【柄谷行人】リアルをつかむのは難しい
柄谷行人の『意味という病』がとても面白かった。実はだいぶ前から買っていたのだが、難しくて積んでいた。ふと取り出して収録作「夢の世界」から読んでみたところ、本全体に一貫したテーマがつかめて一気に読めた。今回は初期柄谷の傑作を紹介する。柄谷に興味ある人、批評に興味がある人には参考になると思う。
◆「意味」とかいうからムズかしいんだよ
「それってどういう意味?」など「意味」は日常的に使われる言葉だ。だが柄谷の「意味」の使い方は独特だ。これさえつかめれば『意味という病』決して読めない本ではない。
柄谷は「意味」と「自然」を対にして考える。「自然」とはぼくらの外側にある「ありのままの世界」のことだ。なまじ賢い人間は「自然」をそのまま捉えることをしないし、できない。自然を自分の都合良く解釈してしまうのだ。「意味」はそこでできる。つまり「意味という病」とは人間が自然をそのまま捉えることができない切なさのことである。
原因と結果をつなげるのも意味づけだ。たとえば朝、黒猫にじっとにらまれて、直後にヤンキーにカツアゲされたとする。2つの出来事はまったく関係がない。にもかかわらず、ぼくらはそれを「意味づけ」して、「黒猫ににらまれたからヤンキーにカツアゲされた」と解釈する。
似たようなことはぼくらが日常的に行っていることだ。むしろそれができているから生活ができている。しかし意味づけが過度にいきすぎると陰謀論に繋がるし、さもそれがたった1つの真理であるかのように錯覚してしまう。柄谷が評価する作品はこの意味づけに抗い、事物をありのまま見つめようとした人々である。
このモチーフを夏目漱石や森鷗外、志賀直哉のテクストを引用して論じた作品が『意味という病』だ。なんだかあっさり終わってしまったが、このことを念頭に柄谷の迫力ある文章をぜひ味わってほしい。たとえば柄谷は鴎外の作品を次のように論じる。
◆初期柄谷の限界と転回
柄谷の本は何冊か読んできたが、初期の文芸批評が抜群に面白い。具体的には『畏怖する人間』(1972年)と『意味という病』(1975年)の2作だ。
特に『畏怖する人間』は初期の小林秀雄をより病的にしたような繊細さと鋭さがあった。だがその病的さは素人目に見て危うかった。『畏怖する人間』で展開した手法は繰り返すことの難しいものだ。無理に繰り返すと、神経症になるか、惰性になるかどっちかだと思った。実際、柄谷はどっちにもなった。『意味という病』のあとがきで、柄谷はすでにマンネリに陥っていたことを告白している。
アメリカの空気を吸うだけで高く跳べると思ってたのかな、と安西先生のように心配したくなる若い文章だが、切実だったのだろう。文芸批評に限界を感じた柄谷はアメリカのイェール大学の客員教授となり、帰国後はマルクス、ウィトゲンシュタインなど西洋哲学者をメインに扱うようになった。
文芸批評の視点をずらすことでマンネリ打開を試みたのだ。だから、初期のような文芸批評を続けてほしかったという感想は言っても仕方のないことなのだろう。
一般的に柄谷はアメリカから帰国後の哲学批評が人気だ。文芸批評は哲学者・柄谷行人の出発点ではあっても全盛期ではないのかもしれない。しかし繰り返しになるが、ぼくは初期のほうが好きだし、この時期にすでにその後の問題意識は出ている。柄谷に興味があるなら、読んで決して損はしない。ぼくは『探究』も『内省と遡行』も積んでいるが、今なら面白いく読めるかもしれない。
中期作品も追々紹介していこうと思う。
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