ハイデガーはドイツで研究できないらしい
好きな作家の、作品には書かれていない本音が知りたい。そんな野次馬・スケベ根性を持ったことはないだろうか。
こんな話がある。小林秀雄は、自身が影響を受けた哲学者ベルクソンが死んだとき、遺稿がザックザク出て、ベルクソンの思想がより明快になることを期待した。しかしその期待はすぐ裏切られる。ベルクソンが遺言で遺稿の発表を固く禁じたからだ。遺言には「私の言いたいことは、すでに発表されている本に全部書いてあるから、それ読んでね」的なことが書かれてあった。小林はそのことを知り、「恥ずかしくなった」と振り返っている。
言うまでもないが、小林が恥ずかしくなったのは、自身がベルクソンの既刊本をよく読んでなかったことに気づいたからだ。「書き溜めたノートやメモ、講義録にベルクソンの思想の核心が隠されているのではないか」。こんな考えは野次馬・スケベ根性であって、著者の本当に言いたかったことは作品にすべて書かれている。著者の思想を知りたかったら、とにかく作品を読めばいい。こんな当たり前なことを、僕を含めて多くの人は忘れている。
※ちなみにベルクソンの遺言は破られて、一部翻訳されて読むことができる。恥ずかしいことに面白い。
YouTubeでゆる哲学ラジオの最新回を観た。20世紀最大の哲学者とも言われるハイデガーは、今日ドイツでほとんど研究されていないらしい。
ハイデガーの書き溜めたノートの中に、ユダヤ人差別と自分の思想とを結びつける内容が書かれていたからだそうだ。
ドイツのハイデガー学会はこのノートの発表を控えるよう働きかけるが失敗し、ノートはハイデガー全集に組み込まれ大問題となった。ハイデガーを研究するものはユダヤ人差別主義者と断じられ、学会のトップは辞職したと言う。
これもホロコーストという空前の事件を経験していない、地理的に遠く離れた場所にいる男の配慮に欠けた考えなのかもしれないという前置きをしておいて書くと、死んだ人間のメモ書きにあった差別的な箇所を取り上げて、その人の作品すべてを否定するというのはいかがなものかと思う。ハイデガー学会の対応も納得できない。
「これは確かに問題のある発言だ。しかしメモ書きはメモ書きである。ハイデガーが本気で書いて発表した著作をじっくり読んでほしい。そうしたら作品の輝きは失われていないことがわかるはずだから」
こう声名を出すことはできなかったのか。もちろんできなかったのだろう。ユダヤ人差別発言は、ヨーロッパでは僕らの想像以上に重罪とされているだろうから。だがメモ書きの発表隠蔽も、トップの辞職も、かっこ悪いと思ってしまう。結局、学会はハイデガーの著作を信じ切れなかった。大部の著作が数ページのメモ書きに敗れたと言えるのかもしれない。
話は飛躍するが、改めて文系の研究とは何かを考えてしまう。すでに発表されている作品を読むことは大前提とし、新たな資料に飛びつき、著者の真意をアップデートしようとする。この方法がどれだけ当を得た研究なのか、わからない。本当に研究を重ねることで著者の真意に近づけるのか。第2次大戦の戦地で『存在と時間』だけを解説本もなく必死に読んでいた学生よりも読み込みが深いのか。わからない。
僕だってそうだ。「最新研究を踏まえた待望の新訳!」なんてキャッチコピーに弱い。もっとわかりやすく、もっと手っ取り早く、もっと今風に著作を理解できるのではないかと思ってしまう。だから小林秀雄の「恥ずかしかった」発言を思い出して、「ああ先生ぼくもそうです…」と恥ずかしがってしまう。