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利他

十代の終わり頃の一時期、「どんな人になりたいか」という問いを毎夜自分にぶつけていた。
具体的な「何をしたいのか」とは違い、どうありたいのかを根本から考えるような行いで、今以上に塞ぎがちであった当時の僕はどんどん内に向かうようになっていった。

当時僕が至った結論は「誠実でありたい」というものだった。
それは当時夢中になってやっていた音楽活動に対してもそうだし、自分に関わってくれる人たちに対してもそうであった。
僕はこの頃、生まれて初めて「他者」の存在を強く意識したのだと思う。

今以上に勉強していなかったから語彙が少なく、思考も幼かったが故に明確に「他者」について考えたわけではないが、大まかにいうと「誠実である」という目標のために「他者」を意識するようになっていた。


最近になって、この十代の自分に対する問いについてふと思い出した。
かれこれ二十年ほど前のことなので、自分の中にも変化があった。
当時と同じく「誠実でありたい」と思う気持ちはある。が、それなりに様々な経験をして考えた結果、あたまに(なるべく)をつけるようになった。つまり「(なるべく)誠実でありたい」ということだ。
今の時代周囲のすべてに誠実に向き合っていたら人はほぼ間違いなく死んでしまう。僕だって生きている以上は死にたくはないからこうすることにした。

そしてもう一つ考えたことがある。それが今回の主題である「利他」のことだ。僕個人としては現代の社会構造の限界を感じているし、テクノロジーだけで解決していけるとは思えない。
今回は2021年に集英社新書から刊行された『「利他」とは何か』(伊藤亜紗編)を下敷きに「利他」について語ってみたい。


利他について

一般的に「利他」といえば『自分よりも他人の幸福を願う』というようなイメージがあるかもしれない。しかし、今回僕が考えたのはそうではなくもっと抽象度の高い話だ。「利他主義」としての自己犠牲ではなく、どちらかといえば仏教的な世界観に近いのかもしれない。


功利主義と数値化

近代以降により顕著になったのが、物事を数値化して評価する功利主義的考え方の蔓延だ。その毒は、僕たちが暮らす資本主義社会に於いてはビジネスだけでなく日常の中にも食い込んでいる。
これは本来単なる趣味でしかない行為、例えば読書や映画鑑賞においてもネットの評価や他作品との比較で相対化し、なんなら数値化して〇と×をつけようとする。結果「○○すれば△△になる!」という効果を期待させるような煽りばかりが目立つようになった(「泣ける」とか「興奮する」とかも同じだ)。そしてそれらのサービスは基本的に無料だ。

僕たちは、この功利主義と数値化をもっと疑ってみるべきではないかと思う。
社会の中で生きていれば数値化して管理することへの欲望は強烈な魅力を放っているように見える。しかし、それらは僕たちを管理してコントロールしよううとする何者かによる押しつけに過ぎないのではないだろうか。数値は僕たち一人ひとりを見えなくするものではないだろうか。
ゲーム通りのスペックしかないサッカー選手なんてこの世に存在しない。


権力と贈与

すべてがそうではないだろうが、一般的に上で言った僕たちを〈管理しようとする何者か〉は権力を持っていることが多い。それは国家や政治に関わるような大きなものだけでなく、家庭や友人関係でも同じだ。
権力を持つ側は「あなたのためを思って」と善人の顔をして支配しようとする。信頼と見返りを求めない寛容さがない限りそこに利他はないだろう。

フランスの社会学者マルセル・モースの『贈与論』に三つの義務(人に与える義務・受け取る義務・返す義務)があるが、この中に出てくる「負債感」は人に負い目を感じさせてヒエラルキーを作る。
互酬性の因果を前提にすると人はどうしても利己的になってしまう。僕たちは与えられた義務の中から真に利他的な行いをすることはできないだろう。


利他とはなんだろう

ここまで大きく二つの視点で個人的に利他ではないものについて語ってみた。では、「利他」とは何で、僕たちはどう向き合えばいいだろうか。

『「利他」とは何か』を読んでいて本の全体から感じた大きなものが「余白」を持つということだった。
余裕があればボランティアや寄付もできてそりゃ他人のためになることも多少はできるだろうと思うかもしれないが、そうではない。因みに本の中では寄付についても触れられている。
僕が感じた「余白」とは自分の中の他者に委ねる部分のことだ。

ここでいう他者とは人だけでなく自然や動物など自分以外の世界を構成するすべてを指す。我を出せば人は必ず他者にとって加害者になってしまう。同時に僕たちは神的な何かによる被害者だ。
だからこそ自分の一部を他者に委ねるぐらい広い視野を持つことができれば利他的に生きることができるだろうと思う。

ただ僕らはそれほど高邁な精神で生きているわけではない。そこで僕は誠実であることと同じく「(できるだけの)利他」でいこうと思っている。
押し付けることなく見返りや因果から解き放たれた関係性の中だけで完結させることができるようになりたい。


『「利他」とは何か』では、仏教やヒンドゥーなどの宗教、ポストモダン、中動態などで語る章があり非常に面白いので興味がある人は是非読んでみてほしい。


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