見出し画像

今朝のひでお 2021/1/5 「小中学生時代の思ひ出」

■朝風呂

朝風呂は習慣になっており日経新聞の一番外側だけを外して、「私の履歴書」と「交遊抄」を風呂に浸かりながらゆっくり読むのが好きなのである。私の履歴書は比較的時系列的に書かれているので、月初は比較的若い時代の話を触れることが多く今月も今時分は、学生時代である。そうなると僕も自分の学生時代を思い出すのである。特に小中学校時代は案外覚えているものである。

■ベテラン女性教諭に好かれ、若い先生には。。。

今でも覚えているのが小学1・2年の河端尚子先生、小学4年の渡辺カズ江先生、小学6年の宮沢義一先生である。この二人の女性の先生と一人の男性の先生には非常に可愛がってもらった。裏返すと3年と5年はそうではなかったということだ。思い出すとこの先生方はベテランであった。僕のような尖った小学生も適当にあしらう、「気持ちのゆとり」もあったのだろう。しかし、僕も運がいいのだ。普通組み替えは2年に一回なので、相性が悪い先生にあたっても2年間は我慢なのだが、3年の先生は産休に入り、5年の先生は、6年時に4組編成が5組編成に変わり(当時の文部省のクラスの最大人数方針でも変わったのか?)に組み替えになり、1年間で済んだのだ(その先生方にとってもホッとしたかもしれないが(笑))。何かあの頃から、「台風はそのうち通り過ぎる」というような気持ちがあったのだろう。何か腹が立ってはいたが、登校拒否になるほど思い悩んだ記憶はない。この二人に共通するのは、若い女性の先生であった。言う事聞かない男子生徒なんか大嫌いであったのだろう。というか今思えば、ベビーブームで生徒も多く先生もイッパイイッパイだったのかもしれないのだが。

■デモやストライキ

子供ながらに覚えているのは、先生がデモだとストだとかいって、隣のクラスの先生が来たり、自習になったりしたことがあったのである。今思うと、結構な数の先生たちが日教組だったのだろう。日教組の組織率は、僕が小学生だった79年から85年頃は、文科省のHPによると全国の全体組織率が50%前後なので、東京がどうだったか地域差はあるのだろうが、教職員の半分は日教組の組合員だった可能性が高い。そんなことに力を入れていたなんて、僕が保守派的な思想を持っていることを差し引いても、愛国心のない、社会主義的・左翼的な思想を持った人に子供は教えてほしくはないし、僕も習いたくはなかった。今思うと、入学式や卒業式の時、一部の先生が、君が代が流れる時に、座ったり立たなかったりして、事情がわからない当時は「一体なんでかな?」と思ったが、今思えば、彼らは左翼だったのだ。

■中学校

中学受験時代が僕の人生史上、最も出来が良かったのだが、なぜか志望校には落ちて、急いで受けた滑り止めまで落ちることになり、そういった流れで、地元の市立中学に入ることになる。英語はともかく、相当小学校時代にインプットされていたので、どの科目も簡単で退屈であった。今でも覚えているのは、数学の教科書をもらって、その週のうちに全部解いて数学の先生に提出したら、「勝手なことをするな」とひどく怒られたのだ。僕はすごいねと褒められると思ったのにこの反応には大変驚いたのを覚えている。内申書で学生をコントロールすることに慣れていた一部の教師陣はおそらく全てを自分の範囲にしないと許せなかったのだろう。幼稚園から一緒だった地元の友人が、その後、大学に入って、この中学校に教育研修で来た時に、結構な数の先生が残っていて、偉そうにしていた某担任がそれはひどい思想の持ち主で、大変驚いたと後日社会人になって聞いたが、さもありなんという酷い状況だったのだろう。態度が生意気なのに成績がなまじいいものだがら、さぞ可愛くない生徒だったのだと思う。そんな僕をなぜか可愛がってくれたのは、専科の家庭科の老先生で、ちょっとおいでと言われては、おそらく教材で使うホットケーキを作ってくれ、僕と関係の悪かった某担任のことを「あんなのは気にしないで大橋はもっと堂々と頑張りなさい」と叱咤激励してくれたのだが、当時はその家庭科の先生も女子には怖い先生(当時中学では男子は技術、女子は家庭と別れていたのだ)と言うことで人気はなかったが、おそらく変に媚を売ることもなくやっていたからなのであろう。前述の友人も「あの家庭科の先生は立派だったんだよ」と教えてくれた。ただ、中学生だった僕には、変なエコ贔屓みたいで嫌だなーと思ったのあるが、腐らないように応援してくれたことは今では感謝しかない。

■なぜベテラン先生ばかりに

なぜベテランの女性教諭ばかりに可愛がってもらえて、基本的に若い教員にはそうではなかったのか、なぜなのかと風呂で色々思ったのだが、ただ今でも、どちらかというと、歳が離れている人に随分と可愛がってもらう機会の方が多いことを思うと、僕はそういう建てつけの人なのかもしれない。祖父も十何人兄弟の下の方で、その上、僕の父親が兄弟と年齢が離れて生まれたこともあり、親戚は年の離れた人が多く、おじおばも当然全然離れており、歳上に囲まれることが多く、実際にある時期までは、同世代より相当年上と話す方が楽しかったし、気も使わず楽だったのである。その影響としか思えない。それか単に相性の問題だけかもしれないが。いずれにしても、担任とかに目をつけられると面倒なのだが、そもそも主要科目は当然5だったし、学級委員などもやっていたし、だいたい別に内申書も関係ない私学を中心に受けるつもりだったので、中学の内申書で困ることはなかったが、あの制度がまだ中学に残っているなら、最悪だ。しかも左翼教師なんかにあたった日にはたまったものではない。よく愚れないで育ったものである。今思うと奇跡である。と言うか当時の僕は何も考えてなかったのだろうな(笑)ただ、そんな可愛がってくれたベテラン先生たち、もう鬼籍に入ってしまったのだろうな。あの問題学生のひでおは、まがりなりにも東京大学には入りましたよとはご報告したかったな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?