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「好き」の純度を上げる
生きていて、
あれー、なんかおかしいなぁ
どうにかならんかなぁ
と思い始めたりして、「どう生きるか」「何をして生きていくか」みたいなことや自己啓発的なことを色々調べたりすると・・・
好きな事をやりましょう!
それに付随して、
好きな事、やりたい事を書き出してみましょう!(100個!とか)
といったアドバイスや手段(?)を目にすることが多いです。
それに対し、
「特に好きなことがない」
「そんなに出てこない」
となって・・・
じゃあ、まず嫌いな事をやめていきましょう!
みたいな流れが定番になっていると感じます。
嫌いな事をやめる、という時にも当てはまるのですが、
好きな事がない、わからない、といった時の対処について
「好き」の純度を上げる
=既成概念を取っ払って、視点の分類目盛りを細かーくする
ということが重要であると思います。
これだけだとよくワカランので、(完全自分視点でギター絡みの)例を挙げていくと・・・
10代20代の頃・・・ギターを持ってる、という話になった時、
「へぇーエレキギターやってんだ。バンドとかやってるの?ライヴやるなら呼んでよ。」
500回くらい(嘘)、こういう会話になったことがあります。
ここで、
「エレキ」ギターやる=バンドやる=ライヴやる
がひと固まりになっています。
いや、相手は「やってるの?」という質問形だし、イコールにしていないのですが、既成概念として「普通そうなるよね」が根底に漂ってきます。そして、こんな質問をされるまでもなく自分自身にも漂っていました。
いきなり極端な話になりますが、このイコールの関係は、現在の世界と全く成り立ちの異なる世界では
ギターを弾きながら100m走をやり、タイムと芸術点を競う、
すなわち
「へぇーエレキギターやってんだ。100m走何秒?大会出るなら呼んでよ。」
であっても良いワケです。
なので、
「エレキ」ギターやる=バンドやる=ライヴやる
に何の根拠も絶対性もなく、たまたまそうなった、誰かにそう作られた、であるにも関わらず、それをまるっと全て好きでないとダメなんじゃないか、とうっかりすると無意識に思い込んでいたりします。
もしくは気付いていても、架空の絶対性に捉われていて、それに従わないなんてあり得ないと思っていたり。
これが既成概念の要素。
そして、(すでに加わっているのですが)ここから視点の分類目盛りの要素を加えていきます。
「エレキ」ギターやる=バンドやる=ライヴやる
の分類目盛りを粗くすると、
音楽をやる
です。
もっと粗くするとカオスになっていきますが(w)、逆に細かくしていくと
「エレキ」ギターやる
・弾くこと
・練習すること
・上達を実感すること
・でかい音を出すこと
・弾いているところを人に見せること
・フォルムを眺めること
・材質の質感を擦ったりして愛でること
・フキフキして手入れすること
・改造すること
・人に語ること
・作曲すること
・
・
・
分類の仕方は自由だし、その人その人で様々な要素があるし、際限なくあるこれら全てそれぞれに「好き」「嫌い」のイメージ配置が可能です。
ちなみに「エレキ」ギターから「エレキ」を取ると当然分類目盛りが粗く固まりが大きくなって、その下の分類数も圧倒的に増えます。("「」"にはエレキギターという言葉が、昔から若造臭くってあんまり好きでないという私の分類の「好き」「嫌い」ニュアンスも含んでいます)
同じように、バンドやる、ライヴやる、ももっと細かくなるし、既成概念を外したら他の親分類もあるし・・・
んで、ここで認識すべきなのが、
細かくした分類に配置された「嫌い」イメージが親分類やその周りの分類へ伝播する
ということ。
簡単な例では
練習が嫌いだからやらなくなった
ってやつ。
そのものは好きなのに、その配下の分類である「練習」が嫌いだからやらなくなり、あまり触れていないと当然「好き!」ではなくなる。
部活で、嫌な先生、先輩がいるから練習に行かなくなった、といったものは嫌いなのはたまたまその人の分類に存在する「先生、先輩と一緒」なのに、「練習」も嫌いになったり。これは親分類だけではなく隣の分類にも「嫌い」イメージが伝播しています。
同様に「好き」イメージも周りに伝播します。何かの拍子で人に「うまくなった」と褒められたのが嬉しくて、上達する為の練習がしたくなったり。
ってなんか当たり前のことを言っているような気がしますが、大事なのは
思っているより「嫌い」を排除していい=「好き」の純度を上げる
ってことです。
ここで冒頭に述べた「嫌いな事をやめる」もやっていることになります。
たまたま既成概念にフィットする人はそんなに気にしなくて良いのです。スタート地点で「好き」の純度が高いので、「好き」が伝播し易く、多少の「嫌い」を意識せずとも打ち消してしまい、自然な形でエネルギーを放っていきます。
フィットしない状態で、ちゃんと純度を意識出来ていないと、
「エレキ」ギターが好きで、無駄に音が大きかったり、人が騒いだりする場が嫌いなのに、ライヴをやってみたりする。それで、やってみたらやってみたで、人前で何かをするのは割と好きかも、なんて思ったりする。
そこで下手に好きな要素もあるもんだから、既成概念を正として、「みんなやっているんだし、やれないことはないからそれなりにやらないと!」なんて頑張ったところで楽しくないし、続きにくいし、何より辛くなってくる。
辛くなってくると「嫌い」イメージが強くなってきて、周りの分類に伝播してきます。すると、ライヴするの嫌だな、人と群れるのも嫌だしバンド向いていないんだな、ギター弾くの楽しくないな、以前より全く弾かなくなったな・・・ああ、おれあんまり音楽好きじゃないのかも。
・・・上位の粗い分類まで真っ黒になってしまいました。簡略化していますが過去の私です。
でなくて、、、
まず細かく分類した「好き」に集中します。楽しみます。目的もなく。
この時に既成概念が強いと、「何やってるんだろう・・・」とか「こんなことだけやっている人なんていない」とか「こんな風にやらないと」といった背徳感のようなものが襲ってきたりしますが、そういう現在ある物質的なルールはなーんも絶対ではないので、無視します。(これがムズいのですが)
下らないものであっても、「好き」かも、と出てきたものなら自分にとっては下らなくないものです。出てきたのに下らないもの、と思うということは何か外からの力を自分で感じて(実際にあるなしに関わらず)、そうなっている可能性があります。それで下らない、と捨ててしまうのは自分が可哀相です。
それで集中して「好き」をやっていると、その「好き」が伝播しやすい分類が隣に来ていたりします。それが「好き」に染まったらそれもやってみる。みたいに広げていくと、その人にしかないスタイルが出来てくるのではないでしょうか。
結果、ギター弾きながら結構なスピードで100m走をするといった謎の行為になっていたとしても良くって、というか純度の高い「好き」でそんなことやっている人がいたら、少なくとも私はその人に凄く興味が湧きます。Youtubeで配信でもやっていたら見てしまう。
ただ、本当に「好き」が伝播してきたのか、自分でもうっかり勘違いして違っていたりすることもあるので、ムズいことがあります。そんな時は違和感を感じていないかとか、定番の言葉になってしまいますが、やはり「心がワクワクしているか」を改めて確認するようにしています。変に「努力しなきゃ!」みたいにねじ伏せるとやはり純度が下がったエネルギーになってしまうように感じます。
一人でギターを弾いて何度も何度も録音する。自分が弾いたものに合わせてどんどん重ねていく。それを何度も聞き返しながらただ自分が気持ちいい感じに編集する。弾く曲はノスタルジー入りの思い入れのある曲。
曲は作らない、人とやらない、夜中にしかやらない、無駄に大きな音は出さない(夜中にしてはうるさいw)、自分の呼吸に合わせたペースでしかやらない、セオリー無視、無駄に拘りポイントを作る、独りよがり?関係ない・・・うーん、楽しい。
簡略化していますが、最近の私です。
例が非常に偏ってはいますが、全然他の事でも当てはまると思います、「好き」の純度を上げる。
で、どうなるんだ、というのは私自身やり始まったばかりなので、わかりません。楽しくはなってきました。
色々問題点もあるのでしょうが、そのうち必要な分類に「好き」が伝播します。何かを作ることが面倒臭くて好きではない、という点にはいい感じに「好き」が伝播してきました。
瞑想、が最近随分メジャーになっていると感じるのですが、狭い範囲にホントに楽しく集中していると、瞑想に近い効果があるような・・・ってコレは怪しいですが。
これまで所々で出てきた「ムズい」ポイントはまだまだ自分自身試行錯誤中です。何か良い方法があれば、またまとめたいと思います。
7月頃、今回の内容に少し近いことを書いたのですが、
今見るとすでに少しズレている、と感じます。改めて整理したのが今回の記事です。
好きすぎて顔怖い↓
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