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『犠牲の累進性』を考えてみる

このGWに入って、ずっと考えていることがある。

例えば、仕事がしんどいとか、家計のやり繰りが厳しいとか、自分の身の上の辛さを人に聞いてもらった時に

「お前は恵まれているよ。アフリカの子供なんて明日食べるものもないだろう。それに比べたら俺たち日本人は云々」

というテイストのお𠮟りを受けたことはないだろうか。

「アフリカの子供」の箇所に入る言葉は、他で言えば、「年収200万円以下の奴」の時もあれば、「北朝鮮の人々」なんて言葉が入る時もある。

いずれも、経済的には恵まれていない、と社会通念上思われている対象であり、そうした人々に比較すると、お前の現状は十分に恵まれている、という意味合いの物言いである。



こういった物言いで

「お前よりも不幸な人間がいるのだから、お前の辛さは大したことがない」

その人自身の問題を有耶無耶にしてしまう考え方を『犠牲の累進性』と言う。

このフレーズは、雨宮処凛 著『生きさせろ! 難民化する若者たち』の中で著者と社会学者の入江公康氏とが行った対談の中で出てきたフレーズである。

俺は上のような物言いを言われた時に全く腑に落ちなかったので、ちゃんと名前を付けて話をしてくれた人がやっと現れたか、と、初見の際には非常に頼もしい気持ちになったのを記憶している。



この『犠牲の累進性』の大きな問題は、その人自身の辛さや困難、障害や境遇を、関係のない比較対象で見えにくくしてしまう点にある。

その人が抱えている問題は、現在、この国で、その人固有に起きていることである。

『犠牲の累進性』において比較対象として挙げられるものは、そもそも比較対象ではない。

ということである。



この『犠牲の累進性』によって生じる大きな不幸は、

自分よりもさらに下の境遇の人間がいる

→俺の境遇は彼らより恵まれている

→文句なんて言わない。現状維持、若しくは我慢しよう

というスパイラルである。

こうした物言いをする人間は、自分は安全なところに居るか、若しくは似たような境遇なので

俺だって我慢している
それ以上文句を言うな

と悩みや不幸を抱える人を黙らせる目的があるように思う。



そして、今の社会は『犠牲の累進性』をやたらと強いてくる傾向にある、と言ってよいと思う。

「みんな辛いんだから」
「まだお前は恵まれている」
「仕事は苦しいものだ」とか

それっぽいことを言って、問題を声高に語らせないようにしている流れが確実にある。

そうして世の中に対する文句が封殺されてどうなったか。

若者の死亡理由において「自殺」が万年1位、賃金は30年も停滞して、どこの業界もボロボロになるまで人を使い潰して人手不足、政治家はいつまでも新陳代謝されず、ぶん取られる税金ばかりが上がっていく。

それでいて、国が施行している補助金や生活保護を受給すると、「お前だけ楽をしている」とまるで人でなしのように叩かれる。

どうにも八方塞がりじゃなかろうか。



『犠牲の累進性』

非常に厄介な考え方であるが、それが蔓延しているのが今の世の中らしい。

本当に嫌になる。

恐らく、というか確実なのは、この考え方を流布させることによって誰かが得をしていることだ。

お前の暮らしは誰かの犠牲の上に立っているのだから、文句も言わずに暮らしていけ、という考えを定着させたい魂胆が見え隠れしているように思えてならない。

この風潮に抗って、誰かに犠牲を強いるのではなく、少しでも痛みを分かち合うことができれば…なんてのは理想論なのだが、根本的に、そもそも社会構造がイカレていて、この『犠牲の累進性』によって、どうにか成り立っている、ということなのだと思う。

今、やたらとスキルアップや資格取得や副業を推奨する風潮があるけれども、仕事以外でも自己研鑽を積んで、自分の価値を高めなければ今後のキャリアすらままならないというのは、確実に社会構造がイカレている、と少なくとも俺は思う。

給料が上がらないのは給料を上げない会社が悪いのであって、個人の責務によってどうこうなる問題ではない、というのは少し考えればわかるはずだ。

こんな世の中にあって、犯罪に手を染めることもなく、真っ当であろうとして、それで尚苦労があるのなら、きっと世の中の方がイカレている、そういうことである。

世の中の綺麗な面ばかりを見て、自分を卑下することはない、と声を大にして言いたい。




とは言え、これどうすりゃ止められんのだろう、とちょっと考えてみる。

その人が辛いと思っている状況、状態を根本的に解決してやる必要があろうかと思う。

例えば、なんぼ働いても給料が安すぎる。

これは、理想を言えば職場内で徒党を組んで賃金アップを訴えるべきである。若しくは労基署に通報してもよいと思う。

もし、仕事を辞めてしまった後でも、ハローワークにはそうした相談ができる窓口があって、会社に対して働きかけをしてくれる。

仮に正社員でなくとも、パート・フリーター向けの労働問題を請け負っているユニオンがある。そこへ相談してもよい。


仕事が忙し過ぎて辞めたいが、生活を考えると辞められない、これはどうか。

これは、1日でも2日でも有給休暇を取りなさい、と。有給休暇を取って、友人に相談をしてもよい。若しくは周りでフラットに意見を聞いてくれる人間がいれば、相談して具体的なアドバイスを貰うのも手だろう。

頼れる人がいなければ、役所には「生活支援課」がある。

「公務員は税金で暮らせて羨ましい」と戯言を言う人があるが、それくらいなら彼らに頼って、存分に働いてもらった方が精神衛生的にもよろしいかと思う。

精神的に苦しい人は、これはもう早めに休職の手続きをし、然るべき医療機関に係ることである。

メンタルは一回不調になると、立ち直りまで相当な時間を有するからである。

こういう時に「逃げずに戦え」的なことを言う輩がいるが、そういう輩は、自分のフィールドでマウントを取りたいだけだから、話を聞く必要はない。

病みそうな人に必要なのは、励ましではなく休息である。


あとは何だろう。「生きていて虚しい」とか、よく耳にする。

まずは似た境遇の人間を探して、話を聞くなりして、自分の人生を客観的に見つめることだ。

自分が不幸だ、とか悲惨な目に遭ってきた人が、相談や体験を語れるプラットフォームも探すと色々あるもので、そうした場所で自分と似た境遇の体験を探してみると、自分の悩みを客観的に見つめることができると思う。

軽度な悩みならば、一人でその辺の飲み屋に行って、人間観察をするとよろしい。

あなたと同じように心に穴が空いてしまった人がアルコールというドラッグでその穴を埋めに来ているからである。

何にせよ、悩みという奴は、今、この時代の、この国の、この環境に生きている、あなた固有の悩みであるということを認識してほしいのである。

見当はずれな励ましや解決策は無視して、あなたの悩みを具体的に解決できるよう、可能な範囲でできることをする。

突拍子もないことはしなくてよろしい。できることをしてくれ、と。

俺が言えるのはこれくらいである。



にしても、だ。

まず、「お前、アフリカの子供たちに比べたら…」的な、その場の問題を見えなくする物言いは無くさなければならんと思う。

それとこれとは関係ねーだろ、と。

逆に言えば、アフリカの子供たちは全員18歳まで詰所みたいな学校に行く義務があるか、と。

周りの奴らが全員高いレベルで自国の言語を操って、その中で高倍率の就職活動をしているのか、と。

毎朝、乗車率120%の電車で職場まで1時間かけて移動しているか、と。

要するに、アフリカの子供たちを俺たちと同じラインに立たせたら、きっと悩みも変わるに決まっているだろう、と。

だから、そういうことを言う人間の話は一切聞かんでよろしい。

これだけは確実に言える。


とりあえず、明日も生きていきましょう。あるがままに。


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