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石巻が育てた天才彫刻家たち 第2部 昭和6年7月㊤ 石母田市長との親交

 私の目の前に「石母田正輔」の写真があります。達が残した写真帳に貼ってあるもので、写真の下には「石巻市長 石母田殿」と書かれています。撮影場所は、正輔宅だと思われますが、どのようなつながりで、石巻市長と親しくなったのでしょうか。

 達の日記に正輔が登場するのは町長だった昭和6年です。7月の石巻訪問の2日目の夕方に町長宅の招待会に出席した時です。日記によると、やはりトレードマークの長ひげが印象的だったようです。

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「石母田殿」と書かれた写真(しばたの郷土館)

 この年は、10月と11月にも石巻を訪問していますが、11月11日の日記には「郷土社を訪ね渡辺邸へ行く。面々が集って来た。一同連れ立ち料亭行き。一同で面白く飲む。十時頃一同引き上げた。郷土社で石母田さんに会った」

 12日「6時起床し町へ入浴に行く。食後小学校へ行き渡辺氏自慢の朝の国旗掲揚式を参観した。石母田町長宅を訪ねる」と記されています。正輔と会ってどのような会話をしたのか詳しいことは分かりませんが、親しい間柄であったことは確かです。

 7年1月16日の日記には「石母田町長のポートレート撮影す」。帰宅後の26日に「暗室に入り、石巻及白石方面の写真の焼附けをする。石巻全景、石母田町長及渡辺忠右ヱ門氏息女などよろしい」という冒頭の写真に関係すると思われる記述が出てきました。

 一つ疑問なのは、市長は昭和8年からで7年はまだ町長でした。写真帳を見直すと、この写真の後には10月に制作した「光忙」の写真が貼ってありました。また、写真によっては説明のないもの、字の形が違うものもありました。市長と書いたのは、8年の就任後だったのではないかと推測されます。

 さて、達と正輔を引き合わせたのは誰か。

 有力なのは、佐藤露江と渡辺忠右ヱ門です。石巻日日新聞社に勤務していた露江は以前から正輔と交流があり、家も住吉で近所でした。忠右ヱ門は町長がいる町役場の職員でした。

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石巻日日新聞でも掲載した帝展出品の「光芒」(同)

 また、正輔が石巻市長になったことを達に伝えたのは忠右ヱ門でした。8年4月23日の日記には「石巻市渡辺氏から石巻市初代市長として絶対多数の得票で石母田前町長当選した旨記載の石巻日日送付せらる」と記されています。

 大正5年、正輔が町長の時、石巻の象徴的な行事である川開き祭りが石巻日日新聞社の音頭で始まりました。そして、初代石巻市長として「水道事業」「日和山開発」「製紙工場の誘致」など、今につながる事業を成し遂げました。

 正輔の数々の功績は、いろいろな文献で分かりましたが、身内の方に話を聞くことが出来れば、達とのつながりが分かる資料が見つかるのではないかと考えました。しかし、石巻の人に身内の方のこと聞いても誰も知りませんでした。

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