ!
写真のレジスタン広場は別名砂の広場とも呼ばれる。昔は、水が溜まり、湖だったこともあったが、干上がり、砂体積したことから砂の広場と呼ばれるようになった。
レジスタン広場は誰の管理下にもなかったため、様々な人が店を出店し、バザールを形成した。現在、そのバザールは無くなり、近くの建物のメデレセの中に作られるようになった。
王様はイスラム教を学ぶことができるメデレセ(神学校)を作った。現在の専門学校みたいなところである。このレジスタン広場にあるメデレセら600年前に作れたとされる。さらにもう一つのメデレセを作った。それがシェーダールメデレセである。
ウズベキスタンが平和になってくると、メデレセのように学ぶ場所を作ることができるようになり、教育に時間を使えるようになった。そのため、ウズベキスタンからは多くの文化人、科学者を排出した。
写真からわかるようにメデレセは二階建てである。
その目的は学生が泊まれる寮にする為である。
上の写真の塔のようなものはミナレットと呼ばれる。ミナレットは少し傾いてるのだが、これは地震の影響で傾いた。しかし、600年以上前にこれだけ高い建造物を作る技術を持っていた事には驚愕する。
上の写真にあるメデレセを見れば数学、幾何学、建築学、天文学があったことがわかる。
なぜかと言うと、タイルを正確な位置に配置したり、左右対象な塔を作る事ができたりしたからだ。
また、メデレセに書かれている模様は全て文字である。預言者を表すアラなど、全てに意味がある。
次は陶器の種類について見ていこう。ウズベキスタンの陶器は土地によって様々な陶器がある。
それは、土地によって土が違うからである。
一例として、ブハラ焼き、サマルカンド焼き、タシケント焼きについて説明する。
ブハラ焼きは幾何学な焼きが特徴的である。薄くはない。800-900で焼くことから、叩いてみた音は低くほとんどしない感じがする。
サマルカンド焼きは叩いても音がほとんどしない。サマルカンドブルーという色はここから来ている。
タシュケント焼きは1番いい土と言われている。 そのため、1200-1300にしても焼くことができ、叩くと
音がいい音する。
メデレセの中 二階だてであることがわかる
様々な模様があるが、鹿は知識、太陽は神学校を表す。太陽は人々を平等に照らすように、教育も平等に行われることを意味するようだ。
次に、モスク ティラカリに向かう。サマルカンドの日本の金閣寺に値する。
全面金箔が貼られており、眩しいぐらいの輝きだった。
その後、昼食会場に向かった。昼食は、民家で現地のものを食べた。料理の風景はこんな感じ
数人でシェアして食べるスタイル
ピラフ
現地ではプロフ、オッシュというらしい
ウズベク人が一番好きなものはピラフである。日本で言うところの寿司のようなポジション。
日本のピラフの作り方が違う。
まず、
鍋に油綿実油を入れ、
玉ねぎフライ、
牛肉を切って油で揚げた後
人参を乗せ、米、水を入れる完成である。
具材は家庭により、様々で羊の肉を入れたり、オレンジを入れたりするようだ。今回は、うずらたまごも入っていた。
また、ウズベキスタンで多くみられた食べ物として、ナッツがある。
上の二つを足したものが下の一枚みたいな感じになる。
昼食が終わると次に向かったのは、 シャーヒズィンダ廟群である。長くなったので、後編へ!
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