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哲学はなに学ぶのか考えてみる回

①哲学科あるある

大学の哲学科のガイダンスで
↓のようなことをよく教授に言われました。

「みなさん、突然ですが、
哲学ってなにを勉強するのかわかりますか?

物理学だったら物理の勉強をしますよね?
数学だったら数を扱う学問だし、
生物学だったら生物を扱う学問だ。
みんなわかりやすい。

でも哲学がなにを扱うのかって
考えたとたんにわからなくなりますよね?

いったい哲学ってなにを学ぶのでしょうか?」

この文句は効果的です。
ぼくはその答えを聞きたくて
先生の次のことばを期待しました。
「どんな答えを教えてくれるんだろう!わくわく」

でも大抵の場合、
「うん、難しいね。
この授業を通じて考えていきましょう!」
とかなんとかいって何度もうやむやにされました。

1学期通して聞けば教えてくれるのかといえば
悲しいことに教師は最後まで哲学史をなぞるだけで
哲学がなにを学ぶのかなんて教えてくれない


哲学科生の多くは4年間なに勉強してるのか
わからないまま卒業します。

なにを学んでいるのか答えられないから、
なんとなく哲学した気になって
卒業後に「論理的に考える能力がつきました!」
とかいってごまかすのがオチだ。

これ、哲学科あるあるです。

考える力を鍛えるのは間違いないでしょうが、
別に哲学勉強しなくたってぼくらは論理的に考えられます。

なぜ哲学を学ぶと論理的に考える能力がつくのか、そのことが答えられなければいけません。

そういうわけで誰も教えてくれない、
哲学とはなにかについてぼくなりに考えました。

②哲学とはなにか

さっそく結論を言います。
ぼくは哲学とはものごとを決めつけないための学問だと考えています。

拍子抜けする定義かもしれませんね。
宇宙を観察する天文学!
命を救う医学!
こんなのとくらべると正直地味です。

ですがこの哲学を知っているのと知らないのとでは
生き方が変わります。

ここで大事なのは、
決めつけを避けるからといって
「世の中なにもわからないよね」
とあきらめないことです。

なぜならあきらめることも
「なにもわからない」と決めつけているからです。

ぼくが言いたいのは、学ぶことをやめて
なんとなく決めつける生活から脱けだそうということです。

なにかについて真剣に学んで出た結論なら
それは誰のものでもないあなたの意見です。


たとえば二階幹事長は
いま日本で屈指の嫌われものみたいですが
どれだけの人が彼のしたことを学んでいるのか疑問です。

ヤフコメなんかみてると、
親中だから嫌い。
高齢なのに権力もってるから嫌い、みたいな
一面的な発言が目立ちます。

ぼくは政治に詳しくないので二階さんが
どういう人なのかよくわかりません。
なので、彼の善悪を評価しません。
無知な状態で発したぼくのことばに責任がもてないからです。

③哲学はしないでも生きていける


哲学をしなくてもぼくたちは生きていけます。
というか日常生活で哲学者は邪魔です。
満場一致で方針が決まりかけているとき
「いや、これが正しいかもう1度考えてみよう」
とかいうやついたら単純にうざいですよね。

あいつはいいやつ。あのこはやなやつ。
このような決めつけは楽だし、生きやすいです。

しかしすべての人が哲学をしなくなると
無責任な多数派の意見が正義になります。

みんなが正しいことを判断せずに
多数派の意見に賛成するのです。

二階は悪い人。河野は期待できる。
なぜ?だってみんな言ってるから。

これでは80年前と同じことが起きかねません

哲学にはささやかな、けれども重要な抵抗ができるのです。

これがぼくの考える哲学の原理です。

「なるほど、一理ある。
でも、だったらなおさら哲学科って
なに勉強してるの?
カントとかヘーゲルとか、あんな難しい本読まなくても哲学って日常でできるんじゃないの?」
こんな意見あるかもしれません。

たしかに、ものごとを決めつけない態度を哲学と呼ぶなら、あんな変態的にムズかしい哲学書なんて読まなくてもいいかもしれませんよね。
(実際ぼくも『純理』や『精神現象学』読んでないし……)

ここで最初の問題にもどってきます。

どうして哲学を学ぶほうが論理的に考える力がつくのか?最後にこのことについてみていきましょう。

④哲学史を学ぶ理由

ぼくは学ぶ態度を身につけるためにも
哲学史を学ぶことは役に立つと思ってます。


たとえばぼくたちは怒るとき何かに対して怒ります。いきなり怒れと言われて怒ることなんてできません。

同じように、疑うためには疑う対象が必要です。
哲学をするためにはまず問いをみつけなければならない。
扱う分野もなくあれこれ考えることは
哲学ではなく妄想です。


二階だって、安倍だって正しいか疑えますが、
彼らがどのような人物だったのかを決めつけず突き詰めていくと、どのような政治家が正しいのか、そもそも正しいとはなにか、みたいにどんどん問いが抽象的になる。



2000年以上続く哲学史はこのような抽象的な問題に妥協せず取り組んできました。そりゃ簡単に読めるものではないです。

しかしこの哲学史を学んでいくと自分の感覚にあった哲学者がきっとあらわれてきます。そこから自分なりの正義を、善悪を判断する基準をつくればいい。

そこまで考えないでいいじゃないかと思うかもしれません。
しかし、自分の中になにが正しいのか基準がないのに、平気で人の善悪を決めつけるとは恐ろしいことです。


ではどんな問題に哲学者は取り組んだのか。
一見とっつきにくい哲学史ですが、
ざっくり3つ程度分割することでわかりやすく解説ができます。

いつもより少し多めに書いてしまいました。

次回は、今回の内容をもとにぼくの考える哲学史をざっくりご紹介したいと思います。最後まで読んでくれてありがとうございました!

まとめ

①哲学ってなにやってるのかわかりづらい。

②哲学は決めつけを防ぐ学問だ。

③みんなが哲学をしないと全体主義の危険が!

④哲学史の勉強は自分の判断基準をつくるために有益!

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