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ある日のこと、ふと「円空」を想ったそのわけは、案外深いのだ。 【絵描きとしての自己紹介みたいなモノ】  

ある日思い立った、「女性」を表現したい。

 なぜだか知らないが、毎日でも「女性」を描こうと思った。それは「女性に本来の美を観じるのはどういうことからなのか」という、大きな命題につきる。で、思ったことがひとつ。「女性は本来の性」である、ということ。

 過去にそう思って、「ポートレート」を撮りまくったこともあった。しかし、写真すらも「絵」とかんじるようになって、再び「絵」に回帰した。だが、「女性の美の本来」は未だに観じることはできないし、表現すらもできないていたらくである。

 男というのは、本来の生命というより、「虚構」でひたすら戦う存在なのかも知れない。しかしながら、本来の性を離れ、客観的に見通せる存在でもあるかも知れない。だが、それは男のやせ我慢である。

 そもそも男性は「女性っぽくしている」のが実は楽なのよ。(^^;)

 男にはそれだけの価値しかないのかも知れない。女性が子孫を安全に繋ぐために、自らの体を特化させ、合理化させた結果が「男性」という存在であるとも考えられる。これなら旧約の失楽園の真逆であろう。とするなら、禁断の実や蛇の存在は、本来智を呼び覚ますもんかも知れないのだ。

 女性から、特化して生存に都合良く作った進化の過程が「両性」の分業という地球における「生物」の摂理。であるから、物事は「因」と「果」が永遠のスパイラルを繰り返している、そういう根本が、因と果のおおもとなのだと思う。これをとことん観じなければ、「理趣経十七清浄句」は邪教にもなろう。

 恋したら恋したで良い。どんな形であれ、思いは因として果を作る。そういうことで授かった子どもなのに、そんなことに思いを寄せないが故に、虐待のような悲劇も起こり、幼い命が消えている事件が起こる。人間という社会的生物が創り出した「本能の欠如」という現象なのだ。

 しかし、逆説的には、そういう「未熟な親」の下に生まれたのだからこそ、どのような形であれ、今後の因から、子どもがさっさと逃れたのだという見方もできる。「だれか、親をリセットしてください」ていうかんじに。

 すなわち、自分の悟りではなく、仏の大いなる悟りにゆだねろと・・・。自分は何もわからぬ存在であるが故に、自分で悟るのではなく、すべてをゆだねろと 。俺なんか極楽に行けない。なんて思う大人だって同じようなもん。だと思うのです。

そこから見えるものは・・・。


 仏とは「自分のこころ」にあり、それにとことんゆだねるのは、巡り巡って、おのが心の仏にゆだねることになる。

 仏とは、絶対でも相対でもない。 いま、絶対にゆだねれば、自らが仏となる。しかし、それは、いとも簡単に変化する。

 大事なことは、こだわらぬことだ。また、こだわらぬ事にすら、こだわらぬことだ。

だから、円空のように、女性をただ描く。

絵筆の先で、女性はだんだん主張してくる

原点はここからだった

この子が一番最初に「主張」した。

徐々に「人格」みたいなのもを感じるようになってきた。

こいつなんか、最たるもんです

しまいにゃ、こんな有様ですよ


で、こういう感じにやらかしてみた。
というか、彼女らの意志だ

で、ここまで来ちゃいますとですね。
なぜか、「仕切る」やつが出てくるんです。

そう、この方です。イラスト内女子の「基本的人権」を主張した

まぁ。最終的には。こうやってまとめました

で、最新作


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