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「考える葦」は誤解されている

無宗教な人間が宗教を学ぶ意味はあるのか? ぼくのメインテーマの1つだ。この問いの手がかりになる哲学者がいる。

ブレーズ・パスカル(1623年 - 1662年)である。

今回はパスカルの遺稿をまとめた主著『パンセ』の最も有名な断片「人間は考える葦」から現代で宗教を学ぶ理由を考える。


◆人は考えるから尊い?


「人は葦(草の一種)のように弱い。けれども考える力があるんだ!」これが一般的な「考える葦」の解釈だろう。ヒューマニズムに溢れて力強い。しかしぼくの記事でよく登場する御大、小林秀雄はこの読み方を「洒落」と一蹴する。

人間は考える葦だ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一たまりもないものだが、考える力がある、と受け取った。どちらにしても洒落をでない。

『小林秀雄 全作品14 無常という事』43頁。

かなり手厳しい。確かに「人間は考える力がある!」という解釈は気の利いた名言と同時に、「ふーん」で終わる気がする。では小林はどう読んだのか。

パスカルは、人間はあたかも脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受け取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難しかったであろう。

同上。

「人は葦のように考えなければいけない」と小林は解釈した。パスカルが活躍した17世紀は近代科学が急速に発達し、キリスト教の権威が落ちていった時期でもある。それ自体は悪ではないが、なまじ科学の知恵を手に入れた人は傲慢になった。自分が神にでもなったかのように考える人が出てきた。科学の持つ危険性にパスカルはいち早く気づき、警鐘を鳴らしたのだ。

『パンセ』は読んでみるとわかるが、超悲観的でキリスト教の信仰に根差した本だ。とても「人間は考える力があるから尊い」なんてヒューマニスティックなことをいうとは考えられない。小林の解釈のほうがパスカルっぽい。


◆東浩紀の『ホモ・デウス』批判


小林の解釈が妥当かどうかはここでは置いておく。問題は「葦のように考えなければならない」という警告が現代でも当てはあることだ。それどころか小林の執筆当時より必要とされている。「科学の発達で人間が神にでもなったかのよう」なんていささか誇張じゃないかと思ったら『ホモ・デウス』なんて本がベストセラーになっていた。

批評家の東浩紀は『ホモ・デウス』について要約した後、次のように批判している。

飢餓と疫病と戦争は長いあいだ人類を苦しめ続けてきた。けれどもハラリによれば、人類はその三大苦から自由になりつつある。そして、不死や幸福をテクノロジーでどこまでも追求していけるような決定的に新しい時代に足を踏み入れつつあるという。それが書名にもなっているホモ・デウス(神のような人間)の時代だ。(……)
人類はいまだ三大苦の克服から遠いし、それが計算機の力だけで克服されると想定するのは根拠がない。もしハラリが歴史学者を名乗るのならば、すべてがデータになったホモ・デウスの時代の架空の物語を議論するまえに、なぜこれほど多量の食料が生産されても配分がうまくいかないのか、なぜネットがこれだけ人々をつないでも紛争はなくならないのか、足元の現実について歴史とともに語るほうがよほど誠実だったのではないか。

『ゲンロン13』「訂正可能性の哲学2、あるいは一般意志について(部分)」51-52頁。

上で引用した原稿をまとめた新作が今年春に出るそうだ。楽しみ。

『ホモ・デウス』の著者ハラリによると、近い将来AIの発達で人類は①感染症②戦争③飢饉を克服するという。しかし23年のぼくらは東の批判を待たずともハラリの予想が夢物語だったことがわかる。ハラリや落合陽一などの著作に東は批判されつくしたヒューマニズムの復権を見た。

2010年代は大きな物語が復活した時代だった。それは人間信仰(人間中心主義)が復活した時代だったと表現することもできる。
2010年代は、ふつうは人間中心主義が批判された時代だったと考えられている。(……)
けれどもそれは力点の違いにすぎない。カーツワイルや落合[陽一]のような2010年代の思想家が主張したのは、要は、人間には人間の限界を超える技術を生み出す力があるということである。彼らの人間批判は人間の可能性への強い信頼に支えられており、(……)重要なのは、彼らがともに、人間にはとてつもなくすごいことができると確信していたことだ。

同書、48頁。

「人間すげえ」から「すげえAI作っている人間すげえ」へ。
ぼくらはいつまで経っても葦のようには考えられない。


◆宗教を学ぶ意味


冒頭で、宗教を学ぶ意味について考えていると書いた。ぼくは広い意味での宗教心が必要だと思っている。それは、特定の宗教に属せという意味でもなければ、元旦に神社で手を合わせて「宝くじ当たりますように」と祈れという意味でもない。自分の限界を知り、自分を超えたものにびびれという意味だ。それが社会の暴走を停め、謙虚な選択に繋がる。

パスカル=小林の批判意識は良くも悪くもまだ重要なヒューマニズム批判であり続けているだろう。


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