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CITY POP ♪ 昭和のシティポップ 1980年代編 VOL.4 <最終回> マニアック名曲編

こんにちは、Hideです🎶

CITY POPと呼ばれ都会的でお洒落な音楽が、最近全世界で注目されています…

1970年〜80年代、私が10代~20代の頃にリアルタイム聴いていたシティポップを、特集を合わせて4回に渡りお送りしてきたわけですが、今回が最終回になります。

前回までは、当時流行していた、ミーハー的な目線で割とベタなチョイスでしたが…

最終回でもある今回は、ちょっとマニアックな名曲達を紹介します。

当時、音楽好きだった方なら、「これっ、知ってる良く聴いてた🎶」と若かりし頃を振り返って、当時の記憶が蘇ってくるリスナーもいらっしゃると思います。

日本が生んだシティポップの中でも、ちょっと渋めでマニアックかなと感じた曲をお送りします。

最終回なので、日本のシティポップってこんなに格好いいんだ、心に染みるなぁ〜と感じていただければ嬉しいです。

では〜🎵


80年代 ドライブのお供にはいつもシティーポップがあった

悲しい色やね -OSAKA BAY BLUES-/ 上田正樹 1982年10月21日発売

作詞:康珍化 作曲:林哲司

1072年にデビューした上田正樹 10年目にして記憶に残るヒットとなった名曲

オリコン週間最高順位:5位 TBSザ・ベストテン:6位

1983年度オリコン年間順位:26位 

1983年度TBSザ・ベストテン年感じ順位:28位

長い期間ヒットチャートに残りロングヒットとなった。


京都市出身の、関西が生んだ日本を代表を代表するR&B・ソウルシンガーでシンガソングライターである。

この曲は、大阪という地域活性にも、貢献した歌だと感じている名曲です。

上田は、医師であった京大出身の父の後を継ぐ為、自身も医学部を目指していた。

高校当時、岐阜に住んでいて、友人に誘われて観に行ったアニマルズのライブに衝撃を受け、ミュージシャンを志す様になる。

82年当時、都会的でお洒落な音楽なヒットする中、この曲は初めて聴いた瞬間から、大阪に住む人の目線を歌った歌詞に驚いた。

大都会の大阪だが、この曲を聴くと、妙にローカルの雰囲気が有り”地元の人が歌う地元の街”という感じが強く、何とも不思議な風情を感じてしまったのは私だけでは無いだろう。

いくつももの河が街中を流れる大阪の街並みを、訪れた事のない私が、関西弁のハスキーボイスでなおかつ女性目線で歌っていたのが、凄く聴いている側に対してインパクトがあった。

大阪の街のイメージを、多くの人に伝わった曲でもあったと思う。

1972年のデビューから、何度かバンドの解散などを経ていた上田が、音楽活動を始めて10年たった82年「悲しい色やね」が大ヒット、一躍上田正樹の名は世の中に広がる。

デビューから10年もの間、ヒット曲に恵まれなかった上田に対して、担当ディレクター関屋が、当時ヒットメーカーだった作曲家林哲司を起用し、詩は林とコンビを組む事が多かった康珍化に依頼。

康が関屋に”関西弁の女性目線で書いて良いか?”と尋ね関屋は驚き、作曲の林は詩を見るなり「こんな演歌みたいな曲は売れない」と感じたらしい。

関屋は、洒落たメロディーと関西弁の歌詞がハスキーな上田の声が合うと感じていた。

当初タイトルを「OSAKA BAY BLUES」とする予定であったが、「悲しい色やね」とし副題に〜大阪ベイブルース〜を入れたとというエピソードがある。

当時、杉山清貴等の売れっ子ミュージシャン達にお洒落なメロディーを提供していた林の作った曲と、今までにはない斬新かつブルージーな表現の歌詞が、上田のソウルフルなハスキーボイスと見事に融合して、昭和を代表するシティポップの名曲が生まれた。

現在は、74歳のベテランシンガーであるが、当時高校3年生だった私の記憶にも、大人の恋の切なさが大阪を舞台に描かれていたこの曲が、記憶に刻まれています。

まさに日本を代表する、地域に根ざしたブルース感溢れるシティポップの名曲です。

風立ちぬ / 松田聖子 1981年10月7日発売

作詞:松本隆 作曲:大瀧詠一 

10代の揺れ動く乙女心をナイアガラサウンドに乗せ見事に表現

第23回日本レコード大賞 ゴールデンアイドル賞受賞

オリコン週間最高順位:1位 TBSザ・ベストテン:2位

同タイトルのアルバムにおいても、オリコンLP部門で1位を記録した

冒頭にマニアックなシティポップと言いつつ、何故ここで80年代の超アイドルだった松田聖子?と思われる読者の方も多いだろう。

「風立ちぬ」は聖子の7枚目のシングルなのだが、当時シティポップが流行り始めた頃で、業界自体も試行錯誤をしていた時期であり、それまでにない音楽を作ろうとしていた。

松田聖子という、当時のアイドル中のアイドルで「ぶりっ子」なんて呼ばれていたくらいの、かわいい系アイドルだった。

デビューする前は、さほど大きな期待もされていなかった聖子は、蓋を開けると歌唱力や表現力が、今までのアイドルと比較して遥かに長けていると見抜いたレコード会社が新たな試みにチャレンジし始めた。

シングル4作目に、当時チューリップというバンドでボーカルと楽曲制作を担当していた、財津和夫に聖子の曲制作を依頼し、それまでにないニューミュージック的な曲の雰囲気を出す事に成功、見事曲もヒットしオーディエンスからの評価も上がり新たなファンも獲得した。

そこから始まった試みの一つとして、当時アルバム「ロンバケ」で大成功中だった、大瀧を作曲とサウンドエンジニアとして起用し、聖子の新たな境地を開いた作品である。

大瀧自身の「ロンバケ」をアイドル松田聖子にも見事に取り入れることに成功した。

大瀧のサウンドエンジニアリング、楽曲制作やプロデュース面でのクリエイターとして、松田聖子という80年代を代表するアイドルを素材に、また一つ金字塔を打ち立てたのである。

当初、聖子はこの曲を渡された時、「私にはこんな悲しい歌は歌えない」と語ったそうだ。

しかし、そこで引いてしまわないのが、この松田聖子という歌手なのだ。

当時、忙しさのあまり声を上手く出せない状態だった為、精神的にも不安定になっていた聖子だったが、そんな苦しげな歌声と心の様子が”恋人と別れる10代の揺れ動く乙女心”を描く曲の内容がタイミングとして合ってしまったのが、よりリアル感を出したのだろう。

大瀧のナイアガラサウンドと呼ばれる、音を幾十にも重ね、重厚感や音の広がりを感じさせるサウンドエフェクトが見事に、夏から秋へと変わる季節のティーンエイジの女の子が感じた気持ちを表現するのに、見事にアジャストしたのだ。

大瀧自身もこの曲の制作とサウンド作りに関しては、かなり気合いが入っていたらしく、出来上がってからの自己評価も高くクリエイターとしての自信をより確信した作品である。

この松田聖子さんて凄い歌手なんですね〜

大瀧詠一の持つ才能さえも自分の力にしてしまう。

アーティストの枠を超えた、人間的パワーを感じますね。

当時何気なく聴いていた人も、再度よく聞き直して下さい。

私の記事の内容がお分かりになると思います。

音楽関係者からの評価も高く、彼女のジャズ風な「スウィートメモリーズ」と並び、80年代の傑作として挙げられている。

日本を代表するクリエイターと、若い天才女性シンガーが出会い生まれた80年代、いや日本を代表する傑作の名曲です。

Night Line / 阿川泰子 アルバムとして1983年9月21日発売

作詞作曲:Drey Sheppered/Gerald Kenny

阿川泰子 8枚目のオリジナルアルバム

神奈川県鎌倉市出身のジャズシンガー

テレビのお洒落なバラエティー番組にも出演し、容姿端麗なルックスで、日本におけるジャズシンガーという地位を大衆に広げたシンガーである。

当時、その上品な容姿を生かし、テレビCMにも曲と共に出演していた。

彼女はアルバム中心の制作活動を行なっていた。

この曲は同LPのタイトル曲で、CMにも起用され、阿川の代表曲でもある。

このCM動画集を観ると、当時どれだけ阿川の歌声と容姿が時代が求めていられたかがわかる。

歌詞は全曲英語詩だが、ジャズ歌手の独特の雰囲気はなく声や歌い方はかなりポップだ。

この曲もそうだが、コピー機のCMは多かった。

お洒落な大人の女性に見えて、歌は可愛らしい甘い声で、そのギャップがまたウケた要因かもしれない。

しかしスローナンバーを聴くと、本物のジャジーな歌を聴かせてくれる。

私もレンタルではあったが、アルバムが出る度に、阿川の曲をカセットで聴いていた。

この「ナイトライン」というアルバムは作家陣に、ビリー・ジョエル、ドナルド・フェーゲン、ルパート・ホームスらを起用し、ジャズに拘らないオリジナル・ポップ・アルバムに仕上げた。

バックミュージシャンは当時の阿川のレギュラーバンドを中心に構成され、クオリティーの高さを追求するのではなく、より一体感が出るライブ感を出したかったのではないかと、聴いた私は感じている。

アレンジは野力奏一と松木恒秀。1983年1月、東京でレコーディングされている。

ジャズに馴染みのない人でも、聞きやすい声とメロディーラインになっている。

80年代は、ジャンルがどうのとこだわる事な、もはやナンセンスという雰囲気が漂っていた。

先の上田や聖子もそうだが、あらゆるジャンルのシンガー達が、作家陣やそれに携わるサウンドクリエイターやミュージシャンが、枠を超えて良い音楽を作ろうと結集してできたのが、日本発進のシティポップという音楽でないかと感じています。

この時代において阿川のジャズシンガーの枠を超えた活動は、日本の音楽界の発展に貢献した一人で、残した曲はシティポップに名を刻んだ作品だと勝手ながら評価している。

It's Magic / MARLENE 1983年9月21日発売

作詞:Linda Hennrick 作曲:安藤まさひろ(T-SQUARE)

フィリピンマニラが生んだ天才シンガー マリーンの名曲

フィリピンマニラ出身の天才ジャズシンガー。

フィリピンの天才少女と言われ、テレビ番組でつのだ☆ひろが紹介した事がきっかけで、レコード会社からスカウトされ契約に至った。

この曲も、当時人気フュージョンバンドだったT-SQUAREの安藤まさひろから提供を受けた、音楽業界では日本ジャズ界の名曲と言われた。

この曲は、先の阿川と同時期の発売で、同じジャズシンガーではあるが、聴くと全く異なる部分が多く、それぞれの魅力を持つシンガー二人である。

マリーンは、天才と呼ばれたのがわかる、リズム感とハリのある声や、はつらつ感ある歌い方は、ロックに近いと感じる。

フュージョンに近いジャズで、勢いのあるお洒落感覚というのか、とにかく元気なイメージが彼女の売りだろう。

私も19歳の時(84年)にレコード会社でバイトしていた時期に、仕事で生のステージを観たが、生で観る彼女は想像以上に迫力を感じた。

一見日本人と変わらない容姿だが、スリムな体から出る迫力ある声と、体全体を使った魂溢れるパフォーマンスは圧巻だった。

彼女なら、どんな音楽でも上手に歌えるだろうという可能性さえ感じた。

当時は、サウンド面もジャズ感を押し出したかったのだろうか、音が細く繊細過ぎたように感じられた。

マリーン本来のパワーを引き出すなら、生意気ながらジャンルなんかに拘った音作りではいけないと思った。

この「It's Magic」は、当時音楽業界では名曲と言われたが、阿川ほどメディアへの露出も少なく、大衆にはイマイチ知名度がなかった。

マリーンほどの実力者は、もっと評価されなければいけないと感じました。

少し、マリーンは先を行き過ぎていたのかもしれない。

当時、ジャパ行きさん等、東南アジアから仕事で来られた人には、偏見がまだ残っていた時代でもあった。

マリーンより以前に、ジェイクホーンセクションという、当時最強の管楽器グループの中心だった、ジェイクもフィリピン出身のサックス奏者で、アジア諸国で「King of Sax」と称されるサクソフォーン奏者である。

その後、作曲者の安藤率いるT-スクエアのライブにゲスト出演したりしている。

私の中では、この曲はすごくイカしたパワフルな、シティポップだと感じている名曲です。

PLASTIC LOVE / 竹内まりや 1985年3月25日発売 

作詞作曲:竹内まりや プロデュース:山下達郎(夫)

竹内まりや12枚目のシングル作品

アルバム『VARIETY』収録曲 ファンの支持が高く、翌年同LPよりシングルカット

この曲は、竹内まりや6枚目のオリジナルアルバムの収録曲でシングルカットとしてリリースされた。

まりや通算6枚目のアルバム 当時はLPレコードとして84年にリリースされたヒットアルバム

デビュー当時はアイドル不在の時期で、その容姿からしどる的ポシションを担わざる得なかったが、ころ頃は、シンガーソングライターとして他の歌手への楽曲提供も行いながら、自作の曲をリリースしていた。

80年代中期、近代的サウンドとしてシンセサイザーが多用されていた時期だったが、夫でありプロデューサーでもあった達郎のコンセプトにより、まりやの曲は極力シンセサイザーは利用しないと、達郎のラジオ番組で語っている。

この曲もイントロの冒頭から、達郎サウンドが炸裂しているが、曲はまりや作のもので、見事に達郎サウンドと融合して、”都会で働く女性の自由な恋愛”を描くシティポップになっている。

この曲は、80年代中期のシティポップの代表曲として挙げられるほどの名曲である。

グが、デジタル楽器を使わないで都会的サウンドを演出するあたりは、」もうこの夫婦の類まれなるセンスとしか言いようがない。

都会の大人の女性心を、シンプルな楽器が織りなすサウンドは、素晴らしいシティポップを作り上げたと私も絶賛しています。

シティポップを語る上で、まりや達郎コンビは欠かせないミュージシャンであり、そこから生まれたこの曲を含めた数々の作品達は、どれもシティポップにはなくてはならない曲達だ。

渚・モデラート/ 高中正義 1985年6月21日発売

作詞:リリカ新里 作曲:高中正義

高中正義通算13枚目のシングル オリコン30位

薬師丸ひろ子が出演しているCM曲としても起用されている。

基本、高中のギターソロを中心としたインストロメンタルだが、楽曲の雰囲気を盛り上げる要素として、印象的な女性コーラスが挿入されている。

単にギタリストとしての曲というより、トータル的に構成した上で考え作られた作品で、高中の「ブルーラグーン」と並ぶヒット曲・代表曲になっている。

音楽家:高中正義をより世間に認知させた曲だ。

ギタープレイとしては、メロウで大人の雰囲気の中、ロックティストなハードなギタープレイが光る曲だ。

この気だるい都会の大人の雰囲気の中に洒落たサウンドを感じるシティポップだ。

この時期、スクエアやカシオペア、シャカタクといったドラマやテレビ番組に起用され始めインストロメンタルのフュージョンが、大衆ウケするようになった頃でもある。

高中はいち早くその地位を確立したミュージシャンで合ったが、この曲でこれまでの夏の日差しを感じるトロピカルイメージから一皮剥けた大人のお洒落な曲への進化したシティポップの名曲です。

鈴木英人の描いたリゾートのイラスト

シティポップ シリーズ 総括

それまで音楽的に前例がないとか、こんなのは売れないと思われた曲が、ヒットすることは音楽業界では80年代当時では珍しくはなかった。

日本も音楽業界においても変革期で、それまでの昭和時代の古い固定観念が強かった時代から、新たな日本文化が徐々に生まれてきた時期でもあった。

それだけ日本の音楽業界も、70〜80年代は成熟していなかった為、オーディエンスも作家陣、アーティストも含め、手探りで必死に良い音楽を探していた頃でもある。

70〜80年代は、そんな、日本では歴史の無いジャンルの音楽が育っていく過程だったのだと思う。

だからこそ、時代を経ても我々の心に残る名曲達が数多く誕生したのだろう。

80年代は、私が高校生に入ると同時にスタートして、20代半ばまでの時期だった。

一番多感で、アーティステックな物への感覚が研ぎ澄まされていた自分でもあった。

そのような若い感受性のより強い時期に、こんなシティポップと呼ばれる、素敵な時期にリアルタイムで出会えたのは、今でも本当に恵まれていたと思います。

お金じゃ買えない貴重な時間だったのだなぁ〜と振り返ればつくづく思うのでした。

現在、勝手に感じている自身の感性はこの頃に育まれたといっても過言ではない。

人が育つ時、やはり環境というのは絶対大切だし、そこで自身が何を感じてそこから何を吸収するかで、その後の人生がより豊かなものに変わっていくような気がする。

高度成長期も終わり、混沌とした70年代も落ち着いた、バブル景気に湧く日本社会の中で、感じてきたものは本当に大きかったと感じています。

後世にも受け継がれている元となった音楽に出会えた事に、感謝してこのシリーズを終えたいと思います。

私にとっての80年代は本当に宝物です。

Hide少年のRock’nRollスピリッツの原点でもあります。

これからも、私なりの観点から楽しい音楽の話題を記事にしていきます。

では、全5回「CITY POP」シリーズを読んでいただき本当にありがとうございました。

妥協する事なく書いたので、相当ボリューミーな長い文章になってしまいましたが、今後ともよろしくお願いします。

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