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日本について堂々と教えよう

先週は、二つの原爆記念日があった。
今週8月15日は、全国戦没者追悼式がある。
戦争について知ることは、世界の中の日本について知るための重要な入口になる。
国家についての考えを深めることは、学校教育の中でも最重要の学習内容といえる。
しかし残念ながら、ここが日本の教育の最も弱い部分であるともいえる。

例えば通常、子どもたちに、天皇についての事柄をきいても、ほとんどわからない。
「日本で一番えらい人」ぐらいの知識、認識のみである。
周囲の大人に教えられていないのであれば、ある意味当たり前である。

学校で天皇について教える機会はあるのか。
小学校学習指導要領には、第6学年の社会科における「2 内容」で、次のように定められている。

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(引用開始)
イ 日本国憲法は,国家の理想,天皇の地位,国民としての権利及び義務など国家や国民生活の基本を定めていること。

(内容の取扱い)
エ イの「天皇の地位」については,
日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など
児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げ,
歴史に関する学習との関連も図りながら,
天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること。
(引用終了)
(ただし読みやすさに配慮して数か所改行)
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きちんと定められてはいるが、小学校では6年生の一時のみである。
これでは、小学校にいる内に理解が一向に深まらないのも当然である。

ところで、日本人全体として、天皇や皇室にどのような意識をもつ傾向があるのか。
次の調査結果がある。

これを見ると、皇室に「親しみを感じている」が71%と過半数である。
そして「年齢が高いほど皇室に親しみをもつ傾向がある」とも出ている。

つまり、国民の大多数が皇室の存在に対して、好意的とみられる。
(だからこそ、天皇誕生日を国民は「祝日」として祝って、私同様カレンダー通りの方々はお休みを享受している訳である。)

これは、国際的に見て全く当たり前のことではない。
象徴とはいえ、国のトップと国民の大多数とがずっと対立していない状況というのは、国際的に見て稀である。
国のトップはどんどん交替するのが世界の国々の歴史における常識である。
地政学的に見れば、海洋国のイギリスなども王国として続いているのは、他の欧州はじめ陸続きの国々との違いともいえる。

ここで一つの疑問が湧いてくる。

過半数が親しみを感じているのに、学校教育できちんと教えられないのはなぜなのか。

もっと突っ込んで言うと、
学校で堂々と教えることに遠慮してしまう傾向があるのはなぜなのか
である。

更に歯に衣着せぬ物言いをすると、
あまり堂々と教えると、地域によっては「変人」扱いされる
という傾向すらあるのはなぜなのか。

当たり前のことを言うだけで、右だ左だと大騒ぎする人がいるから、誰も何も言えなくなって「沈黙は金」とばかり黙っている。

これは、異常事態である。
異常事態が通常になると、異常が通常になり、通常であるはずのことが異常になる。
良いことをしなくなり、悪くなることを悪気なく平気でするようになる。

例えば、そこまでしてやったら逆にダメになるのに、よかれと思って余計な手出しをし過ぎてダメにしてしまう。
よかれと思ってみんなやるので、それが当たり前になる。
「親切」な行為のようで実は不親切ということと同じである。
(だから「不親切」なようで本当の親切をしようという提案を、捨て身でしている訳である。)

これは言わずもがな、戦後教育の大きな「成果」である。
アメリカをはじめ、中国や韓国等、日本に関係の深い諸外国にとって、大変都合のいい状態といえる。
「よかれ」と思って天皇や皇室、愛国心のことを教えることを避けてきたせいで、国民の意識も知識も悲惨な状況を迎えている。
たとえ皇室に多少親しみをもっていても、国を守るためには戦えないという、平和や愛を履き違えた意識状況を生み出した。
(社会組織において、2割の少数派が組織のために働かないのは構わないが、8割が働かないのは非常にまずい。)

個人主義が度を行き過ぎて、国家の制度に守られているからこそ、無事に住まわせてもらえていることすら忘れてしまっている。
ひどいと「戦争で攻め込まれたらすぐ外国に逃げればいい」という考えにまで至る。
誰が一体そんな身勝手な人間達を快く受け容れて負担してくれるのか、少し考えればすぐわかることである。
「もし国が攻め込まれたらその国民はどうなるか」は、歴史がきちんと繰り返し繰り返し教えてくれている。

自分自身が、実際に日本の学校教育を通して育ってきたからよくわかる。
卒業後も、初等教育一本に携わり続けてきたから、なおのことよくわかる。

一時期は「タブー」ですらあった。
卒業式における国旗掲揚や国歌斉唱だけで大騒ぎになっていたことは、ここ30年ほど前までであって、遠い昔ではない。
多少ましになった今も、その時の影響を引きずったままである。
なぜならば、「その時の教育」を受けてきた、あるいは関わってきたものが教育しているのだから、当然である。
長年刷り込まれてきた「罪の意識」、あるいは「タブー感」が抜けきらない。

それを変だと思っている人は、かなりたくさんいる。(何も気付いていない人との比率は、調べないとわからないが。)
少し話せば、すぐわかることである。
むしろ逆に「これまでのものが正しいのだ」という主張をする方が、論理的に考えてもはるかに難しい。

しかしなぜその気付いた誰もが変だと言わないのかというと、自分が変だと言われるのが恐ろしいからである。
私はどうせ変なやつだと思われている自覚があるので、色々言えるだけである。
「嫌われる勇気」の発揮である。
(無論嫌われたくないからこそ、言っているのである。好きになってもらえる方がいいに決まっている。)

本来当たり前のことを、当たり前にしていきたいのである。
歴史の授業を「否定」から入ることには害悪しかないというのは、前号に書いた通りである。

建国記念の日には、日本の建国の歴史とその長さを教える。
天皇誕生日には、天皇のことを教える。
天皇には苗字がないこととその理由、令和や平成の元号をとって「〇〇天皇」と言わない訳なども、きちんと教える。
教えると、小学生でも簡単にすっきりとわかる。
教えられないと、大人になっても(下手すると一生)知らない。

恐らく、例えば上記のようなことについても、知らない人は結構多いのではないかと推察している。
それは決して恥ではない。
これまで述べた通り、誰も教えてくれなかったことだからである。
私は、教える立場になって初めて必要に迫られて教わるようになるまで、全くの無知であった。

問われなければ疑問にすら思わないから、調べたこともないはずである。
逆に疑問にさえ思えたら、今の時代は簡単に調べられるのだから、教える必要もなくなる。
それは教わっていない側ではなく、教えていない側の罪であり恥である。
間違いなく、学校教育の責任である。

これらのことを、生涯を通して訴え続けている教師がいる。
齋藤武夫先生である。

次の著書がある。

歴史教育を通して歴史を「自分事」にし、歴史が好きになり、日本が好きになる。
そのための授業本である。
歴史の授業をしない一般の人でも、読むだけで素晴らしい授業を受けたような知識が身に付くこと必至である。
(本当は授業を受けた子どもたちにこそ最も成果が出る。仲間同士の真剣な話し合いを通すからである。)

さて、歴史の授業をするのには、知識による語りが必須なのだが、それが難しい。
そこを支えてくれるのが、パワーポイントのようなスライド資料である。
画像も動画も音声も何もかも入って伝わるスライドもついている。
もし、そんな全授業分データが無料で手に入ったら、使ってみたくはないだろうか。
私なら使いたい。
初めて6年生の担任をして歴史の授業をすることとなったら、尚更欲しい。
歴史教育を担う小6や中学の担任の責務は重いといえる。

話があちこち飛んだが、とにかく学校における国や歴史に関する教育にはテコ入れが必要である。
まずは堂々と教えるという、ごく当たり前のことを当たり前にするところから始めたい。

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