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安倍総理へ【続】美しい国、日本|日本を豊かに、強く


美しい国、日本

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

日本ほど素晴らしい国はないと私は断言します。
  神話とともに成立し、以来およそ二千年、万世一系の天皇を中心に、一つの国として続いた例は世界のどこにもありません。これ自体が奇跡といえるでしょう。
 日本列島は豊かな自然に恵まれていますが、反面、世界有数の地震国であり、台風や河川の氾濫、豪雪など、つねに厳しい災害に見舞われてきました。そのなかで日本人は互いに助け合う知恵を育み、和して穏やかに暮らしてきました。
 古代の漢籍に「日本人は盗みをしない。争いは少ない」と記されています。幕末から明治にかけて日本を訪れた欧米人らも一様に、日本人の誠実、勤勉、善良さを特筆しています。
 同時に私たちの先人は、痛手を受けても立ち直る逞しさをも培いました。
国難のとき、先人は勇敢に戦って国を守ってきました。刀伊の入寇、元寇、幕末も然りです。一九世紀半ばには、列強によって鎖国の扉をこじ開けられ、欧米の植民地争奪戦のジャングルに引きずり出されはしたものの、有色人種のなかで唯一、日本だけが独立を守ったばかりか、瞬く間に列強と肩を並べる強国となりました。
 ところが、第二次世界大戦により、日本は木っ端微塵となりました。三百万余の尊い命が失われ、世界最貧国の一つにまで落ちぶれました。しかしそこから世界が驚倒するほどの復興を見せたのです。世界第二の経済大国へと成長し、戦後の日本は世界の平和に貢献し、多くの途上国を援助してきました。
 これが、私たちの国、日本です。
 その日本の海が、山野が、いま脅かされようとしています。
他国に攫われた同胞は、何十年も祖国の地を踏むことができません。野放図な移民政策やLGBT理解増進法にみられる祖国への無理解によって、日本の文化や国柄、ナショナル・アイデンティティが内側から壊されかかっています。
 これらを座視していてはなりません。
 断固として日本を守る――。そのための新たな政治勢力が必要です。

 三十年間、国民の賃金は上がらないまま負担だけが増え、若い人たちが将来に希望を見い出せないでいます。早急に経済を確かな成長軌道に載せていく必要があります。
結成したばかりの私たちの党は、巨象のような与党の前では「蟷螂の斧」のごとき小さな存在でしかありません。しかし、「日本を守る」という堅い意志を持つ国民が一人、また一人と集えば、必ずや大きな力になると信じています。
 私の残りの人生を、この党とともに歩むことをお誓いします。
 「日本を豊かに、強く」。皆さん、これを合言葉に、ともに歩んでいきましょう。
       令和五年十月吉日       百田 尚樹

日本保守党結党宣言


安倍総理に捧ぐ

不動心

 私は、特定の団体や個人のための政治を行うつもりは一切ありません。額に汗して勤勉に働き、家族を愛し、自分の暮らす地域やふるさとをよくしたいと思い、日本の未来を信じたいと願っている人々、そして、すべての国民の期待にこたえる政治を行ってまいります。みんなが参加する、新しい時代を切り開く政治、だれに対しても開かれ、だれもがチャレンジできる社会を目指し、全力投球することを約束いたします。
 我が国は、経済、社会全般にわたる構造改革と国民の自助努力の相乗効果により、長い停滞のトンネルを抜け出し、デフレからの脱却が視野に入るなど、改革の成果があらわれ、未来への明るい展望が開けてきました。
一方、人口減少が現実のものとなるとともに、都市と地方の間における不均衡や、勝ち組、負け組が固定化することへの懸念、厳しい財政事情など、我が国の今後の発展にとって解決すべき重要な課題が、我々の前に立ちはだかっています。家族の価値観、地域の温かさが失われたことによる痛ましい事件や、ルール意識を欠いた企業活動による不祥事が多発しています。さらに、北朝鮮のミサイル発射や、テロの頻発など、国際社会の平和と安全に対する新たな脅威も生じています。
 このような状況にあって、今後のあるべき日本の方向を勇気を持って国民に指し示すことこそ、一国のトップリーダーの果たすべき使命であると考えます。
 私が目指すこの国の形は、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた「美しい国、日本」であります。この美しい国の姿を、私は次のように考えます。
一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。
二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凜とした国であります。
三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。 
四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。

安倍晋三内閣総理大臣 第165回国会 所信表明演説

かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

 7月の8日でした。信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい、同じ空間で同じ空気を共にしたい。その一心で現地に向かい、そしてあなたならではのあたたかなほほえみに、最後の一瞬接することができました。あの運命の日から80日がたってしまいました。
 あれからも朝は来て、日は暮れていきます。やかましかったセミはいつのまにか鳴りをひそめ、高い空には秋の雲がたなびくようになりました。
 季節は歩みを進めます。あなたという人がいないのに時は過ぎる。無情にも過ぎていくことに私はいまだに許せないものを覚えます。
 天はなぜよりにもよってこのような悲劇を現実にし、命を失ってはならない人から生命を召し上げてしまったのか。悔しくてなりません。悲しみと怒りを交互に感じながら今日のこの日を迎えました。
 しかし安倍総理…とお呼びしますが、ご覧になれますか。ここ武道館の周りには花をささげよう、国葬儀に立ちあおうとたくさんの人が集まってくれています。
 20代、30代の人たちが少なくないようです。明日を担う若者たちが大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。
 あなたは今日よりも明日の方が良くなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという強い信念を持ち、毎日毎日、国民に語りかけておられた。そして日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。これがあなたの口癖でした。
 次の時代を担う人々が未来を明るく思い描いて初めて経済も成長するのだと。
 今あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上にうれしいことはありません。報われた思いであります。2000年、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。私は当選まだ2回の議員でしたが「草の根の国民に届くならよいが、その保証がない限り軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で大反対の意見をぶちましたところ、これが新聞に載りました。
 すると記事を見たあなたは「会いたい」と電話をかけてくれました。「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため一緒に行動してくれればうれしい」とそういうお話でした。
 信念と迫力に満ちたあの時のあなたの言葉は、その後の私自身の政治活動の糧となりました。
 そのまっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は直感いたしました。この人こそはいつか総理になる人、ならねばならない人なのだと確信をしたのであります。私が生涯誇りとするのは、この確信において一度として揺るがなかったことであります。
 あなたは一度持病が悪くなって総理の座を退きました。そのことを負い目に思って2度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。最後には2人で銀座の焼鳥屋に行き、私は一生懸命あなたを口説きました。それが使命だと思ったからです。
 3時間後には、ようやく首を縦に振ってくれた。私はこのことを菅義偉、生涯最大の達成としていつまでも誇らしく思うであろうと思います。
 総理が官邸にいるときは欠かさず、1日に1度、気兼ねのない話をしました。今でもふと一人になると、そうした日々の様子がまざまざとよみがえってまいります。
 環太平洋経済連携協定(TPP)交渉に入るのを私はできれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見でどちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。
 一歩後退すると勢いを失う。前進してこそ活路が開けると思っていたのでしょう。あなたの判断はいつも正しかった。
 安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など難しかった法案を全て成立させることができました。
 どの一つを欠いても我が国の安全は確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものであります。
 国難を突破し、強い日本を創る。そして真の平和国家日本を希求し、日本をあらゆる分野で世界に貢献できる国にする。そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、あなたは常に笑顔を絶やさなかった。いつも周りの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。
 総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした。
 私だけではなく、すべてのスタッフたちがあの厳しい日々の中で、明るく生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは我が国日本にとっての真のリーダーでした。
 衆院第1議員会館1212号室のあなたの机には読みかけの本が1冊ありました。岡義武著「山県有朋」です。ここまで読んだという最後のページは端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました。
 印をつけた箇所にあったのは、いみじくも山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌でありました。いまこの歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
 かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
 深い悲しみと寂しさを覚えます。総理、本当にありがとうございました。どうか安らかにお休みください。

菅義偉前首相「追悼の辞」全文 安倍晋三元首相の国葬

面白き、こともなき世を、おもしろく住みなすものは心なりけり

 安倍晋三総理の意思を受け継ぎ日本を守るために立ちあがったのは日本保守党だと改めて思っております。安倍総理、蟷螂の斧である日本保守党が国政政党になるまでどうか日本を見守り下さい。必ず百田尚樹先生を国政政党の党首とします事を誓います。その思いから表題を【続】美しい国日本としました。

安倍晋三総理 百田尚樹代表

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武士道精神

 最後に野田元総理のこの追悼文には選挙活動でマイクを握るとはどういう事なのか、という事と安倍晋三総理の経歴も述べられているので掲載しておきます。世襲議員の中から稀に安倍総理のような人材はもう二度と現れないでしょう。
 安倍晋三総理の暗殺日と東京都知事選挙が1日違いとは、何かの運命でしょうか。

人生の本舞台は常に将来に向けて在り

 本院議員、安倍晋三 元内閣総理大臣は、去る七月八日、参院選候補者の応援に訪れた奈良県内で、演説中に背後から銃撃されました。
 搬送先の病院で全力の救命措置が施され、日本中の回復を願う痛切な祈りもむなしく、あなたは不帰の客となられました。
 享年六十七歳。
 あまりにも突然の悲劇でした。
 政治家としてやり残した仕事。
 次の世代へと伝えたかった想い。
 そして、いつか引退後に昭恵夫人と共に過ごすはずであった穏やかな日々。すべては、一瞬にして奪われました。
 政治家の握るマイクは、単なる言葉を通す道具ではありません。
 人々の暮らしや命がかかっています。

 マイクを握り日本の未来について前を向いて訴えている時に、後ろから襲われた無念さはいかばかりであったか。
 改めて、この暴挙に対して激しい憤りを禁じ得ません。
私は、生前のあなたと、政治的な立場を同じくするものではありませんでした。
 しかしながら、私は、前任者として、あなたに内閣総理大臣のバトンを渡した当人であります。
 我が国の憲政史には、百一代 六十四名の内閣総理大臣が名を連ねます。
先人たちが味わってきた「重圧」と「孤独」を我が身に体したことのある一人として、あなたの非業の死を悼み、哀悼の誠を捧げたい。
 そうした一念のもとに、ここに、皆様のご賛同を得て、議員一同を代表し、謹んで追悼の言葉を申し述べます。
 安倍晋三さん。
 あなたは、昭和二十九年九月、後に外務大臣などを歴任された安倍晋太郎氏、洋子様ご夫妻の二男として、東京都に生まれました。
 父方の祖父は衆議院議員、母方の祖父と大叔父は後の内閣総理大臣という政治家一族です。
 「幼い頃から身近に政治がある」という環境の下、公のために身を尽くす覚悟と気概を学んでこられたに違いありません。
 成蹊大学法学部政治学科を卒業され、いったんは神戸製鋼所に勤務したあと、外務大臣に就任していた父君の秘書官を務めながら、政治への志を確かなものとされていきました。
 そして、父 晋太郎氏の急逝後、平成五年、当時の山口一区から衆議院選挙に出馬し、見事に初陣を飾られました。
三十八歳の青年政治家の誕生であります。
 私も、同期当選です。
 初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りを取り囲む、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明に覚えています。
 そこには、フラッシュの閃光を浴びながら、インタビューに答えるあなたの姿がありました。
 私には、その輝きがただ、まぶしく見えるばかりでした。
 その後のあなたが政治家としての階段をまたたく間に駆け上がっていったのは、周知のごとくであります。
 内閣官房副長官として北朝鮮による拉致問題の解決に向けて力を尽くされ、自由民主党幹事長、内閣官房長官といった要職を若くして歴任したのち、あなたは、平成十八年九月、第九十代の内閣総理大臣に就任されました。
 戦後生まれで初。齢五十二、最年少でした。
 大きな期待を受けて船出した第一次安倍政権でしたが、翌年九月、あなたは、激務が続く中で持病を悪化させ、一年あまりで退陣を余儀なくされました。
 順風満帆の政治家人生を歩んでいたあなたにとっては、初めての大きな挫折でした。
 「もう二度と政治的に立ち上がれないのではないか」と思い詰めた日々が続いたことでしょう。
 しかし、あなたは、そこで心折れ、諦めてしまうことはありませんでした。
 最愛の昭恵夫人に支えられて体調の回復に努め、思いを寄せる雨天の友たちや地元の皆様の温かいご支援にも助けられながら、反省点を日々ノートに書きとめ、捲土重来を期します。
 挫折から学ぶ力とどん底から這い上がっていく執念で、あなたは、人間として、政治家として、より大きく成長を遂げていくのであります。
かつて「再チャレンジ」という言葉で、たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、その言葉を自ら実践してみせました。
 ここに、あなたの政治家としての真骨頂があったのではないでしょうか。
 あなたは、「諦めない」「失敗を恐れない」ということを説得力もって語れる政治家でした。
 若い人たちに伝えたいことがいっぱいあったはずです。
 その機会が奪われたことは誠に残念でなりません。
 五年の雌伏を経て平成二十四年、再び自民党総裁に選ばれたあなたは、当時 内閣総理大臣の職にあった私と、以降、国会で対峙することとなります。
 最も鮮烈な印象を残すのは、平成二十四年十一月十四日の党首討論でした。
 私は、議員定数と議員歳費の削減を条件に、衆議院の解散期日を明言しました。
 あなたの少し驚いたような表情。その後の丁々発止。
 それら一瞬一瞬を決して忘れることができません。
 それらは、与党と野党第一党の党首同士が、互いの持てるものすべてを賭けた、火花散らす真剣勝負であったからです。
 安倍さん。
 あなたは、いつの時も、手強い論敵でした。
 いや、私にとっては、仇のような政敵でした。

 攻守を代えて、第九十六代内閣総理大臣に返り咲いたあなたとの主戦場は、本会議場や予算委員会の第一委員室でした。
 少しでも隙を見せれば、容赦なく切りつけられる。張り詰めた緊張感。
激しくぶつかり合う言葉と言葉
 それは、一対一の「果たし合い」の場でした。激論を交わした場面の数々が、ただ懐かしく思い起こされます。
 残念ながら、再戦を挑むべき相手は、もうこの議場には現れません。
 安倍さん。
 あなたは議場では「闘う政治家」でしたが、国会を離れ、ひとたび兜を脱ぐと、心優しい気遣いの人でもありました。
 それは、忘れもしない、平成二十四年十二月二十六日のことです。
 解散総選挙に敗れ敗軍の将となった私は、皇居で、あなたの親任式に、前総理として立ち会いました。
 同じ党内での引継であれば談笑が絶えないであろう控室は、勝者と敗者の二人だけが同室となれば、シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。
 その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんの方でした。
あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、「お疲れ様でした」と明るい声で話しかけてこられたのです。
 「野田さんは安定感がありましたよ」「あの『ねじれ国会』でよく頑張り抜きましたね」「自分は五年で返り咲きました。あなたにも、いずれそういう日がやって来ますよ」温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです。
その場は、あたかも、傷ついた人を癒やすカウンセリングルームのようでした。
 残念ながら、その時の私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。でも、今なら分かる気がします。
 安倍さんのあの時の優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを。
第一次政権の終わりに、失意の中であなたは、入院先の慶応病院から、傷ついた心と体にまさに鞭打って、福田康夫新総理の親任式に駆けつけました。わずか一年で辞任を余儀なくされたことは、誇り高い政治家にとって耐え難い屈辱であったはずです。
 あなたもまた、絶望に沈む心で、控え室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね。あなたの再チャレンジの力強さとそれを包む優しさは、思うに任せぬ人生の悲哀を味わい、どん底の惨めさを知り尽くせばこそであったのだと思うのです。
 安倍さん。
 あなたには、謝らなければならないことがあります。
 それは、平成二十四年暮れの選挙戦、私が大阪の寝屋川で遊説をしていた際の出来事です。
 「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でお腹が痛くなってはダメだ」私は、あろうことか、高揚した気持ちの勢いに任せるがまま、聴衆の前で、そんな言葉を口走ってしまいました。
 他人の身体的な特徴や病を抱えている苦しさを揶揄することは許されません。語るも恥ずかしい、大失言です。
 謝罪の機会を持てぬまま、時が過ぎていったのは、永遠の後悔です。
 いま改めて、天上のあなたに、深く、深くお詫びを申し上げます。
 私からバトンを引き継いだあなたは、七年八ヶ月あまり、内閣総理大臣の職責を果たし続けました。
 あなたの仕事がどれだけの激務であったか。私には、よく分かります。
 分刻みのスケジュール。
 海外出張の高速移動と時差で疲労は蓄積。
 その毎日は、政治責任を伴う果てなき決断の連続です。
 容赦ない批判の言葉の刃を投げつけられます。在任中、真の意味で心休まる時などなかったはずです。
 第一次政権から数え、通算在職日数三千百八十八日。延べ百九十六の国や地域を訪れ、こなした首脳会談は千百八十七回。最高責任者としての重圧と孤独に耐えながら、日本一のハードワークを誰よりも長く続けたあなたに、ただただ心からの敬意を表します。
 首脳外交の主役として特筆すべきは、あなたが全くタイプの異なる二人の米国大統領と親密な関係を取り結んだことです。
 理知的なバラク・オバマ大統領を巧みに説得して広島にいざない、被爆者との対話を実現に導く。
 かたや、強烈な個性を放つドナルド・トランプ大統領の懐に飛び込んで、ファーストネームで呼び合う関係を築いてしまう。
 あなたに日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、こうした信頼関係は生まれなかったでしょう。
 ただ、それだけではなかった。
 あなたには、人と人との距離感を縮める天性の才があったことは間違いありません。
 安倍さん。
 あなたが後任の内閣総理大臣となってから、一度だけ、総理公邸の一室で、密かにお会いしたことがありましたね。
 平成二十九年一月二十日、通常国会が召集され政府四演説が行われた夜でした。
 前年に、天皇陛下の象徴としてのお務めについて「おことば」が発せられ、あなたは野党との距離感を推し量ろうとされていたのでしょう。二人きりで、陛下の生前退位に向けた環境整備について、一時間あまり、語らいました。お互いの立場は大きく異なりましたが、腹を割ったざっくばらんな議論は次第に真剣な熱を帯びました。
 そして、「政争の具にしてはならない。国論を二分することのないよう、立法府の総意を作るべきだ」という点で意見が一致したのです。国論が大きく分かれる重要課題は、政府だけで決めきるのではなく、国会で各党が関与した形で協議を進める。
 それは、皇室典範特例法へと大きく流れが変わる潮目でした。
私が目の前で対峙した安倍晋三という政治家は、確固たる主義主張を持ちながらも、合意して前に進めていくためであれば、大きな構えで物事を捉え、飲み込むべきことは飲み込む。冷静沈着なリアリストとして、柔軟な一面を併せ持っておられました。
 あなたとなら、国を背負った経験を持つ者同士、天下国家のありようを腹蔵なく論じあっていけるのではないか。立場の違いを乗り越え、どこかに一致点を見出せるのではないか。
 以来、私は、そうした期待をずっと胸に秘めてきました。
 憲政の神様、尾崎咢堂は、当選同期で長年の盟友であった犬養木堂を五・一五事件の凶弾で喪いました。失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。
 「人生の本舞台は常に将来に向けて在り」
 
安倍さん。
 あなたの政治人生の本舞台は、まだまだ、これから先の将来に在ったはずではなかったのですか。
 再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった。
 勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん。
 耐え難き寂寞の念だけが胸を締め付けます。
 この寂しさは、決して私だけのものではないはずです。
 どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心の中に、あなたの在りし日の存在感は、いま大きな空隙となって、とどまり続けています。その上で、申し上げたい。
 長く国家の舵取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならない運命(さだめ)です。
 安倍晋三とはいったい、何者であったのか。
 あなたがこの国に遺したものは何だったのか。
 そうした「問い」だけが、いまだ宙ぶらりんの状態のまま、日本中をこだましています。
 その「答え」は、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。
 そうであったとしても、私はあなたのことを、問い続けたい。
国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして、問い続けたい。
 問い続けなければならないのです。
 なぜなら、あなたの命を理不尽に奪った暴力の狂気に打ち勝つ力は、言葉にのみ宿るからです。
 暴力やテロに、民主主義が屈することは、絶対にあってはなりません。
 あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは、言論の力を頼りに、不完全かもしれない民主主義を、少しでも、よりよきものへと鍛え続けていくしかないのです。最後に、議員各位に訴えます。
 政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。
 暴力に怯まず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。
 真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか。
こうした誓いこそが、マイクを握りながら、不意の凶弾に斃れた故人へ、私たち国会議員が捧げられる、何よりの追悼の誠である。
私はそう信じます。
 この国のために、「重圧」と「孤独」を長く背負い、人生の本舞台へ続く道の途上で天に召された、安倍晋三 元内閣総理大臣。
闘い続けた心優しき一人の政治家の御霊に、この決意を届け、私の追悼の言葉に代えさせていただきます。
 安倍さん、どうか安らかにお眠りください。

2022年10月25日 野田元総理 追悼文全文



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