見出し画像

今朝のひでお 2022/1/12 スキーの日

1月12日はスキーの日だそうだ。それはオーストリア陸軍のレルヒ少佐が、新潟県上越市(当時高田)の陸軍歩兵第58連隊の青年将校に、日本で初めてスキーの指導を行なったことに由来するそうだ。なぜ、オーストリア。なぜ、高田。という疑問が湧く。

WIKIによれば、レルヒ少佐(来日中に中佐に昇進、最終的には中将)は、1910年に日露戦争に勝利した日本を視察にために交換将校(exchange programみたいなものだろう)として来日。当時、八甲田山での遭難があったばかりで、日本陸軍には雪山のでスキーを学びたいニーズがあったようだ。

では、なぜ、オーストリア人が日本にいるのかは、世界史で、バルカン半島をめぐり、ロシアとオーストリアが対立していたことを思い出せば、まー憎きロシアに勝った日本はなぜ勝ったか学んでこい!と言われて来日したと考えればいいのか。そんなものでしょう。このあと、セルビアでオーストリア皇太子夫婦が暗殺され、第一次世界大戦につながるのはみなさんご存知の通り。そしてオーストリアは、三国同盟(ドイツ、イタリア(後に離脱)、オーストリア)という負け組に入り、大敗をするのである(それがレルヒ少佐の将来にも影響する)。

では、なぜ新潟なのか。どうも本人の希望の様だ。

「なぜレルヒは、上越や旭川のような豪雪地帯に配属されたのでしょうか。その理由は、レルヒ自身の希望があったためです。スキーに特別な情熱をもっていたスキーヤーレルヒは、2組のスキーを持って上越にやってきました。日本の雪を体験したい、という気持ちがあったのでしょうか」と上越市立博物館のHPとある。

レルヒ少佐はアルペンスキーの創始者のマティアス・ツダルスキー氏の弟子だったとのことで、相当上手だったのでしょう。それ以外にも登山などもやる人だったので、今でいう「アウトドア派」にあたるのかもしれない。

彼の手法は一本杖と言われる手法で、日本の地形にはあっていたそうだが、結果的にはノルウェーの二本杖方式が残ったのはご存じの通り。これが一本杖スキー。掃除している様にも見える。

画像1


しかし、最終的には、彼の教えたストック1本の手法は、2本手法に敵わず、我が国では衰退し、また、母国も第一次世界大戦で敗れ、敗戦国ゆえに、軍人恩給も出ず、後半は大変だった模様で、その窮状を知った日本側で、寄付を募り、送金をしたそうである。

ただ、彼の功績は、日本に「スキーの日」として残り、彼の子孫は新潟県と交流を続けているとのこと。また、なんと「レルヒさん」というゆるキャラまでいるとのことで、レルヒ自身は確実に歴史に名を残し、日本とオーストリアの友好に寄与し続けていると思う。

もしかすると母国オーストリアでは、誰も知らない人かもしれない。ただ、遠く離れた日本では、確実に覚えている人がいる。そういう人生もある。何か今日は新たな生き方を発見した様な気分だ。


伝記もあるようだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?