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リベラルが永遠に不自由である科学的理由


ウイルスが暴き出すポリティカル・コレクトの盲信者たち


コロナウイルスと呼ばれる感染症の社会的影響が強くなってから自分のSNS周りで変化が起こった。

普段は発言しない人が発言し始めたり、発言まではしなくても他人やメディアの記事をシェアしたり、少し変わったものとしてはアイスバケツチャレンジ的に人から人へとバトンを渡してあるテーマに従ってポストするといったことをする人が、感覚的にはなるが増えた。


発言することや参加すること、更にはその内容も個人の自由。それが保障されているのが日本という国。そして、それを閲覧する側がどうこうしようとそれも個人の自由。

自分はウイルスに関して、「べき論」と「ユートピア論」を”その人の固有の主義主張を介さずに”ポスト、シェアしている人はFacebookやTwitterの友人関係から外させてもらっている。


なぜか?

自分は「べき論」と「ユートピア論」が科学的に正しくない状態だと思っているので、(自分から見れば)そのことを無視して”政治的に正しい”ことを声高に主張する人が”嫌い”だからだ。そして、”嫌い”なポストが自分のウォールを埋め尽くすことの不快さを呑み込めるほどの大陸のような心を持っていないからだ。


科学的な矛盾を抱えて必然的な不幸に陥るリベラル


社会的な動物としての人間の遺伝子が石器時代を含めて数万年単位でほとんど変化していないことはドーキンスが言うまでもなく遺伝子学の中で明らかにされている。

そして人間が如何に動物的であろうと社会的であろうと、全人類が同一レベルでの幸福を同時に享受することは論理的に不可能だ。当たり前の話としてひとりひとりにとっての幸福と感じられる要素が異なるからだ。

べき論者やユートピア論者はそれでも「・・・すべきだ」、「みんながともに・・・できる世界がある」と思い、主張し、そして”科学的に”そうはならない結果としての世界を目の当たりにして怒り、不満を顕にする。

こういう人々が原理的なリベラルに多く、かつ原理的なリベラルの人が常日頃から不幸そうな顔をしていて、常に不平不満を口にしており、ともすれば言い過ぎかもしれないが私生活において決して上手く行っていないように感じるのは当たり前で、望んでいることが永遠に手に入らないというジレンマを抱えて生きているからだ。


みんなの幸せが一番という人間が差別主義者である理由


科学的な正しさの立場にたてば、ひとりひとりの幸福感は違うのだから弱肉強食の中で生きていくしかない、それはニヒリズムじゃないのか?


確かにそう。そこで立ち止まってしまえば。

しかし、人間には論理的に考え、それを相手にぶつけて、お互いに譲歩することができる。全員の最大の幸福を追求することは科学的にはできないが、それぞれの幸福を最大化するように努力することはできる。当たり前のことじゃないか。リベラルだってそれは分かっている?


ここからがポイントで、譲歩を引き出すためには、相手の立場から物事を観て、思考し、その幸福を最大にするための選択肢を検討し、それからもう一度自分の立場に戻って、相手の選択肢と自分の選択肢の中で利害が反しない部分を必死で見つけ出す必要がある。

逆説的に言えば、べき論者やユートピア論者は、全人類や社会的な幸福を目指すという耳障りの良い言葉を発するものの、その中では相手の立場は無視され、譲歩するという選択肢は微塵にもない。そう、存在自体が矛盾を孕んでいて、無意識でその科学的不自然さを認知しているからこそ、不安と不満の中で苦しむことになる。


差別主義者であることを認めれば楽になるのにね。


ひとりで生きていく力が集まった結果としての幸福な社会


社会的な動物は思考し続けなければいけない。人が何か言葉を発した時にその背景にどのような(彼・彼女にとっての)外的、内的な影響因子があるのか。その因子の中で彼・彼女たちはなぜそのような選択肢を採択したのか。捨てられた選択肢の中で、こちら側の選択肢と歩み寄る余地があるのではないのか。社会の中で自分以外の個と対峙するというのはそういうことだ。

一方で、残酷な話だが、そのプロセスを踏まえた結果として、譲歩する要素が見つからない関係なのであればそれは切り捨てれば良い。ある特定の個を切り捨てたからといって生きていけなくなるような社会ではない。少なくとも日本は。

その中で生きていけるだけの力をつければ良い。最悪、社会の中でひとりになったとしても生きていけるだけの力を身につけることだ。


ユートピアを夢見る弱者を受け入れる科学は存在しない。

人間は結局のところひとりで生きていくのだから。



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