「考える葦」は誤解されている
無宗教な人間が宗教を学ぶ意味はあるのか? ぼくのメインテーマの1つだ。この問いの手がかりになる哲学者がいる。
ブレーズ・パスカル(1623年 - 1662年)である。
今回はパスカルの遺稿をまとめた主著『パンセ』の最も有名な断片「人間は考える葦」から現代で宗教を学ぶ理由を考える。
◆人は考えるから尊い?
「人は葦(草の一種)のように弱い。けれども考える力があるんだ!」これが一般的な「考える葦」の解釈だろう。ヒューマニズムに溢れて力強い。しかしぼくの記事でよく登場する御大、小林秀雄はこの読み方を「洒落」と一蹴する。
かなり手厳しい。確かに「人間は考える力がある!」という解釈は気の利いた名言と同時に、「ふーん」で終わる気がする。では小林はどう読んだのか。
「人は葦のように考えなければいけない」と小林は解釈した。パスカルが活躍した17世紀は近代科学が急速に発達し、キリスト教の権威が落ちていった時期でもある。それ自体は悪ではないが、なまじ科学の知恵を手に入れた人は傲慢になった。自分が神にでもなったかのように考える人が出てきた。科学の持つ危険性にパスカルはいち早く気づき、警鐘を鳴らしたのだ。
『パンセ』は読んでみるとわかるが、超悲観的でキリスト教の信仰に根差した本だ。とても「人間は考える力があるから尊い」なんてヒューマニスティックなことをいうとは考えられない。小林の解釈のほうがパスカルっぽい。
◆東浩紀の『ホモ・デウス』批判
小林の解釈が妥当かどうかはここでは置いておく。問題は「葦のように考えなければならない」という警告が現代でも当てはあることだ。それどころか小林の執筆当時より必要とされている。「科学の発達で人間が神にでもなったかのよう」なんていささか誇張じゃないかと思ったら『ホモ・デウス』なんて本がベストセラーになっていた。
批評家の東浩紀は『ホモ・デウス』について要約した後、次のように批判している。
『ホモ・デウス』の著者ハラリによると、近い将来AIの発達で人類は①感染症②戦争③飢饉を克服するという。しかし23年のぼくらは東の批判を待たずともハラリの予想が夢物語だったことがわかる。ハラリや落合陽一などの著作に東は批判されつくしたヒューマニズムの復権を見た。
「人間すげえ」から「すげえAI作っている人間すげえ」へ。
ぼくらはいつまで経っても葦のようには考えられない。
◆宗教を学ぶ意味
冒頭で、宗教を学ぶ意味について考えていると書いた。ぼくは広い意味での宗教心が必要だと思っている。それは、特定の宗教に属せという意味でもなければ、元旦に神社で手を合わせて「宝くじ当たりますように」と祈れという意味でもない。自分の限界を知り、自分を超えたものにびびれという意味だ。それが社会の暴走を停め、謙虚な選択に繋がる。
パスカル=小林の批判意識は良くも悪くもまだ重要なヒューマニズム批判であり続けているだろう。
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