まやかしのポジティブ プロローグ【小説/ヒューマンドラマ/心理学】
-1- まやかし
「よし、こんなもんかな」
マイは、鏡に映った自分の顔を確かめた。
昨日は少し、興奮して寝付くのが遅かったが、顔に寝不足の跡はない。
1Kの部屋の壁際には、本棚が並んでいて、「自分のやる気を引き出す10の法則」「宇宙の力を取り込むポジティブワード」「これで大丈夫! 運が良くなる50の習慣」など、マイにとって気分が上がる本が並んでいる。
マイは、本棚の前に立って一冊の本を手に取ると、そっと開いた。
何度も読んだせいか、折り目や線、メモ書きなど、使い込まれた痕跡が、いくつものページに残っている。
(直接話しできるかな……)
プリーツスカートのポケットに入れた、小さなメモ帳を取り出す。箇条書きにされた質問は、暗記するほど何度も見返した。全部聞いてもらえないにしても、一つは……
「あ、そろそろでなきゃ……!」
メモ帳をポケットに仕舞い、バッグを持つと、マイは家を出た。
自宅から最寄り駅まで15分、いつもより早足で歩いて、12分ほどで駅に着き、ちょうど来た電車に乗った。空には青空が広がっており、てっぺんに向かっている太陽が車内を照らして、キラキラしているように見える。
目的の駅で降りると、スマホを確認してバスに乗った。なんども行き先を確認したが、周囲にはチラホラ、自分と同じ場所に向かうだろう人たちがいて、同じバスに乗ると、少しホッとした。
バスで走ること20分。目的の場所に到着すると、海の音が聞こえた。ほのかに潮の香りがして、目を閉じて浸っていたい気持ちになったが、ぞろぞろと歩いていく人たちに合わせるように、マイは道路の向こう側にあるホテルに足を向けた。
20年ほど前に建てられた海沿いのホテル、竜宮卿は、できた当初は話題になったが、その後サービスの質が今ひとつということで客足が遠のき、一時は経営危機に陥ったが、オーナーが変わってから一新、食事もサービスも別物のように向上し、今では庶民の贅沢レベルの高級ホテルに数えられるまでになった。
「わぁ……」
会場に入ると、マイは思わず声を漏らした。
宴会場らしい会場には、両サイドにテーブルが並べられ、軽食やペットボトルの水が置かれてる。中央には、約500人分の椅子が所狭しと並べられており、前の方の席はほぼ埋まりつつあった。
マイは、周囲を見ながら、スタッフに軽く挨拶をすると、ペットボトルの水と軽食、セミナーのプログラムや商材のパンフレットを受け取り、前から5列目の一番右側の席に座った。椅子には、簡易なテーブルが付属しており、受け取ったものと持ってきたノートとペンを置くと、荷物を椅子の下に置いた。
(みんな、すごい人たちなのかな……私みたいなのがいるのは場違いかな……)
前方の席で、名刺交換をしながら盛り上がっている人たちを見ていると、体が縮んでく気がした。あなたのような人が来る場所? 今からでも会場を出て家に帰ったほうが気が楽じゃない? そんな言葉が矢継ぎ早に浮かんできたが、マイは口をぎゅっと閉じて姿勢を正すと、受け取ったプログラムに目を通した。
やがて、セミナー開始まで10分になると、席はほぼ埋まり、集まった人たちの会話が四方八方から聞こえて、会場は熱気を帯びてきた。目には見えないが、そこには多くの人の期待があり、それもきっと熱量を上げているのだろうと、マイは思った。
「みなさん、お待たせしました」
セミナー開始時間になると、会場の明かりが消え、前方に設けられたステージにスポットライトが灯った。
「本日は、タティオ・ジャーニイの“人生が輝き出す秘蔵の教え”のセミナーにお越しいただき、ありがとうございます。五時間という長丁場になりますが、みなさんの人生が大きく変わるキッカケになることをお約束します」
進行役の女性が言うと、会場から大きな拍手と歓声が起こった。
やがて、本日の主役であるタティオが登壇し、さらに大きな拍手が起こり、セミナーが始まった。所々に入ってくる、セミナーで教えられたことを実践するワークや、周囲の人たちとの意見交換など、刺激的な時間が過ぎていった。
濃縮された二時間が過ぎたところで、15分の休憩があり、その後は最後まで続いた。タティオがステージから降りると、大きな拍手で包まれ、会場が閉まるまでの一時間は、参加者同士の交流の場となり、マイも控えめながら、何人かと話して、セミナーで受けた興奮を語り合った。
「ふぅ……」
充実感とは裏腹に、疲労感を感じて、壁際に設置された椅子に腰を下ろした。
「……?」
ふと、壁際を見ると、一人の男性が壁に寄りかかり、会場を見渡すようにしているのが視界に入った。険しい顔をしており、誰とも口を聞こうとしない。
(もしかして、人と話すの苦手なのかな)
こういったセミナーに来る人でも、積極的に話をできない人もいる。そういう自分を変えたいと思ってくる人もいるし、マイ自身も、最初の頃はそうだった。話したくても話しかけられない。馬鹿にされるかも、つまらないと思われたらどうしようなど、頭の中に浮かぶネガティブに足止めされ、俯いてしまう。何度もそういったイベントに参加しているうちに、少しずつ慣れたが、今でもまだ、自分では積極的とは思えなかった。
「あの……」
立ち上がって声をかけると、男はマイに視線を向けた。
「大丈夫ですか? すごい熱気だから、人に話しかけるのも一苦労ですよね」
マイが言うと、男は顔から険しさを消して、
「そうですね、お気遣い、ありがとうございます」
と言った。
「あ、いえ……私も、中々溶け込めなくて、今もまだ、人がたくさんいるところ苦手だし……」
「俺も似たようなものです」
「こういう場所は、初めてですか?」
「いえ、初めてではないです。タティオさんの著書も読んでます。今回は、本人がいったい、セミナーでどんな話をするのか、どういった振る舞いをするのか、確認しにきたんです」
「振る舞い? 確認……?」
「ええ」
「えっと……それで、何か分かりました? 私は、やっぱりすごいなって思って。本に書かれてることだけじゃなく、書かれてないことまで、たくさん話してくれて、実践まで……」
「まやかしだ」
男は、切り捨てるように言った。
「え? まやかし?」
「分かっていたことだが、あまりにも酷い。とはいえ、やはり自分の目で確かめたいと思ったから参加したんだが、結果は予想を越えて酷かった」
「酷かった……? あの、何がまやかしなんですか?」
「ここにあるすべてが、だよ」
「すべて……?」
「残念ながら、君の言葉も」
「私の言葉がまやかしって、どういう意味ですか?」
「君は、必死に自分の感情を抑えようとしてるが、心の中では俺の言葉に腸が煮えくり返っている。そうじゃないか?」
「なんで、そんな……」
「声のトーンが変わった。それに、言葉遣いも、強い言い方をしたいのに、無理やり敬語にしてる」
「……!」
「ここに来たのは、さっきも言ったように確認のためだ。そして、もう確認はできた。失礼する」
「ちょっと……!」
男は、熱気あふれる会場の中を一筋の冷気が通るように、会場を出ていった。
一人残されたマイは、周囲の音が遠くに聞こえていた。
まやかし……
その一言が、頭から離れなかった。
-2- 再会
「急ですみません、はい、はい、よろしくお願いします」
上司に休みの電話を入れると、マイは再び、ベッドに体を横たえた。
一昨日、あの妙な男と話したあと、会場にタティオが来て、参加者は盛り上がり、周囲に人が集まった。疲れのほうが強くなっていたマイは、壁際の椅子に座って、その様子を見ていたが、タティオと目が合って、こっちにおいでという雰囲気を出されたが、立ち上がると同時にトイレに言った。
楽しみにしていたセミナーで高揚し、一回り大きくなったはずの自分が、鏡を通してひどく小さく見えた。しっかりメイクしてきたはずが、疲労感が強く、暗い。
「……」
会場に戻ってタティオさんと話そう……頭ではそう思ったが、体はその気になれず、マイは一人、会場をあとにした。
家に帰るとホッとして、ゆっくり食事をしてボーッとして、翌日はいつもどおり仕事に行ったが、あの男の言葉が頭から離れず、今日は休みを選択したのだった。
まやかし……
体を起こして、窓の外を見る。
陽が昇り、光が顔を照らして、少しずつ暖めていく。
あのセミナーがまやかし? 今まで参加したセミナーの中で、一番盛り上がっていたのに。
『残念ながら、君の言葉も』
私は確かに、あのとき怒りを覚えた。人生を変えたいと思って参加してる人たちを馬鹿にするような言い方……タティオさんのことも酷いって……私は本もたくさん読んで、苦しかった人生を変えてきた、まやかしなんかであるはずがない……
「……」
そう思うのに、何かが胸に引っかかっていて、自分の考えが納得まで落ちていかない。
理由が分からず、体がムズムズした。
結局、本を読もうにも集中できず、午前中が終わり、午後になってノロノロと出かける準備をすると、一人で夕食を食べるために外に出て、食べ終わると、バーに向かった。
「いらっしゃい、マイちゃん」
木製のドアを開けると、店主のエリナが言った。
BARプティーノは、エリナという女性が経営する店で、バイト二人と三人で回しているが、まだ時間が早いせいか、エリナ一人で、お客も奥のカウンター席に座っている一人しかいない。
席数20ほどの広さと、老舗のような雰囲気をもつ店内は、少し入りづらい印象を受けるが、一人で飲むには最適で、見た目に反して酒豪のマイは、ちょくちょく顔を出していた。
「なんだか疲れてるみたいね、何かあったの?」
マティーニを出しながら、エリナは聞いた。
「あ、まだ注文……」
「今日は一杯目から強いのいきたい気分かなと思って。ハズレだったら私がいただく(笑)」
「当たりなので、いただきます(笑)」
カクテルを一口、流し込むと、体が”ほわっ”として、少しだけざわつきが収まった気がした。エリナとのやり取りがそうさせたのか、酒のせいのか分からなかったが、自然、口元が緩んだ。
「また会ったな」
一瞬、自分に向けられた言葉とは気づかず、マイは反応できなかった。数秒して、店内には自分と、先に来ていた客以外いないことを思い出し、顔を向けた。
「あなた……」
奥に座っていた男は、先日セミナーで話した男だった。すべてはまやかしだと言った、あの男……
「知り合いだったの?」
エリナが口を挟む。
「え? ううん、知り合いってわけじゃ……」
「見たことあるって感じ? まあ作家さんだし、顔を見たことあっても……あれ? でも顔出ししてたっけな」
「作家さん? あの人が?」
マイが声を大きくすると、エリナは目をパチパチさせた。
「ん? 知らなかったの? 知ってる風だったけど」
「知らない……名前も知らないし」
「なんだそうなの。
彼はラディス。けっこうたくさん本出してるわよ。小説がメインだけど、それ以外にもいろいろ。去年も確か……なんだっけ? 一番新しいやつ」
「ポジティブリスク」
「そう、それ!」
マイは、その名前に聞き覚えがあった。本のタイトルも、本屋で見かけたことがある。タティオの本と並んで置かれていて、手に取ってパラパラを読んでみたことはあったが、不愉快な気持ちになって閉じたのを思い出した。
「この間は失礼した。仕事の一環だったものでね」
ラディスは言った。
「仕事の一環? あの場に参加することがですか?」
「現代社会には、ああいうものが多い。ほとんどの人間は、心のどこかで人生をもっと良くしたいと思っているから、そういう人たちのモチベーションや願う気持ちを食い物にして、ポジティブであることを強要する。まるで、ポジティブは教典で、タティオのような連中は教祖のように振る舞う。俺は、そういう“ポジティブ信仰”が嫌いでね」
「ポジティブであることの何が悪いんですか?」
マイは語尾を強めた。
「いや、ポジティブが悪いわけじゃない。必要だし、人生をいい方向に導くためには、重要なものではある」
「だったらなんで……」
「あれは俺の感想だ。君がポジティブ信仰を信じるなら、俺はどうこう言う気はない」
「信仰って……あなたはあの場所に参加した人たちの気持ち、想像しましたか?」
マイは言った。
「事情は違うけど、みんな一生懸命、自分の人生を良くしようと頑張ってるんです。なのに全部を否定するようなこと……あなたみたいな人がいるから、苦しむ人が減らないんです! 頑張ろうとしてる人を否定するようなことして楽しいですか!?」
「本物の光を知るには、闇と向き合わなければならない」
ラディスが静かに言うと、マイは言葉に詰まった。
「なんですか、本物の光って……私は、物事をポジティブに捉えて……」
「それをまやかしと言うんだ」
ラディスの言葉は、ようやく絞り出したマイの言葉をかき消した。
「そんなはずない……! 私は……」
「あの場所で行われていたことも、君が実践していることも、やがて身を滅ぼす。今は大丈夫だろう。鎮痛剤のように、いっときの安息も得られる。だが心に溜まった”気づかないフリをされた者たち”は、やがて限界値を越えて爆発する。そうなって気づけるならまだいいが、すべてが壊れても受け入れることができず、破滅の果てまで行ってしまう者もいる」
「じゃあ……じゃあ私みたいな人間は、何やってもダメってことですか!? 苦しんで、でも負けたくないって頑張って、今だって一生懸命、少しでも人生を良くしようって、変えようとしてるのに、その全部が無駄っていうんですか……!」
水が沸点を越えて溢れるように、マイは頬を濡らした。
「すまない」
ラディスは頭を下げた。
「君が自分の人生を変えようと、苦しいことに負けずに頑張っていることを否定するわけじゃない。変えるために行動することも間違っていない。ほとんどの人間は、口にはしても変わろうとはしないし、行動を続けられるのは、それ自体がすごいことだ。でも、せっかくの思いも、やり方が間違っていたら、たどり着く場所も間違える。
向日葵を咲かせたいのに、チューリップの種を植えるのは、そもそも間違いだろう? 育てるための栄養も、おかしなものを与えれば枯れてしまう。人生で望むことを得るためには、自分が咲かせたい花が咲く種を植えて、ちゃんと咲くように育てなきゃいけない。一朝一夕でできることじゃないし、枯れそうになることも、思ったように育たないこともある。それでも手入れし続けることで、やがて花は咲く」
「そんなこと言われたって、どうすればいいか……」
「知りたいか?」
「え?」
「今すぐ決断しなくていい。ポジティブ信仰ではよく、今すぐ決断しろと言われるが、考えろ」
「……」
「向き合う覚悟ができたら、連絡を」
ラディスは名刺を出すと、マイに差し出した。
「俺はそろそろ行くよ。お騒がせして悪かったね、エリナさん」
「平気よ。でも、もう少し優しく話してあげるのが紳士かな(笑)」
「気をつける」
ラディスが店を出ていっても、マイは受け取った名刺を、まだ乾ききらない目で見つめていた。
本物の光を知るには、闇と向き合わなければならない……
二日前と同じように、言葉に囚われていた。
闇、闇って……
頭の中で繰り返される疑問に答えられる知識はなかった。
本棚を思い出しても、疑問はただ、広がるだけだった。
-3- 闇への誘い
「彼、不思議な人よね」
ナッツと水を置きながら、エリナは言った。
「常連さん? あの人。初めて会ったけど……」
「そうね、頻繁に来るわけじゃないけど、長く通ってくれてる。最初に来たのは、確か二年ぐらい前かな。初めて来たときからあんなふうに、自分の世界を持ってて、どこか人を寄せ付けないような雰囲気だった。でも話してみると、けっこう柔らかいところもあって、知識は豊富なのに人の話も聞けて、いつ来ても感情が安定してる。だからこっちも、話してて安心しちゃうのよね。でもさっきのマイちゃんへの話し方は、なんだか優しさが足りない気がした。いつもと違う感じだったわ」
「作家になる前は、何をしてたのかな」
「さあ……作家として活動し始めたのは、確か五年前だったはずよ。それ以前は何をしてたのかしらね。普通にサラリーマンとかかも」
エリナは顔を逸して、続けた。
「ただ一つ言えることは、彼はこれまで、店で問題を起こしたこともないし、礼儀正しい人だってこと。疑う気持ちも分かる。でも、もし何か引っかかるものがあるなら、連絡してみていいと思う。マイちゃんの人生がどう変わるか、私には分からないし、決めるのはマイちゃん自身。でも悪いことにはならない。その点は、私が保証する」
エリナはそう言って、マイの目を見た。それから、自分用に入れたビールのグラスを、マイのグラスにそっと当てた。
「……ありがとう、エリナさん」
家に帰ると、マイは名刺を取り出してテーブルに置いた。
「……」
本物の光を知るには、闇と向き合わなければならない。
本棚に並んだ本、どれを手に取っても、そんなことが書かれているものはなかった。記憶を辿っても出てこない、参加したセミナーでも、ポジティブであることが幸福度を上げてくれる、道を切り開いてくれる……そう学んできた。なのに、闇を知る……
(ネガティブを否定しない、見るってこと? でも、それは……)
数年前のことを思い出して、マイは大げさなほど、首を横に振った。背中が丸まっていき、奥歯に力が入る。胃のあたりが重く、ベッドに入っても中々寝付けなかった。
それからの一週間は、ラディスの名刺がテーブルに置きっぱなしになっていること以外は、以前と変わらなかった。
タティオのセミナーで学んだことを、少しずつ実践して、うまくいっているような気持ちになったが、どこか思い切れない自分がいて、明るく振る舞ってみるものの、どこか腑抜けた感覚で、なんでこうなんだろう……という気持ちから、高額のセミナーに出たのに、という気持ちまで浮かんできて、何をやってもダメな自分が、心を占めるようになった。
ラディスと話してから、10日が経った。
朝起きて、歯を磨くまでは、いつも通りだった。だが天気予報を確認しようとスマホを見て、体が固まった。
『タティオ・ジャーニイ氏、逮捕。数年に渡る粉飾決算、負債額は約120億円』
一瞬、本棚に視線が移った。
脳が認識した著者名は、今スマホに表示されている人物と同じ名前で、記事を見る限り、同一人物で間違いなかった。
タティオは、複数の会社を経営しており、順調に成長していることをセミナーでも語っていたが、実際にはそうではなく、セミナーや情報商材の売上でカバーしてきたが、それも限界を迎え、ついには隠しきれなくなり、倒産となったという。
「嘘……だってセミナーにあんなに人が来てて、本だってたくさん……」
ポジティブに考えればうまくいく、問題は問題ではなくなる……タティオはそうやって、会社を大きくして今の地位を築いたはず。なのにこんなこと……
マイの頭の中に、いくつもの疑問が浮かび、ニュースそのものが誤報、メディアの嫌がらせではないか、実際にはもっと軽微なことなのではないかという思いが浮かんだ。
思いは手に伝わり、他の情報サイト、タティオのコミュニティサイトを確認すると、マイは違和感を覚えた。他の情報サイトには、先程見た記事と同じものが書かれていたが、コミュニティサイトは、一言でいえば荒れていた。
タティオが逮捕されたのは、政治家がその影響力を恐れたからだ、倒産したのではなく、させられたのではないか、これは国家権力による統制の始まりだ……すべてが、タティオは何も悪くなく、罪を着せられたというようなコメントで、冷静に確認しようなどと書き込もうものなら、おまえは検察のスパイかと言われて袋叩きにされる……読み続けるほど、マイの中に不安が膨らんでいった。
マイも、否定したい気持ちはあった。今も、頭の一部は「ありえない、何かの間違い」という言葉が残っている。しかし、コミュニティを覆っている空気感は、異様に思えた。
『まかやしだ』
初めて会ったとき、ラディスが口にしたことが浮かんだ。
テーブルに置いたままになっている名刺に目がいったが、仕事に行かなければいけないことを思い出し、1.5倍速で準備をして家を出て、仕事を終えるとその足でプティーノに向かった。
「あらマイちゃん、いらっしゃい」
エリナは笑顔で言ったが、マイはキョロキョロと落ち着かない様子で店内を見てから、カウンター席に座った。
「どうしたの? 誰かと待ち合わせ?」
「あの、ラディスさんは……?」
「あれから来てないけど、彼に用なの?」
「用っていうか、その……」
「ん?」
マイはためらいがちに、すべてを話した。ラディスとの出会い、セミナーのこと、タティオの逮捕のこと……エリナは、時々相槌を入れながら聞き、話が終わると、
「ショックね、それは」
そう言って、ビールグラスを置いた。
「それでラディスさんと話しをしたいって思ったのね」
「はい。でも、今更ですよね、もう、10日も経ってるし……」
「そんなことないと思うけど。
あ、だったら、それも一緒に伝えてみたら?」
「それも?」
「連絡するのが遅くなっちゃったけど、こういうことがあって、話がしたいって、素直に言うってこと」
「でもそんな……」
「変に遠慮して連絡しないよりマシよ。もしそれで断られたら……そのときは、今日はたくさん飲もう。付き合うから」
「ありがとう、エリナさん……分かりました、連絡してみます」
マイはスマホと名刺を出すと、ラディスの番号を鳴らした。コールはするものの繋がらず、切ろうとしたとき、声が聞こえた。
『もしもし』
「あ、えっと……あの、マイです、セミナー会場と、バーでお会いした……」
『ああ、どうも』
「あの、今さらなんですけど、こないだ話してたこと、もう少し詳しく聞きたくて……」
『今さらってことはないと思う』
「え?」
『今がそのタイミングだったんだろう。人間、そう簡単に考え方は変えられない。何か大きなキッカケでもなければ』
「……」
『今どこにいる?』
「プティーノです」
『じゃあそっちに行く。そこで話そう』
電話を切って30分ほどすると、店のドアが開いて、ラディスが入ってきた。
「わざわざすみません……」
椅子から立ち上がって頭を下げると、ラディスは困ったように、
「謝るようなことじゃない。普通にしてくれ」
そう言って、マイの隣に座った。
「奥に行く? 他のお客さん来たら、話しに集中できないかもしれないし」
「お言葉に甘えるよ」
マイも特に異論はなく、二人は奥のカウンター席に座った。
「何があった?」
ラディスは、マイの顔を見ながら聞いた。
「ニュースで見たかもしれませんけど、タティオさんの会社が倒産して、逮捕されたって……」
「ああ、その件か」
「馬鹿げてると思うかもしれませんけど、私にはショックで……だって、彼の本を読んで、セミナーにも参加して、確かに自分の人生は少しずつ良くなってるって感じてたから。それなのに、こんなことになって……」
「何も馬鹿げてないさ。自分が信じてたものが崩れるようなことがあれば、誰だってショックを受ける」
「でもラディスさんは、セミナーを見たとき、まやかしだって……」
「そうだな、確かにそう言った」
「私には、まだその意味は、分からないですけど……でも、タティオさんのコミュニティサイトを見てたら、なんだか怖いっていうか、おかしいって思ってしまって……おかしいのは私のほうかもしれないのに」
マイがコミュニティサイトの状況を話すと、ラディスは軽く、何度か頷いた。
「人間は、自分が信じていたものが壊れると、正当化するように解釈を変えることがある。認知的不協和というやつで、とくに珍しい反応じゃない。君よりも反応は極端だが、信じていたものが嘘だった、という現実を受け止めきれずに、なんとか自分を守ろうとしてる。だから、この先どんな事実が出てきても、一定数は信念を強めて、タティオを神格化していくと思う。そんなことをしてもなんの救いにもならないが、止められるものでもない」
「私、そこまでは思えなくて……でも、どうすればいいのか分からなくなってしまったんです。何を信じればいいのか、これからなのに、もっと人生を変えたいって思うのに、どうすればいいのか分からなくなってしまって……」
「苦しいよな、何処に行けばいいか分からない、突然目の前の道がなくなってしまったような感覚」
ラディスは、バランタインのロックで口を潤しながら、一瞬遠い目をした。
「道標がなくなれば、暗闇の中で一人ぼっちになるようなものだ。怖いし、不安だろう。自分が頑張ってきたことはなんだったのか、ときには他人に馬鹿にされても続けてきたのに、そのすべてが無駄だったってことなのか……そんなふうに考えてしまう。そして自分を責めてしまう」
「分かるんですね……なんでかな、私ってそんなに分かりやすいですかね……(笑)」
無理に笑顔を作ると、ラディスは表情を変えずに、
「俺にも似たような経験があるからだよ」
と言った。
「え? あなたに……?」
「タティオがなぜこうなったか、コミュニティサイトがなぜそんなふうに荒れてるのか、その答えを知るには、闇を知る必要がある」
「闇……」
「どうする?」
「……」
「強要はしない。苦しいことでもあるし」
「自分に覚悟があるのかどうか、分かりません。ラディスさんがいう闇の意味も、向き合うというのが、どういうことなのかも……でも……でも私は人生を変えたいんです……! ずっと苦しかった、でも少しずつ改善できてたはずで、このまま終わりたくない、昔に戻りたくないんです……!!」
それ以上、言葉は続けられなかった。
声が詰まり、代わりに溢れてくる涙は、みっともないと思うほど止まらず、ハンカチを出すことも忘れて、感情が流れ続けた。
「店からよ」
エリナは、二人の前に、ホットグラスに入ったお茶を出した。
「リラックス効果がある。熱いから、ゆっくりね」
「エリナさん……」
「いろいろあるわよね、人生。でも大丈夫よ。ちゃんとまた歩ける」
「ありがとう、エリナ」
ラディスはお茶を一口飲むと、マイを見て、
「今日はもう、帰って休むといい。明日から始めよう」
と言った。
「明日の場所や時間は、こちらから連絡する。ちゃんと寝るんだぞ」
それだけ言い残して、ラディスはこのあとの飲み代まで想定した代金を払うと、店を出ていった。
本物の光を知るには、闇と向き合わなければならない。
その言葉の意味は何か、自分に向き合えるのか、受け止められるのか……
不安はあったが、このまま終わりたくなかった。今、唯一確かなそれだけが、マイを支えていた。
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