見出し画像

映画 La Strada「道」、映画批評は苦手です

私は、映画であれ、音楽であれ、小説であれ、あらゆる創作作品は、四の五の言わず、解説に頼らずとにかく直接見たり聞いたり読んだりした方がいいと思っているので、作品を評価することは後回しにしたほうがいいと思っています。

映画 La Strada「道」は、黒澤明監督の「七人の侍」と同時期1954年のイタリア映画で、戦後初めてイタリアの映画として日本に配給されました。この「道」が「シネフィルWOWOW プラス」で無料公開されていたので鑑賞しました。

上記の山下泰司さんのnoteの解説はとても親切丁寧でとても共感できるもので、読者に対してとても思いやりのある文章です。

実は、この「道」が無料公開されていることを、いつもお世話になっている友人でもあるアニメーション監督に教えてもらいました。

映画は、カメラを通して、人間模様を映し出すものだと私は思っていますが、この「道」が描き出そうとしたものは、「人の愚かさと人の優しさ」のシンメトリーだと思います。愚か者と優しき人のシンメトリーの描き方が、この映画の秀逸なところです。

愚か者はならず者。ならず者は愚か者。いずれだとしても、そこにいたのは流浪の大道芸人。

その男は女を手玉に取ることに何の躊躇もない。それだけでなく、女を自分に依存させて悦に入る。

シクラメンのように優しいその女性は、そんな愚か者に寄り添い、愚か者を見守ろうとさえする、愛くるしい笑顔の持ち主だ。

愚か者は「大道芸」という華やかな世界に身を置くことで「男」を誇示する。

そして、優しき女(ひと)は、「華やかでただ強いだけの」男に寄り添えば寄り添うほど、男との世界に自分の「居場所」を見出せず、さびしく孤独に打ちひしがれる。そして、笑顔が失われていく。

それでも彼女は愚かな男と一緒にいる。しかも、この根なしの場所こそが「私の家」だと言う。

男は「どうとでも言え。飯が食えるならどこも一緒だ、故郷に帰りたければ好きに帰れ」と、心なき返答をする。

自らの孤独の行方を失った優しき女(ひと)は、ついに愚かな男の前から姿を消す。

孤独を感じたこともない愚かな男は、優しき女(ひと)を失って初めて真の孤独を知るが・・・

この物語のあらすじっぽいものは、あってもなくてもどうでもいいものですが、ただ一言言えるとすれば、この映画は「楽しくも不条理で悲しい物語」です。

楽しくも不条理で悲しい物語はいつの時代にもあり、社会がどんなに世知辛くても、どんなに成熟して豊かになってもなくなりません。

この映画のように、今でも、どこかの「町」で、「愚かな男」が「優しき女」を食い物にしているかもしれません。
またどこかの「町」で、「愚かな男」と「愚かな女」が、
またまたどこかの「町」で「優しき男」と「愚かな女」が、
求め受け入れ、それでも孤独の足跡が残っている、のかもしれません。

「道」が描く「楽しくも不条理で悲しい物語」の構造の中心は、「愚かな男」と「優しき女」との二人ですが、男の愚かさを映し出す鏡のような存在として、「優しき男」も登場します。物語構造としては、それほど複雑ではありません。

今の映画やドラマの物語構造はどんどん複雑化していますが、描かれる人間模様は本質的には変わらないと、私は思っています。

古い名画を鑑賞して、つくづく思うのは、物語構造が単純であっても、CGを使った凝った演出がなくても、人間ドラマを丁寧に描き伝えてくれているなということです。

そしてまた思うことは、名画が描く人間模様は普遍的なところがあり、時代が変わっても、人間って変わらないなということがわかります。だから名画は何度見ても飽きないのだと思います。

サポートありがとうございます!