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遠藤周作「沈黙」

村上春樹が次こそはノーベル文学賞を受賞するのではと期待していますが、遠藤周作もノーベル文学賞候補と目されるも、この「沈黙」も含むいくつかの小説の「テーマと結論」が選考委員の一部に嫌われ、受賞には至らなかったらしいです。

しかしながら、嫌われるのも作家としてのひとつの能力だと積極的にとらえてもいいと思うし、実際のところ、彼の小説の賛否の議論は世界中に広がっており、影響力のあった小説家であったと言っても過言ではありません。


遠藤周作「沈黙」新潮文庫

この小説「沈黙」は1971年と2016年に2度ほど映画化されていて、オペラ化もされています。

実は、ずっと読まずに、積読状態だったのですが、YouTubeの紹介動画を見たことがきっかけで読み始めました。ポルトガル人の名前がたくさん出てきたり、長崎方面の方言が使われたりしているので、決して読みやすい小説ではなく、実は何度か挫折して、3か月かけてなんとか読破しました。

せっかく読破したので、読書noteを書いておきたいと思いますが、読書感想文と書評にパート分けしました。後の書評パートにはネタバレがあります。


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読書感想文

「沈黙」では、緊張感を保ち続けながら、究極の人間ドラマが描かれています。テーマは正直重いです。これも挫折の原因でした。

キリスト教の普及に脅威を感じていた日本はキリスト教を弾圧し全滅させようとしていた。そんなさなか、ヨーロッパから命がけで日本へ上陸した宣教師が、キリストの火を絶やすことなく布教する天命を背負って隠れキリシタンに接触する。そこに立ち向かう権力の壁。

人々を救うために日本に来たにも関わらず、キリスト教から手を引かなければ、「隠れキリシタンたち」は見殺しにされると権力者に脅されるも、宣教師は自らの信仰と使命を捨てずに、自分の意志を貫く。が、権力者の逆鱗に触れ、宣教師の目の前で信者たちの命が奪われていく。

人が究極の状況に置かれた時に心のなかでどのように葛藤するのかという根源的な人間ドラマが丁寧に描かれています。しかも鬼気迫る展開がワンシーンで終わるのではなく、途切れることなく描き続かれているのが、本作品の魅力です。

また日本を舞台にした物語の主人公を外国人にするというのは、日本人小説家にとっては決して容易なことではないと思いますが、主人公がポルトガル人であり宣教師という特別な立場にあることに私は違和感を覚えることなく、感情移入できました。

興味の対象は作品そのものというよりも、私は遠藤周作の心の目を通して、この「沈黙」を見てみたい衝動に駆られました。遠藤はどうしてここまで神との会話や信仰にまつわる精緻な物語が書けるのか、私には想像できませんが、だからこそ逆に、作家その人に一歩でも近づいてみたいと思わせてくれる作品です。

それはともかく、すでに過去のことで、少しの文献は残っているものの、過去の宣教師やキリシタン弾圧の責任者を直接取材することはできず、わずかな情報をもとに、想像力を駆使して、当時の当事者たちの心の動きを繊細かつ大胆に描く作家としての力量にも感服させられます。

書評

ここまでは読書感想文ですが、ここからは遠藤周作が「沈黙」という小説の執筆にあたり「どういう問題意識をもって、読者に何を提示したかったのか」について書評を書いてみたいと思います。

キリスト教徒であった遠藤周作は多くの作品を通して、キリストについて読者に伝えようとしています。「沈黙」もそのひとつの作品です。

しかし、この「沈黙」に特徴的な遠藤なりのメッセージがあると考え、作品を自分なりに読み込んでみたところ、まず「日本人は果たしてキリスト教徒になれるのかという問題意識」が見えてきました。そして遠藤周作自身が述懐しているように「日本人でありながらキリスト教徒であるという矛盾」による葛藤が、遠藤周作をして「沈黙」の執筆に駆り立てたのではないかと思います。

遠藤周作は少年時代、日本で洗礼を受けていますが、フランスのリオンに留学に行き、「ヨーロッパの壁」を感じたと言っています。キリスト教徒である彼は、日本のキリスト教とヨーロッパのキリスト教に壁を感じたと露骨には言いませんが、教会を始め、ヨーロッパの歴史の「大きさ」に対しての「ヨーロッパの壁」があったという言い方をしています。

ここに日本のキリスト教徒は1%に満たず、「沈黙」に出てくるイエズス会であるカトリック教徒はわずか0.35%という数字があります。また、韓国統計庁によると、韓国では30%近くのキリスト教徒がいます。さらに中国では公式な統計は発表されていませんが、アメリカのシンクタンク「ピュー・フォーラム」によると、政府の統制下にありながらも、5%前後のキリスト教徒がいると見積もっています。

このように日本のキリスト教徒の数は、韓国と中国に比べて、その普及率において著しく低いことは、遠藤周作も知っていて、日本にはキリスト教が馴染まないのではないかという問題意識を持っていたであろうことは想像に難くありません。

現に、そういう問題意識があったからこそ、書けたのではないかというシーンが、比較的前半にあります。洗礼を受けた隠れキリシタンである村人が次のような言葉を発っするところです。

天国パライソに行けば、ほんて永劫えいごう、安楽があると・・・あそこじゃ、年貢のきびしい取り立てもなかとね。飢餓うえも病の心配もなか。苦役もなか。もう働くだけ働かされて、わしら、ほんと、この世は苦患ばかりじゃけねえ。パライソにはそげんものはなかとですね、司祭パードレ

この言葉に対して、宣教師である司祭は、

天国とはお前の考えてるような形で存在するのではないと司祭は言おうとして、口をつぐんだ。この百姓たちは教理を習う子供のように、天国とは厳しい税金も苦役もない別世界だと夢見ているらしかった。

と、キリスト教の教えが村人たちに誤解されて伝わっていると感じています。これは、キリスト教で言う天国パライソを、日本人はまるで仏教で言う「極楽浄土」のようなイメージでとらえているというエピソードです。

また、デウス(神)を教え伝えた聖フランシスコ・ザビエルも、「この国(日本)の者たちが信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった」と、日本人が基督キリスト教徒になったと信じていたが、それは誤解だったというエピソードも書かれています。

このように、日本人は真のキリスト教徒になれないのではないかという疑問が作者にあるからこそ書けるエピソードではないかと思うのです。さらに、

「デウスという言葉も日本人たちは勝手に大日だいにちとよぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日とはほとんど似た発音だった」

「この国で我々のたてた教会で日本人たちが祈っていたのは基督教の神ではない。私たちには理解できぬ彼等流に屈折された神だった」

とまで、遠藤周作は、踏み絵をし棄教した元司祭に語らせています。

考えてみれば、ほとんどの日本人はアニミズム的傾向が強く、太陽にも海にも山にも神がいるし、土にも水にも神が宿っていると考え、もともと唯一神を求めていません。土着的で多様な八百万の神々に感覚的になじみがある日本人にとっては、一神教は抽象度が高すぎて理解が難しいのかもしれません。

しかも、漢字の輸入にしても、そっくりそのまま取り入れるのではなく、独自に平仮名やカタカナにして、もともとあった話し言葉であった大和言葉に合わせて日本流にアレンジをしました。

仏教にしても、伝教大師最澄でんぎょうだいしさいちょう弘法大師空海こうぼうだいしくうかいにより、天台密教と真言密教が日本にもたらされ、後に鎌倉仏教へと多様化し、インドや中国の仏教とは違う日本独自の仏教文化へと変化させてきました。

「沈黙」の時代設定とは前後しますが、西洋の近代科学技術に対しても、西洋に魂を売ることを嫌い、和の魂をもって西洋の科学技術を取り入れる「和魂洋才」が謳われました。

このように日本人は海外の文化や宗教、技術をそのまま受け入れず、日本人なりに吞み込みアレンジしてしまうのです。このことを「沈黙」の中でも、遠藤周作は「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」というセリフを綴っています。

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そして、「外国」を何でも日本人なりに吸収して、日本式にしてしまう。そういう日本人の特性を作家である遠藤周作もよく理解していたことでしょう。

遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが、ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく、それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている。

Wikipediaより

これは想像の域を出ないのですが、「沈黙」を丁寧に読み込んでいくと、遠藤周作は日本式キリスト教を考える使命を持っていたのではないかと考えてしまいます。

日本式キリスト教を考えるということは、キリスト教の本流の教義を変え、日本式の亜流を考えることで、「あなたは伝統的なキリスト教から離れて新興宗教でも始めるのですか?」と言われかねないことです。遠藤周作がそれを自ら望んでいたとは思えないので、彼がひとりの信仰者として矛盾と葛藤を抱えていたであろうことは想像に難くありませんが、その矛盾と葛藤を原動力に変えて数々の作品を編み出してきたのも彼の真実です。

その遠藤周作の矛盾と葛藤が象徴的に表現されている心の声が、踏み絵の際に語られます。

私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。

「転んだ」と「棄教」の意味合いは同義に見えますが、この心の声では、転んだとは、日本の権力者に言われことに従っただけの表向きの退転を意味するのに対し、棄教は文字通り心から信仰を棄てることとして、真逆の態度を語っています。

この矛盾は遠藤周作本人の心の中の構造そのままのように見え、この「沈黙」は同じようで真逆のどこまでも交じり合わない「絶対的矛盾」を浮き彫りにしたかったのではないかとさえ思えてきます。そして、作者遠藤周作が読者に一番伝えたかったのは、「絶対的矛盾」の沼にはまった人間の葛藤だと思うのです。

もしこの作品に「絶対的矛盾」の含意があるとすれば、最後の最後に神が「沈黙」を破って、初めて語ってくれる、次の言葉にあるのではないでしょうか。

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

この言葉は主人公が極限状態に陥って初めて聞こえた「優しき神の声」ですが、カトリック教会としては、この言葉は「悪魔のささやき」だという見解を示しています。「沈黙」はただの物語に過ぎないのに、「悪魔のささやき」だと断言するスタンスには辟易しますが、ここに「優しき神の声」と「悪魔のささやき」という「絶対的矛盾」が見え隠れします。

しかし正直なところ、私はクリスチャンでもなんでもないので、カトリック教会の言うことに耳を傾けようとしても、その真意を理解することはできません。ただ、主人公が最後の最後に聞いた「優しき神の声」の主は人間臭くて神ではない、だから「悪魔のささやき」だという理屈もわかります。もしかしたらこの理屈が正しいのかもしれません。

ただ、この物語は、「優しき神の声」を聞いて「踏み絵」を踏んでしまったので司祭でいられなくなったけれども、ただ神を信じるひとりの人間になれた。そして、それが故に日本の村人たちの「信心」はとても素直なものだったことがわかり、さらにお互いの「信心」が通じ合うことで真の信頼が生まれたというお話で、ここまでの流れが絶秒に描かれていて、小説としては完成度が高い物語です。

ここからは蛇足ですが、確かに、カトリック教会の価値観からすれば、キリスト教徒である遠藤周作が「優しき神の声」を聞いたとして、「人間らしい神」を描いてしまったのは許せないことなのかもしれませんが、「沈黙」はただの小説であり物語。

そもそも過剰に反応する必要はないと思うのだけれども、この物語に教会が真っ向から反論する。ノーベル文学賞の選考委員が、物語の結論が嫌いだからと選考対象から外す。もしこれが本当だとすれば、ノーベル文学賞受賞者である音楽家ボブ・ディランはどう思うのでしょうか。ボブ・ディランはきっと理屈で返すのではなく、「風に吹かれて」を歌って応えるのではないかと思ったりもします。



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