【書籍】『致知』2024年11月号(特集「命をみつめて生きる」)読後感
致知2024年11月号(特集「命をみつめて生きる」)における自身の読後感を紹介します。なお、すべてを網羅するものでなく、今後の読み返し状況によって、追記・変更する可能性があります。
巻頭:捲土重来、未だ知るべからずーーー杜牧・題烏江亭 數土文夫さん(JFEホールディングス名誉顧問)p4
「捲土重来」という言葉の深い意味を、古代中国の歴史的事実や現代のオリンピック、さらに日本の現状と結びつけて論じています。數土氏は、特に今回のパリ・オリンピックにおいて日本選手の活躍に感銘を受け、その結果として、項羽と劉邦の古い故事を思い出したと述べています。この古い中国の歴史的な逸話を通じて、失敗や挫折から再起する重要性について考察し、現代の私たちに向けてその教訓を伝えています。
數土氏はパリ・オリンピックでの日本選手団の奮闘に感動し、心からの敬意を表しています。特に、400名を超える日本選手が様々な競技に挑戦し、その多くが結果を残したことに深く感銘を受けたと述べています。このような感動的なスポーツの瞬間が、古代中国の歴史をふと思い出させたと言います。具体的には、紀元前206年に起こった「項羽と劉邦」の戦いに関する故事が脳裏に浮かんだとのことです。秦帝国がわずか15年で滅びた後、項羽が率いる楚軍と劉邦が率いる漢軍が熾烈な戦いを繰り広げました。この戦争のクライマックスとなる「垓下の戦い」で、項羽は最終的に敗北を喫します。
この「垓下の戦い」での敗北において、項羽には再起のチャンスがあったと言います。彼が少数の側近とともに、長江の畔にある烏江という宿場に逃げ延びた際、亭長から「江東に逃げ帰り、再び勢力を立て直すべきだ」と助言されました。江東は項羽の故郷であり、そこでならば若く優れた人材が多く集まり、再起を図ることができると考えられていたのです。しかし、項羽はこれを拒否し、「敗北を喫して生き恥を晒すのは耐えられない」と述べて自ら命を絶ちました。項羽がわずか30歳という若さで命を断った一方、劉邦は最終的に勝利し、前漢の初代皇帝となったのです。劉邦が54歳で皇帝に即位したという対比が、非常に興味深い点として挙げられます。
數土氏は、この故事に関する詩を紹介しています。唐代の詩人・杜牧が項羽の悲劇的な死を悼んで詠んだ詩が「烏江亭に題す」であり、そこには「捲土重来」という表現が含まれています。この詩は「勝敗は兵家の常、期せず。羞を包み、恥を忍ぶは是れ男児」という一節で始まり、一時的な敗北や羞恥を受け入れることこそが、真に大志を抱く者の姿勢であると説いています。つまり、恥を忍び、再び立ち上がって挑戦することこそが、真の強さであると語っているのです。また、江東には多くの優れた若者がいたはずであり、項羽がもしその力を借りて再起していれば、勝敗の結果はどうなっていたか分からなかっただろうという思いが込められています。この詩の一節がもととなって「捲土重来」という言葉が生まれ、世に広まるようになったと述べています。
「捲土重来」の言葉は、一度や二度の挫折や失敗に屈することなく、再び立ち上がり、挑戦し続けることの重要性を示しています。この言葉は、私たちが困難な状況に直面したとき、その先に再び挑戦するチャンスがあることを思い出させ、心を鼓舞する力強い言葉です。
次に、數土氏は再びパリ・オリンピックに話を戻し、今回は200以上の国と地域が参加した中で、アメリカと中国がそれぞれ金メダル40個を獲得し、日本も金メダル20個で堂々の3位に入ったことに触れています。総メダル数では日本は45個を獲得し、世界第6位という立派な成績を収めました。この結果に對して、國民として誇りに思うと共に、選手たちの努力に敬意を表するべきだと述べています。
一方で、メダルが期待されながらも、勝敗は予測できずに敗北を喫した選手も少なからず存在しました。しかし、數土氏は、彼らが次回の大舞台に向けて再び挑戦することを期待し、安易に批判するのではなく、温かい応援を送ることが大切だと述べています。
最後に、數土氏は日本の現状について触れています。スイスの国際経営開発研究所(IMD)が毎年発表する「世界競争力ランキング」において、日本はかつて平成の初期には上位に位置していたものの、2024年には38位にまで順位を落とし、経済面での競争力が低迷していることを指摘しています。特に、このランキングの下降は国家としての危機的状況であり、オリンピックでの成功とは対照的な問題であると述べています。
この危機に対して、數土氏はメディアや国会、経済界があまり注目していない現状に危機感を覚えています。国民が自国の立ち位置を正しく認識し、ぬるま湯に浸かっていては、この状況を打破することはできないと警鐘を鳴らしています。彼は、国民一人ひとりが「捲土重来」の精神を持ち、冷静な判断力と強い精神力でこの難局に立ち向かうべきだと強調しています。
リード:藤尾秀昭さん 特集「命をみつめて生きる」p8
今月の特集「命をみつめて生きる」は、生命の起源から人間の生き方に至るまでを深く探求し、壮大な生命の流れとその背景を考えさせる内容となっています。
まず、約138億年前にビッグバンと呼ばれる現象によって宇宙が誕生したとされています。ビッグバンは、宇宙が極端に高温かつ高密度の状態から急速に膨張して現在の広大な宇宙が形成されたという仮説に基づいています。その後、宇宙の冷却が進み、約46億年前に地球が誕生しました。この地球において、偶然ともいえる奇跡的な条件が揃い、水が生まれました。水は生命の誕生に欠かせない要素であり、その水の中で初めて単細胞生物が誕生したのが約38億年前のことです。この単細胞生物が地球上での最初の生命体とされ、その後、進化の過程を経て複雑な生物へと発展していくことになります。
単細胞生命が誕生してから、さらに10億年の長い時間をかけて進化が進み、生命は雌雄に分かれるようになりました。この過程で、雌から雄が誕生し、生命は性による繁殖を行うようになりました。この性の分化は、生命が多様に発展していく大きな転機となり、やがて無数の異なる生物が地球上に繁栄することとなります。この進化の結果、最終的に人類が誕生しました。地球上のすべての生命は、この長い進化の過程を経て多種多様な形を取っていますが、その根源はすべて一つに通じています。つまり、地球上の生命は一つの起源から生まれ、同じ法則に従って進化し続けているという点です。
天はすべての生命に対して、避けることのできない普遍的な法則を与えました。この法則は生命の本質を支配しており、どんな生命体もこの法則に逆らうことはできません。釈迦はこの法則を「この世においてどんな人にも成し遂げられない五つのこと」として具体的に示しています。
第一に、老いていく身でありながら老いないということは不可能であるということ。人は誰しも年を重ねて老いていく運命にあります。
第二に、病む身でありながら病にかからないということも不可能です。いかに健康を保とうとしても、病気を避けることはできません。
第三に、死すべき身でありながら死を避けることはできないということです。どれだけの力や富を持っていようとも、人間は必ず死に直面します。
第四に、滅ぶべきものでありながら滅びを逃れることはできないということ。すべての物質や生命は、いずれ滅びる運命にあります。
そして最後に、尽きるものでありながら尽きることなく存続するということは不可能であるということです。生命のエネルギーや資源も、いずれ尽きてしまいます。
この法則は、すべての生命の細胞に深く染み込んでおり、どの生物もこの法則に従って生きています。したがって、「命をみつめて生きる」ということは、この避けられない法則を受け入れ、その中でどのように生きるかを考えることだといえます。
ここから話は大きく変わります。二人の人物、渋沢栄一と正岡子規という、まったく異なる運命を生きた二人が登場します。渋沢栄一は、500もの会社の創立に関わり、91歳という長寿を全うしました。彼の人生は「妖と寿」という言葉で表されるように、非常に長く充実したものでした。
一方で、正岡子規は俳句や短歌の世界で名を成しましたが、結核に苦しみ、わずか35歳でその生涯を閉じました。正岡子規は夭折、つまり若くして亡くなる運命をたどりましたが、その短い生涯の中で強烈な足跡を残しました。
渋沢は晩年に好んで「天意夕陽を重んじ、人間晩晴を貴ぶ」という言葉を揮毫しました。これは、夕陽が一日を懸命に照らし続けて、最後に西の空を茜色に染めて沈んでいく様子を天が重んじていることを意味しています。同様に、人間も年を重ねるごとに成熟し、晩年に入ると人間としての佳境を迎え、人生の深い意味を悟ることが尊ばれるという意味が込められています。栄一はまさにこのような生き方を実践し、長い人生を通じて社会に大きな貢献を果たしました。
一方、正岡子規は若くして病に倒れ、その短い人生を詠んだ『墨汁一滴』において、人の希望について語っています。彼は「人の希望は初め漠然として大きく、後漸く小さく確実になる」と記し、人生において希望が次第に具体的で小さなものに変わっていく様子を表現しました。病床の中で、彼の希望は最初は大きく、庭の中を歩きたいというものでしたが、時間が経つにつれてその希望は小さくなり、立つことができればいい、そして最終的には座ることができるだけでも満足だと思うようになりました。そして最後には、ただ一時間でも痛みなく安らかに横たわることができれば、どれほど嬉しいことかという小さな希望にまで縮小していったのです。
この希望の縮小は、生命の終わりが近づくとともに続きます。子規は最終的に「希望の零(ゼロ)となる時期」を迎えると言い、その時期を釈迦は涅槃と呼んだと結んでいます。この言葉は、病床にあって苦しむ子規の姿をリアルに感じさせるものです。
二つのことを考えさせられます。第一に、人間はどのような状況にあっても、希望を持ち続ける存在であるということです。希望がなければ、人は生きることができないのです。第二に、どのような環境にあっても、運命を呪ったり愚痴をこぼしたりせず、全力で生きることの重要性です。子規の生き方は、このことを鮮やかに私たちに教えてくれています。
最後に、渋沢が子孫に残した短歌が紹介されます。「ゆづりおくこのまごころのひとつをば亡からむのちのかたみともみよ」。渋沢は自分の人生について、特別な才能はなかったが、何事にも真心を持って取り組んできたからこそ、人生はそれほど難しいものではなかったと述べています。
子規もまた、自分の病に対して真心を尽くして向き合い、命を見つめて生きました。この二人に共通しているのは、命の長さに関わらず、心を尽くして生きたという点です。
孟子の言葉にもあるように、「寿弐わず、身を修めて以て之を俟つは命を立てる所以なり」。生命の長さは重要ではなく、全力で生きることこそが、天命を全うするための道であると語られています。これは、生命の長さや運命に左右されず、日々の努力と真心を持って生きることの大切さを改めて教えてくれる言葉です。
命をみつめて生きる 鎌田 實さん(諏訪中央病院名誉院長)、皆藤 章さん(臨床心理士)p10
この対談は、臨床心理士である皆藤章氏と、医師であり作家としても著名な鎌田實氏が「命を見つめて生きる」というテーマをもとに、自らの人生経験や医療現場での実体験に基づいて、命の尊さや生きる意味について語り合う内容です。両者はそれぞれの視点から、生と死というテーマに対する深い洞察を共有し、共に命を見つめながら生きることの意義を考察しています。
まず、皆藤章氏は、自らが臨床心理士として歩んできたキャリアを振り返りつつ、新著『それでも生きてゆく意味を求めて』(致知出版社、2024年)についても言及しています。彼は日本を代表する臨床心理学者である河合隼雄氏の薫陶を受け、その教えが大きな影響を与えたとしています。河合氏との出会いが、皆藤氏の人生における重要な転機であり、心理学の道を進むきっかけとなったと語られています。河合氏が提唱した「三分の一の常識人」という概念は、皆藤氏にとっても非常に共鳴するものであり、その言葉を通じて自身の生き方を振り返る機会となったと述べています。
一方で、鎌田氏は、幼少期に経験した貧しい生活や両親との関係について触れています。彼は、家計が苦しかったため、父親から「貧乏人は大学など行かずに働け」と一喝され、医者になる夢を一度は諦めかけた経験を持ちます。しかし、再び医者になる夢を追いかけ、最終的に父の許しを得て医学部に進学することができました。このような家庭の状況や父親との葛藤が、鎌田氏の人生における大きな支えとなっており、医師としての歩みを進めるうえでの重要な要素となっています。
また、鎌田氏は「三分の一の悪人」という表現を通じて、人間には善と悪の両面が共存しており、その悪の部分を自覚することが大切であると語ります。特に、自らが地域医療に従事し、患者やその家族と向き合う中で、時折自分の中に悪があることを感じ、それがむしろ自分を支えてきたとも述べています。この「三分の一の悪人」という考え方は、鎌田氏が医者としてだけでなく、人間としての成長を遂げるための鍵となっており、彼が日々の医療活動において大切にしている信条の一つであることが強調されています。
一方、皆藤氏は臨床心理士としての実践経験をもとに、患者やクライエントと向き合う姿勢について語っています。彼は、臨床心理士としての役割を果たすうえで、河合氏から学んだ「共に歩む」という考え方が非常に重要であると述べています。臨床心理士として、心の悩みや苦しみを抱えるクライエントと向き合い、共に歩むことの難しさを強調しつつ、それが最終的に相手の心に寄り添い、その人の生きる力を引き出すためのプロセスであると語ります。河合隼雄氏との出会いが、皆藤氏の人生において非常に大きな影響を与えたことを述べています。
鎌田氏もまた、地域医療の現場で多くの患者とその家族に接してきた経験を通じて、人々の命に向き合ってきました。彼は、特に「ミッドライフクライシス」と呼ばれる中年期の危機を経験したことを率直に語っています。鎌田氏は、40代後半から50代にかけて、不整脈や冷や汗といった身体的な症状に悩まされ、精神的にも行き詰まりを感じるようになりました。これは、中年期に陥りがちな「ミッドライフクライシス」の典型的な症状であり、彼はその時期に自分自身を見つめ直す必要があると感じました。彼はその後、原点に立ち返り、自らの父との約束「弱い人を忘れずに助ける」という信念を再確認することで、再び医療活動に意欲を持つことができたと述べています。
鎌田氏は、ミッドライフクライシスを乗り越えたことが、その後の人生において大きな転機となり、それ以降、さらに活動的に、そしてクリエイティブに仕事に取り組むことができたと語ります。彼は、自らが医者として患者と向き合う際に、常に「死」とどう向き合うかを重要視してきました。特に彼は、公立病院にホスピス病棟を設立し、在宅ケアの仕組みを整備するなど、死に際した患者やその家族を支えるための取り組みを行ってきました。彼は、自らが死を見つめることで、生きることの意味を見出し、さらにそれを医療現場に反映させることができたとしています。彼は死を見つめることが、生きることの意義を考える上で不可欠であり、それが生きる原動力となると強調しています。
一方、皆藤氏は、命というものを他者や自然との関係性の中で捉えることの重要性を説きます。彼は、現代の社会が個人主義や人間中心主義に偏りすぎていることを指摘し、それが命の繋がりや人間同士の関係性を見失わせていると考えています。彼は、臨床心理士としてクライアントと向き合う中で、クライアントが自然との繋がりや外の世界との関係を意識し始める時に、心の状態が改善していくことが多いと述べています。命は他者や自然との関わりの中で生き生かされるものであり、それを認識することで、より豊かな人生を築くことができると彼は考えています。
鎌田氏もまた、皆藤氏の考えに同意し、命は自分一人で存在するものではなく、他者との関わりの中でこそ意味を持つと述べています。彼は、自らが影響を受けた詩人・宮沢賢治の作品を引き合いに出し、特に『春と修羅』に描かれた「人間はいつか必ず死ぬ」というメッセージに触れます。彼はこの詩を読んだことで、自分の死を意識するようになり、それが逆に生きる力となったと述べています。死を見つめることで、生きることの意味を見出し、それを基にした挑戦を恐れない姿勢が、彼の人生の中で重要なテーマとなっています。
当対談を通じて二人が共通して強調しているのは、単に「生きる」ことにだけ焦点を当てるのではなく、「死」を見つめることで、より深い意味での「生」を見出すことができるという点です。
鎌田氏は、自らの親との関係を受け入れることで、人生と「握手する」ことができたと述べています。彼は、死を見つめ、それを受け入れることで、初めて生きることの真の意味に気づくことができたと語ります。
一方で、皆藤氏もまた、死を見つめることが、自分自身の命を見つめ直す大きな力となり、他者や自然との繋がりを再認識することが、幸福な人生を送るための鍵であると強調しています。
当対談は、生きることの意味について考えるための深い洞察を提供しており、死と向き合うことがいかにして生きる力を引き出すか、その重要性を感じさせる内容となっています。皆藤氏と鎌田氏は、それぞれの異なる視点を持ちながらも、共に「命」を見つめ続けてきた経験を通じて、死から生きる意味を見つけ出すことの大切さを強調しています。この対談の中で語られているように、死と向き合いながら生きることが、より豊かで充実した人生を送るための大きなヒントとなるのではないでしょうか。
いのちの教育の探究者・東井義雄の生き方が教えるもの 衣川清喜さん(白もくれんの会会長)p34
ここでは、教育者として名高い東井義雄氏の生涯とその教育哲学、特に「いのちの教育」に焦点を当てたもので、彼が人生を通じて追求し実践した教育理念を衣川清喜氏が詳細に伝えています。東井義雄氏は、兵庫県但東町という山間の小さな村に生まれ、貧しい農村での子どもたちの教育に生涯をかけて尽力しました。その実践の中で生まれた「村を育てる学力」の概念は、彼の教育思想を象徴するものであり、これを通じて彼はペスタロッチー賞という国際的にも権威ある賞を受賞し、全国的に知られる存在となりました。
東井氏の教育の基盤にあるのは、子どもたち一人ひとりの命を尊重し、その命の輝きを最大限に引き出すことでした。「どの子も星であり、子どもの命に触れなければ本物の教師にはなれない」という言葉を残しており、この言葉には、子どもたちそれぞれが持つ個性や可能性に深い敬意を払い、その成長を支えることが教師の役割であるという強い信念が込められています。教師として、厳しさと優しさを兼ね備え、子どもたちに単なる知識の詰め込みではなく、自己を見つめ直し、主体性を持って生きる力を養うことを教育の核心としました。
東井氏の教育の特徴的な点の一つとして、相対評価から絶対評価へと教育の在り方を大きく転換させたことが挙げられます。それは、子どもたちを他者と比較して優劣をつけるのではなく、個々の成長や進歩を評価し、励ます教育であり、彼の考えの核心には、子どもたちが自らの力で成長し、可能性を開花させるためには何が必要かを常に考え抜いた結果が反映されています。東井氏が、相田小学校や八鹿小学校で校長として行った実践は、今でも「教育の金字塔」として高く評価され、教育者たちの間で語り継がれています。
東井氏はまた、子どもたちが自ら考え、行動する力を身につけるために、「ひとり調べ」「わけあい」「磨き合い」という独自の教育手法を展開しました。この手法は、単に教師が知識を与えるのではなく、子どもたちが自ら問題を探求し、他者と議論しながら学びを深めるプロセスを重視するもので、子どもたちの主体性を尊重する彼の教育方針の象徴です。特に国語の授業において、地域に根差した題材を取り上げ、子どもたちにその意義や歴史的背景を自分で調べさせ、議論を通じて深めさせる教育実践は、教育理念を具体的に表すものでした。このような「村を育てる学力」は、東井氏にとって単なる学力ではなく、子どもたちが自らの人生に向き合い、生きがいを見出す力と考えられていました。
東井氏の教育には、またもう一つの重要な側面として、子どもたちが「欲望の主人公」として育つことの必要性が強調されています。彼は「欲望の僕となるな、欲望の主人公になれ」という言葉を残しており、これは物質的な豊かさが進む中で、子どもたちが自らの欲望に振り回されず、主体性を持って生きることの重要性を説いたものです。
物が豊かになる時代には、さまざまな誘惑が増えますが、子どもたちがその誘惑に負けることなく、自らの人生を切り開いていく力を身につけることこそが、教育の大きな目標でした。欲望の主人公となることでこそ、人は真の幸福を追求し、命を輝かせることができると考えていました。
東井氏の人生において、教育者としての信念は自身の厳しい人生経験からも強く影響を受けています。彼は幼い頃に母を失い、さらに父が保証人となったことによる経済的困難にも見舞われ、貧困の中で育ちました。
しかし、そんな逆境にもかかわらず、勉学への意欲を捨てることなく、努力を重ねて教師となる道を歩みました。教育者としての原点には、幼少期の貧しさと、その中で感じた他者への思いやりが根底にあります。そのため、彼は常に「弱い者に寄り添う教育」を追求し続け、特に勉強が苦手な子どもたちの気持ちに寄り添い、その成長を支えることに情熱を注ぎました。
晩年に至るまで、教育の現場での実践を続け、「培其根」と呼ばれる実践記録を残しました。これは、教育現場での細かな指導内容や教育理念をまとめたもので、全国の教育者たちにとって大きな指針となり、現在も多くの教師たちに影響を与え続けています。この記録は約800ページにも及び、東井氏が夜を徹して書き上げたものです。それは子どもたちへの深い愛情と教育への情熱を物語っており、生涯を通じて一貫して追求された「いのちの教育」の集大成とも言えます。
さらに、「命の教育」を追求した背景には、自身の家族の苦労も大きく影響しています。特に、愛児・迪代さんが大病を患った際の経験は、大きな転機となりました。医師から「ほとんど命は助からない」と宣告され、一晩中迪代さんの手を握りながら看病したその経験は、教育哲学に深く影響を与えたのです。この経験を詩にまとめ、「小さな心臓がけんめいに戦っている」と綴っています。このように、教育者としてだけでなく、父としても子どもの命に対する深い愛情を持ち続け、それが彼の教育理念の根幹を成していました。
東井氏が残した教えは、その死後も多くの人々に影響を与え続けており、現在では「白もくれんの会」などを通じてその功績が顕彰されています。また、言葉や教育実践は、全国の小学校の教科書にも取り上げられ、多くの子どもたちにその生き方や思想が伝えられています。教育理念は、現代においても多くの教育者や人々にとっての指針となっており、その遺産は今なお輝きを放ち続けています。
人事の視点では
教育で重視した「絶対評価」と「いのちの教育」は、現代の組織運営にも通じるものがあります。人事においては、従業員一人ひとりの能力や成長過程を尊重し、他者との比較ではなく、個人の進捗を評価する姿勢が必要です。
また、東井氏の「欲望の主人公」という教えは、自己主導的なキャリア形成を促すことと結びつきます。従業員が主体的に目標を設定し、自らの力でキャリアを切り開いていくための支援が人事の重要な役割となります。
さらに、東井氏が子どもたちの命を尊重したように、企業でも一人ひとりの個性や背景を理解し、心理的安全性を確保することで、従業員が自分らしく働ける環境を整えることが、組織全体の成長を促進する要素となります。
人のために尽くす——それが私の選ばれた道 ~国際霊柩送還の現場から~木村利惠さん(エアハース・インターナショナル社長)p52
エアハース・インターナショナルの木村利恵氏がどのようにして国際霊柩送還士としての道を切り開き、日本初の専門会社を設立したか、その歩みと哲学について詳しく語られています。木村氏は、海外で亡くなった日本人の遺体を日本に送り届けるという、非常に特殊で尊厳のある仕事に携わっており、その役割の中で、ご遺族の心のケアを含めた幅広いサポートを行っています。
木村氏の仕事は、一般的な葬儀業務とは一線を画しており、海外で亡くなった方々を日本に送り届ける「国際霊柩送還」という、非常にニッチでありながらも社会的に重要な業務です。この分野は日本ではほとんど認知されていなかったため、木村氏が自らその道を切り拓いてきました。
彼女がこの事業を始めた背景には、葬儀業界での不正や不誠実な対応に対する強い反発がありました。当時の葬儀業界では、遺族の目の届かないところで遺体をぞんざいに扱ったり、売り上げ至上主義の姿勢が横行していたため、木村さんはその現状に強い不満を抱いていたのです。
彼女が国際霊柩送還という分野に興味を持つきっかけとなったのは、外国人の遺体を日本から送還する業務に従事した際に、他のスタッフが多言語でのやり取りを嫌がったことでした。その際、木村氏は「私がやる」と名乗りを上げ、翻訳を自ら手掛け、手続きに奮闘したことがキャリアを大きく転換させました。ネット翻訳もなかった当時、一つ一つ辞書を引いて翻訳作業を行い、外国の葬儀社や役所とのやり取りを進める中で、この仕事の魅力に取り憑かれていきました。誰も教えてくれる人がいない中で、自分自身の力で道を切り開き、問題を解決していく経験を積んでいきました。
その後、日本で初めての国際霊柩送還専門会社を設立し、以来20年以上にわたってこの分野でのリーダーとして活動を続けています。年間約250体の遺体や遺骨を搬送し、国内外のご遺族の元に送り届けています。この業務は非常に高度な専門知識と国際的なネットワークが必要で、航空会社や現地の葬儀社、外務省などと緊密に連携しながら、遺体搬送の手続きを迅速かつ的確に進めています。これまでに築いてきた世界中のネットワークは、仕事における大きな財産であり、信頼関係を基にした強固な基盤となっています。
木村氏の仕事に対する姿勢は、単なるビジネスを超えた「人助け」という側面が強く、それがモチベーションを支えています。遺体をただ処理するのではなく、遺族が心から「お帰り」と迎え入れることができるよう、丁寧に遺体の修復やメイクを行っています。腐敗が進んだ遺体も、できる限り生前の穏やかな表情に戻すため、技術者が隅々まで確認し、遺体を清潔な状態に整えることに全力を注いでいます。ご遺体に対しては常に敬意を払い、まるで故人が生きているかのように話しかけながら処置を施すという姿勢も、仕事の一環として大切にされています。
また、ご遺族に対しても深い配慮を忘れません。突然の訃報に直面したご遺族は精神的に極限状態にあり、そんな時、親身になって寄り添います。毎晩電話をかけては、食事を摂るように促したり、感情を素直に表現することを勧めたりと、まるで親戚のおばさんのように温かく接することで、ご遺族の心の支えとなっています。心掛けているのは、「しっかり悲しむことが死を受け入れるために大切だ」ということです。ご遺族がしっかりと故人を偲び、悲しむことができるよう、最期の別れの場を整えることが使命であり、それがご遺族にとっての癒しの一歩になると信じています。
木村氏のこれまでのキャリアの中で最も印象的な出来事の一つは、アメリカで行方不明となった日本人女性が白骨遺体で発見された事件です。ご遺族の強い願いを受けて、現地の外務省や検査局との連携を進め、12年越しにご遺体を日本に送り届けることに成功しました。このような困難なケースでも諦めず、ご遺族の思いに応えるために最善を尽くす姿勢を貫いています。
木村氏の人生の哲学は「正直に生きる」ということです。これまでに数多くのご遺体と向き合ってきた経験から、人の生き方は顔に表れると語っています。嘘をついたり、他人を欺くような人は、その表情に人生の歩みが刻まれているというのです。自分の信念に正直に、他人に対して誠実に接することが、何よりも大切だと考えています。この信念は、仕事の中でも貫かれており、どんなご遺族にも平等に、そして誠実に対応してきました。
最後に木村氏は「人のために尽くす人生」を選び、この道を生涯現役で歩み続けたいと語っています。国際霊柩送還士としての役割は、故人とご遺族の架け橋となり、その絆をしっかりと結びつけることだと信じているのです。彼女の仕事は、一期一会の出会いであり、ご遺族とのご縁を大切にしながら、信頼の輪を広げ続けています。木村氏の生き方とその仕事に対する情熱は、多くの人にとって尊敬の対象であり、彼女の存在がもたらす安心感は、ご遺族にとってかけがえのないものとなっていることでしょう。
人事の視点でも極めて重要
木村氏の仕事に対する誠実さと献身的な姿勢は、組織文化の構築において非常に重要です。従業員が木村さんのように高い倫理観と責任感を持つことで、顧客との信頼関係が深まり、会社全体の評価やブランド力の向上に繋がります。
また、「人に寄り添う」姿勢は、人事部門においても従業員のメンタルヘルスやモチベーション管理に応用できます。特に、従業員の精神的なサポートやケアが業務のパフォーマンスに直結する業務環境では、上司や人事担当者が従業員に寄り添う姿勢が欠かせません。木村氏の「しっかり悲しむことで前に進む」という考え方は、困難な状況に直面した従業員に対する対応にも通じ、従業員が問題を乗り越えるためのサポート体制の構築に役立つでしょう。
一日一日を大切に生きる 関本雅子さん(かえでホームケアクリニック顧問)p58
日本における緩和ケアの先駆者である関本雅子氏が、自身のこれまでの医師としての歩みや、緩和ケア医として患者と向き合う中で感じたこと、そしてがんで亡くなった息子・剛氏との思い出を語っています。関本氏は、長年にわたり多くの終末期患者の最期を見届けてきた経験を持ち、自身の人生やその過程で出会った患者たちとの交流を通して、死に対する新たな視点や価値観を育んできました。医師を志した理由や、緩和ケア医としての使命感、そして彼女にとって最も大切な存在であった息子との思い出が詳細に描かれています。
関本氏が医療の道を目指すきっかけとなったのは、曽祖母の最期に立ち会った経験でした。高校生の頃、同居していた曽祖母が静かに息を引き取る場面に直面し、その瞬間が彼女の心に深く刻まれました。その体験は、死が恐ろしいものではなく、自然な流れであるという考えを植え付け、その後、医師としての進路を選択する大きな動機となりました。また、曽祖母の最期が関本氏にとって、緩和ケア医としての土台を作る契機ともなり、死が穏やかなものとして受け入れられる医療の在り方を追求するための原点となりました。
関本氏は、兵庫県神戸市で育ち、神戸大学医学部に進学しました。彼女が医師を目指す決定的な出来事は、ミッションスクールでの講演会で、ネパールなどで医療奉仕活動を行っていた医師の岩村昇氏の話を聞いたことでした。この講演が彼女に強い感銘を与え、弱い立場にある人々に医療を提供するという使命感を抱くようになったのです。また、アフリカで医療奉仕を続けたアルベルト・シュヴァイツァー博士の生涯にも触れ、医療への強い憧れを持ち続けました。そうして医学の道を進んでいく中で、麻酔科を選択し、小児麻酔に携わることで子どもたちに関わる医療を目指しました。
その後、神戸労災病院での勤務を通じて、特にがん患者の激しい痛みに向き合うこととなり、そこで緩和ケアの重要性に気づくようになりました。医師としてのキャリアを積んでいく中で、三人の大切な人物の最期を見送る経験をします。その一人目は、敬愛していた牧師の最期です。スキルス胃がんに侵されながらも最後の説教を行った牧師は、一日一日を大切に生きることの重要性を強調し、その姿勢が関本氏の心に深く残りました。
また、麻酔科の上司も肝臓がんで亡くなりましたが、家族の意向で本人にはがんであることを告知しないまま最期を迎えました。この経験を通じて、関本氏は患者が自分の最期を自分で決められない現実に対して強い疑問を抱くようになりました。そして、最も衝撃的だったのは、父親の死でした。父親は胃がんと膵臓がんを患い、広範囲の脳梗塞を起こして意識不明となりました。延命治療を望んだ母の希望に従い、さまざまな処置が施されましたが、最終的には父親の命を見取ることとなり、その後悔が彼女に深い影響を与えました。
これらの経験を経て、関本氏は終末期医療の充実を目指し、患者が自分の最期を選べる社会を実現するための緩和ケア医療に本格的に取り組むようになりました。そして、1994年には六甲病院にホスピス病棟を立ち上げ、その充実に努めました。麻酔科医として患者と距離を置いていた時代とは異なり、緩和ケア医として患者に寄り添う機会が増え、毎日が充実感に満ちていたと語っています。
さらに、彼女の息子であり、後に緩和ケア医となった剛氏とのエピソードも重要なポイントです。剛氏は肺がんを患い、余命宣告を受けた後も前向きに生き続けました。彼はがん闘病の経験をSNSで公開し、多くの患者や家族に勇気を与えました。特に、彼自身が患者としての立場と緩和ケア医としての経験を共有することで、患者たちとの間に強い信頼関係を築きました。彼は自らの著書や講演活動を通じて、「人は生きている限り成長できる」というメッセージを発信し続け、最期までその信念を貫きました。
剛氏が亡くなった後、関本氏は彼の遺志を継ぎ、かえでホームケアクリニックの顧問として、緩和ケアの啓発活動を続けています。剛氏が示してくれた「一日一日を大切に生きる」という姿勢を自らの人生の指針として受け止め、今後も緩和ケア医として誰もが穏やかな最期を迎えられる社会の実現に向けて努力を続けていくと語っています。
医師としての関本氏の歩みだけでなく、経験したさまざまな人々との出会いや、死との向き合い方について深く考えさせられる内容でした。また、息子・剛氏の生き方や最期を通して、生きることの尊さ、そして死に向き合う勇気と成長の意味が強調されています。この物語は、医療の枠を超えて、人間としての成長や人生の意味について深く考えるきっかけを与えてくれるでしょう。
緩和ケアにおける「自分の最期を自分で決める」ことや「一日一日を大切に生きる」という理念は、組織運営や人材マネジメントにも共通する重要なテーマです。特に、人材育成やキャリア形成において、社員一人ひとりの個別性を尊重し、自らのキャリアや働き方を主体的に選べる環境を整えることが求められます。
また、関本氏が経験した「後悔のない最期」というテーマは、職場においても「後悔のないキャリア」を実現するための支援を意味し、キャリアカウンセリングやメンタリングの導入の重要性を指摘します。さらに、医師として患者に寄り添う姿勢は、リーダーが部下に寄り添い、その成長を促すアプローチにもつながります。
人事としても、個人の成長と幸福に貢献しながら、組織全体の活力を高めるために、社員の「今この瞬間」を大切にする働き方改革を進めることが重要です。多くのヒントを与えてくれる話でした。
命をすこやかに運ぶ 昇 幹夫さん(日本笑い学会副会長)市川加代子さん(自然療法研究家)p62
市川加代子氏(自然療法研究家)と昇幹夫氏(産婦人科医であり、日本笑い学会副会長)が対談形式で、それぞれの経験や見解を詳しく語っています。両名の人生や職業に対する深い洞察は、単に健康の問題だけではなく、人生そのものの捉え方にまで言及しており、特に「治る力」や笑いがもたらす影響について大変興味深い内容となっています。
昇幹夫氏
九州大学医学部を卒業後、麻酔科と産婦人科の専門医としてのキャリアをスタートさせ、大阪で長年勤務してきました。平成11年にはフリーランスとなり、現在でも産婦人科医として現役で診療に当たっているほか、日本笑い学会副会長として、笑いの医学的効用を研究しています。笑いが健康に及ぼす影響に関しては、NK細胞(ナチュラル・キラー細胞)を活性化させ、免疫力を向上させるという研究結果を元に、彼自身も講演活動を行い、その普及に努めています。昇氏は「泣いて生まれて笑って死のう」をテーマに、多くの人に笑いの重要性を伝える活動を続けています。
昇氏が笑いの医学的効果に注目するきっかけとなったのは、1991年に伊丹仁朗先生とともに行ったある実験からでした。大阪の吉本興業が経営する「なんばグランド花月」でがん患者19人に吉本新喜劇を観てもらい、大笑いしてもらったところ、がん細胞を攻撃するリンパ球に明らかな改善が見られることが分かったのです。この実験結果に基づき、笑いがどれだけ人間の免疫機能に影響を与えるかを証明するため、昇氏はその後も様々な研究を行ってきました。笑いが健康に与える影響については、単なる一過性の現象ではなく、科学的なデータに基づいた効果として広く認識されています。
市川加代子氏
家族のがん、自らの病気、そして子供の死をきっかけに、中国伝統医学や米国分子矯正栄養学など、様々な療法や心理学を学び、独自の「市川式復療法」を確立しました。この療法は、びわの葉やこんにゃく、生姜などを使った民間療法に基づき、西洋医学で「打つ手がない」とされる病気にも効果を発揮しています。市川氏は、多くの末期がん患者や重病を患う人々を治療し、その「治る力」を引き出してきました。彼女の著書には、『あなたの「治る力」を引き出そう』、『台所はくすり箱』、『あなたの体の設計ミスはない』などがあり、民間療法の重要性と効果を広く世に知らしめています。
市川氏は、自身の人生経験を通じて、自然療法の力を強く信じています。彼女自身も数多くの病気を克服しており、その経験が彼女を自然療法に導いたのです。特に、彼女が体験した多くの病気を克服するプロセスが、現在の市川式療法の基礎となっています。市川氏の療法は、体の免疫システムを活性化させ、不要なものを体外に排出することに重点を置いており、これが「治る力」を引き出すための鍵となっています。
2人の出会いと「千百人集会」
昇氏と市川氏の出会いは、2003年に開催された「第一回千百人集会」であり、この集会は末期がんを克服した124人の生還者が参加したものでした。この集会は、がんが治ることを証明するために、川竹文夫氏が主催したものです。この集会で、昇氏は末期がんから生還した多くの人々を目の当たりにし、医師としての驚きとともに圧倒されました。
一方、市川氏もこの集会に参加し、分科会「今日から始める自然療法」を通じて、彼女の療法を多くの人に伝えました。特に、二日目に行われた「治ったコール」では、参加者が次々に登壇し、「私はこの乳がんを治しました」と声高らかに叫ぶ光景に、昇氏は強く感銘を受けたと述べています。
笑いと健康に対する理解の深化
昇氏は、この集会以降も川竹氏が主催する様々なイベントに参加し、日本ウェラー・ザン・ウェル学会にも深く関わるようになりました。この学会は、医師や治療家が連携して、がん治療や自然療法を広める場として設立され、昇氏は副理事長、市川氏は理事としてその活動に参加しています。笑いの効果についての研究が進む中で、昇氏は「笑い」が人間の免疫力を高め、がん患者の健康を向上させるという確信を深めていきました。
昇氏は、笑いが心身の健康に及ぼす影響について、自身の経験を基に多くの講演を行っています。特に「泣いて生まれて笑って死のう」というメッセージを中心に、超高齢社会を迎える日本において、人生の終わり方をどうするかを問いかけています。
昇氏は、高齢者が自然に衰退していくことを「枯れていく」と表現し、その過程を尊重しながらも、無理な延命治療を避けるべきだと主張しています。これに対し市川氏も、医療現場での無理な治療が患者の苦痛を増大させることに疑問を投げかけており、自然療法を通じて体の「治る力」を引き出すことが、より健康的な人生を送るために必要だと説いています。
市川式復療法の具体的な効果
市川氏の療法は、西洋医学の枠を超えたアプローチを取り、患者の体が持つ本来の力を最大限に引き出すことを目的としています。彼女の療法では、食生活の改善や生活習慣の見直しが重視され、特に「噛むこと」が体の免疫力を高める重要な要素として挙げられています。
市川氏は、自身の治療を受けた多くの患者が、噛むことによって体内の老廃物を排出し、健康を回復させたと述べています。彼女の療法は、単なる治療法ではなく、患者が本来持つ「治る力」を引き出すための支援であり、その根本は体内の不要なものを正常に排出する機能を回復させることにあります。
また、市川氏は、治療において「噛むこと」の重要性を強調しており、これが免疫疾患や膠原病などの患者に対しても有効であることを実証しています。彼女の経験では、唾液が十分に出るようになるまで食べ物を噛むことで、体内の免疫機能が向上し、病気の治癒が促進されるとしています。
この対談を通して、昇氏と市川氏は、自然療法や笑いが持つ力、そして人間が本来持っている「治る力」がいかに強力であり、健康の維持に重要であるかを深く議論しています。また、超高齢社会における医療のあり方や、無理な治療を避けることの重要性についても触れています。この対談の後半では、昇幹夫氏と市川加代子氏が、人生の終わり方や健康維持のための具体的な方法についてさらに深く語っています。さらに見ていきます。
人生の終わり方と老後の過ごし方
昇氏は、「泣いて生まれて笑って死のう」という言葉を信条とし、高齢者がどのように人生を締めくくるべきかというテーマに強い関心を持っています。彼は、昭和20年代には日本人の平均寿命が60歳であったのが、現在では80歳を超えていることに言及し、これにより人生の約3割が老後にあたると指摘します。彼自身が77歳となり、残された時間をどのように充実させるかを考える中で、「自分の自由な時間には嫌なことをせず、好きなことだけをする」という考えに至ったと言います。特に、自分の自由な時間を大切にし、ストレスのない生活を心がけることが、人生の質を向上させる鍵であると考えています。
また昇氏は、老後の過ごし方について「あいうえお」の法則を提唱します。「あ」は会いたい人に会う、「い」は行きたいところに行く、「う」は歌いたい歌を歌う、「え」は遠慮しない、「お」は面白いことをやる、という内容です。この法則を実践することで、老後も充実した時間を過ごすことができるとし、自分の人生を楽しむための具体的なアプローチを示しています。
市川氏も、昇氏の意見に賛同し、人間が他者との出会いを通じて人生を豊かにしていくことの重要性を強調します。自然療法を通じて多くの病気を抱えた人々と出会ってきましたが、その出会いが自身の人生にとってかけがえのないものとなっていると述べています。また、病気や困難な出来事もまた、人生を見つめ直すための大切な機会であり、それをどう受け止めるかがその後の人生に大きな影響を与えると語っています。
「治る力」を高めるための具体的な方法
市川氏は、自然療法を通じて多くの患者を治癒に導いてきた経験をもとに、治る力を高めるための具体的な方法についても言及しています。彼女が特に強調しているのが、体内に蓄積された不要なものを排出することの重要性です。これには、食生活の改善や「噛むこと」が大きな役割を果たします。彼女は、食事をするときにしっかりと噛むことで、唾液の分泌が促進され、免疫機能が向上することを示しています。特に膠原病や免疫疾患の患者に対しては、梅干しの種を口の中で転がし続けることで唾液を出すという方法も効果的であると説明しています。このシンプルな方法であっても、唾液の分泌が促進され、体の免疫力が回復し、多くの病気が改善されるとしています。
また、市川氏は玄米食や自然食材を使った療法の効果についても言及しています。彼女は、玄米を食べることで体内のデトックス機能が向上し、免疫力が高まることを実証しており、実際にがん患者が玄米を食べて病状が改善したケースも報告しています。特に「幼若な玄米」を食べることが重要であり、これは従来の玄米よりも調理が簡単で栄養価が高いと説明しています。この玄米を取り入れることで、体内の不要なものを排出し、病気の予防や治療に大きな効果を発揮するというのが市川氏の主張です。
健康と笑いの関連性
昇氏は、笑いが健康に与える影響についてさらに深く掘り下げています。彼は、笑いがNK細胞を活性化させることで免疫力を高め、病気の予防や治療に効果があることを強調しています。彼自身も多くの講演でこのテーマを取り上げており、「笑いと健康」がいかに密接に関連しているかを示すデータや実験結果を紹介しています。特に、がん患者に対して行われた実験では、笑いが免疫力を向上させ、病状を改善する効果が確認されています。笑いは単なる娯楽やリラックス効果を超えて、医学的にも重要な役割を果たす要素であるというのが昇氏の見解です。
さらに、昇氏は「笑い」と「治る力」の関連性についても触れており、笑うことで人間の精神的なバリアが解け、体が持つ本来の治癒力が引き出されるとしています。彼は、笑うことがストレスの軽減やリラクゼーションにつながり、それが免疫システムに好影響を与えると説明しています。また、彼自身の経験を通じて、笑いがもたらす効果を実感しており、その実践を通じて多くの患者が健康を回復する様子を目の当たりにしています。
終末医療と自然死へのアプローチ
昇氏は、現代の医療が抱える課題の一つとして、無理な延命治療を挙げています。彼は、人生の最期を迎える際に、自然に枯れていくことが本来の人間の姿であり、無理に治療を施すことで患者に苦痛を与えるべきではないと主張しています。
彼は、自身が前立腺がんと診断されながらも、治療を受けずに自然な生活を続けていることを例に挙げ、がんが老化の一種であるという考え方を提示しています。彼の視点では、がんは必ずしも恐れるべき病気ではなく、体の自然な老化プロセスの一部として受け入れるべきだとしています。
市川氏もまた、無理な治療や薬の投与に対して疑問を持っており、自然療法を通じて体の自然な力を引き出すことが最も効果的な治療法であると述べています。彼女は、自分自身や家族が病気に直面した際に、薬が効かないという状況に置かれたことをきっかけに、自然療法に目覚めた経験があります。彼女は、体の持つ「治る力」を信じ、それを引き出すための具体的な方法として、食生活や生活習慣の改善を提案しています。
人生の試練と「治る力」の関係
市川氏は、人生において病気や困難な出来事が訪れることには必ず意味があると考えています。彼女は、病気や試練を通じて人間は自分自身を見つめ直し、成長する機会を得ると述べています。彼女自身も多くの病気を克服し、その過程で自然療法に出会い、現在の療法を確立するに至りました。この経験が、市川氏にとって人生の大転換であり、彼女の「治る力」を信じる姿勢を確立させたのです。
昇氏もまた、人生における試練が人間に与える影響について深く考えています。彼は、自身が若い頃に遭遇したさまざまな危機的状況、例えば山での遭難やオートバイ事故などが、自分を成長させる機会であったと振り返ります。彼は、そうした試練を乗り越えることで、自分にはまだ果たすべき役割があることに気づき、それが彼を現在の活動へと導いたと述べています。試練や病気は、人間が成長するためのステップであり、それをどう受け止め、乗り越えていくかが人生において重要な問いかけであると考えています。
まとめ
この記事を通じて、昇氏と市川氏は、それぞれの立場から健康、笑い、自然療法、そして人生の終わり方について深い洞察を共有しています。昇氏は、笑いが免疫力を高め、病気を予防・治療する効果を持つことを強調し、市川氏は自然療法によって体の「治る力」を引き出すことの重要性を説いています。また、両者とも、無理な治療や延命ではなく、自然な人生の終わり方を受け入れることが重要であると考えており、それが最終的にはより豊かで充実した人生をもたらすというメッセージを伝えています。
人事の視点から考えること
彼らが強調する「自然な治癒力」や「笑いによる健康増進」は、社員の健康管理やメンタルヘルスにおいても重要な示唆を与えています。社員が持つ潜在的な「治る力」を引き出すためには、身体的健康の維持だけでなく、精神的な支えやストレス軽減の取り組みが不可欠です。
昇氏が述べる笑いの効果は、組織におけるストレスマネジメントやチームビルディングに応用でき、働く環境の改善につながるでしょう。また、市川氏が強調する「噛むこと」や食生活の重要性は、社員の食習慣や生活習慣を見直す契機となり、企業内でのウェルビーイング推進に役立つでしょう。
このように、身体的・精神的健康を支える組織文化を作ることは、長期的な企業の発展にも寄与するものです。
人生は運と縁とタイミング 木場弘子さん(フリーキャスター)p92
フリーキャスターとして30年以上のキャリアを持つ木場弘子さんのインタビューを通じて、その豊かな経験や独自の人生観、さらには仕事に対する姿勢を深く掘り下げています。
木場さんは、TBSの初の女性スポーツキャスターとして入社し、その後はフリーランスとして講演、シンポジウム、インタビューをはじめとした多方面で活躍されてきました。さらに、国の有識者会議にも参加し、多様な分野で積極的に発言してきた経験を持っています。
木場さんがこれまで取り組んできた「伝える」コミュニケーションだけでなく、「伝わる」ことに対する深いこだわりがインタビュー全体を通して語られています。特に、国の会議に参加する中で、専門的な内容を国民にわかりやすく伝えることの難しさに直面しつつも、継続的にメッセージを発信してきたといいます。法律の用語が分かりにくかったり、複雑なデータを解釈するのが難しい場合でも、根気強く発言を続け、その結果として法律用語が変更されるなどの手応えを感じることができたと述べています。
「伝わる」コミュニケーションの重要性について、木場さんは特に「相手に寄り添う」ことの必要性を強調しています。単に情報を一方的に「伝える」だけではなく、受け取る側にきちんと伝わるように心を尽くすことの大切さを痛感しており、それが30年間のキャリアを支えてきた大きな信念の一つです。特に、この思いが強くなった時期に、共感する出版社と出会い、ついに『次につながる対話力』(SDP、2024年)という自身初の実用書を出版するに至りました。本書は、単なるテクニカルなスキルよりも、心のあり方を中心に据えた内容で、読者から大きな反響を得ているといいます。
木場さんのキャリアはTBSのアナウンサーとしてスタートしましたが、その時から「一度はやってみる」という姿勢で様々な仕事を引き受けてきました。この積極的な姿勢が、今日の多岐にわたる活動へとつながっています。現在では、講演やシンポジウムのほか、JR東海やINPEXで社外役員も務め、企業の価値向上に寄与する発言にも力を入れています。特に、JR東海では同社初の女性取締役として就任しており、このような経験を通じて、日々新たな挑戦に取り組む幸せを実感していると述べています。
国際的な舞台でも活躍しています。2024年3月にはオーストラリアで「女性活躍」をテーマに講演を行いました。この講演では、初めて海外で行う講演ということで、9割が外国人という聴衆に対し、大きな不安を抱えながらも、しっかりと準備を重ねました。木場さんのメッセージは、女性を取り巻く環境を変えるには「対話力」が欠かせないというものでした。幸運にも、彼女のメッセージは現地の方々に共感され、帰国後も良好な関係が続いています。この講演を通じて、木場さんは「伝える」意欲や情熱が相手に伝わることの重要性を改めて実感したといいます。
木場さんがTBSに入社するきっかけとなったのは、たまたま目にした一枚の応募ハガキでした。もともとは数学の教師やテレビ局のプロデューサーを目指していましたが、大学の就職課で偶然フジテレビのアナウンサー講習会の応募ハガキを見つけたことが、人生の転機となりました。アナウンサーという職業に触れることで、この道を志すようになり、結果的にはTBSに合格することができました。この経験を振り返り、木場さんは「運命」の存在を感じずにはいられないと語ります。
TBSでのキャリアは、男女雇用機会均等法が施行された1987年に始まりました。当時、TBSでは初めて女性をスポーツキャスターとして起用しようという流れがありましたが、彼女にとっては挑戦の連続でした。最初の取材では、どこに立つべきかもわからず、また選手からも冷たい態度を取られることが多かったといいます。
しかし、ひたすら学び続け、日々球場に通い、選手たちの信頼を得るまで努力を重ねました。この経験を通して、木場さんは「取材者は日常的に球場に足を運ぶ姿勢を持つことが大切であり、信頼を得て初めて取材者としての役割が果たされる」と学びました。
また、木場さんにとって大きな転機となったのは、プロテニス選手・松岡修造さんへのインタビューでした。松岡さんが試合後に涙を流す姿を見た際、彼女はその涙が悔し涙だと思っていましたが、実は膝の痛みなく試合ができたことへの嬉し涙だったことを後で知りました。この出来事から、木場さんは自分の感情の読み取り不足を痛感し、コミュニケーションの根本には「心」があることを強く意識するようになりました。この教訓は、キャリアにおいて重要な指針となり、後の仕事にも大きな影響を与えています。
さらに、木場さんがフリーランスに転身したことも、人生における大きなターニングポイントでした。会社員時代は、失敗してもアドバイスをしてくれる上司がいましたが、フリーになってからは全てが自己責任となり、厳しい現実に直面しました。また、息子の誕生時には彼が一時仮死状態になり、ICUでの治療が続く中で、子育てと仕事の両立に苦しみました。しかし、周囲の支えを受けながら、仕事を続けることができたと語ります。
また、「人生は運と縁とタイミングで回っている」と述べています。運やタイミングは自分でコントロールできない部分がありますが、縁は努力次第で育てていくことができると考えています。焦らず、自然な流れに身を任せ、人との繋がりを大切にし続けることで、道が開けていくという信念を持っています。この考えが、彼女が数々の困難を乗り越えてきた背景にあるのです。
木場さんは、「目の前の仕事に真摯に向き合い、一つひとつの経験を大切にすることで、新たなチャンスや人との繋がりが生まれる」と結論づけています。彼女のキャリアは、運や縁、タイミングによって大きく動かされてきましたが、それらを最大限に活かすために、常に努力を惜しまず、自分の役割に全力で取り組む姿勢が、成功の秘訣であることが伺えます。
今回のお話を、人事の視点から捉えると、木場弘子さんのキャリア形成やコミュニケーション能力の重要性が際立ちます。まず、TBSでのキャリアを積み、その後フリーランスとして独立した際の適応力は、企業においても求められる柔軟性と自己管理能力の好例です。
社員のキャリア開発において、こうした適応力や自己啓発の機会を提供し、個々のスキルを活かすことが重要です。また、木場さんが強調する「伝わるコミュニケーション」は、社内外での意思疎通や人材育成において非常に有効です。特に人事担当者は、単に情報を伝えるだけでなく、相手にどう伝わるかを意識したコミュニケーションを推進することが、企業全体のパフォーマンス向上に寄与します。
さらに、木場さんが述べる「縁」は、人材採用や育成にも関連し、人事としては社員間の信頼関係や社内外のネットワークを育てることが、長期的な成功に繋がると考えられます。
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