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片言隻句 08 ~素直に内観~

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「曾子曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人の為めに謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」
→現代語訳
曾子がいった、「わたしは毎日何度もわが身について反省する。人のために考えてあげてまごころからできなかったのではないか。友達と交際をして誠実ではなかったのではないか。よくおさらいもしないことを(受け売りで)人に教えたのではないかと。」

当たり前のこと当たり前にする難しさ

 論語を読んでいると、本当に当たり前のことを当たり前にする難しさというものを感じます。書いてある内容は、読んで”そらそうだ”と、納得するようなことが多くあるのですが、実際にその通りの行動を現実世界で行おうとすると、倦怠感や無気力感、などの肉体的欲求の誘惑に誘われ"ちょっとくらいいいか"と、ついつい自分の行動が乱雑になってしまう。人と話すときの表情や言葉のかけ方一つに、思いやりを持てているだろうか。自分が伝えたことは事前に確かなものと確認しただろうか。そういう、一見、すぐに出来そうなことであっても、これが自分の欲に勝たないといけないため、難しいのです。しかし、この日ごろの当たり前の生活というものが大切で、当たり前のことができているか人は、対峙したときにオーラなるなにか、私たちに直観的にこの人いいな、何かわからないけど元気をもらうというようなことを感じさせるのです。小林秀雄はその源泉を顔(ツラ)に見出していた。

なぜ明るい顔の人間は成功しやすいのか、そしてなぜ暗い顔の人間は失敗するのか。

彼は妹の高見沢潤子にこう語った。


孔子の有名なことばに”人いずくんぞかくさんや”というのがあるな。
人間はおもてにみえているとおりのものだっていうんだ。自分よりえらくみせようとしたって、あるいわ、もっと深く考えているんだって、いくら口でいってもだめなんだ。もってるだけ、考えているだけのものがそのままおもてに、顔つきにも文章にもあらわれるんだよ。
                    ー『兄 小林秀雄との対話』ー

 彼は、よく自分の顔(ツラ)というものに責任を持てといった。己の覚悟が誠実さが、力量がすべてそこに出る。隠そうとしたって相手には伝わるんだよと。批評の神様といわれ、極めて論理的な作品を多く創作してきたあの小林秀雄が顔(ツラ)に責任をもてと、彼の経験的観測の帰結として非論理的に訴えるのだろうか。同じく論理の武器に戦う物理学者・哲学者のマイケル・ポランニーは言う。

言葉にならない”なにか”がそこにはある

ある人の顔を知っているとき、私たちはその顔を千人、いや百万人の中からでも見分けることができる。しかし、通常、どのようにして自分が知っている顔を見分けるの分からないだから、こうした認知の多くは言葉では置き換えられないのだ。  -『暗黙知の次元』-

 逆に言うと、言葉では説明できないことが顔でわかる。その認知の中で私たちは盲目的に、また、直観的にこの人はなんだか良い、悪いだの判断し、されているのです。だからこそ、顔(ツラ)に顕れるといった。なぜかはわからないが私たちはわかると。簡単な解釈は避けたいが、恐れずに言うと、それはおそらく、よく笑う人は笑いシワができるように、よく考える人は良く考えているシワができ、覚悟している人は覚悟をしているシワができるという単純なことなのでしょう。日ごろの感情の小さな積み重ねがやがてつもってその人の人相を作り出し、風格なるオーラとなる。その自覚を常に燃やし続けなければならないと感じている。放っておくと消えてしまうから。

#論語 #小林秀雄 #儒学 #成功 #当たり前 #オーラ #顔 #批評

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