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引き継がれる人道、博愛精神 元高校校長 佐々木さん資料 従軍看護婦の献身

 石巻市北村の自宅に平和資料館を開設している元女川高校校長の佐々木慶一郎さん(74)は、18歳から「物言わぬ昭和の証言者」である戦争の資料や遺品を集めている。約4千点もの品々のうち収集が困難だったのが、復員後の返納が原則だった日本赤十字社の従軍看護婦関係の資料。体験談の資料から、伝染病の感染の危険がある中で献身的に救護する姿を想像し、新型コロナウイルス感染症の治療に当たる現代の看護師に重ねる。

 資料館に収蔵しているのは日赤救護看護婦の制服や従軍看護婦用バッグなど、数十年かけて全国から入手したもの。胸につける赤十字バッジには支部名と識別番号が刻まれ、殉職した場合に氏名が特定できるようになっている。「太平洋戦争は決して軍人だけの戦いだけでなかった」と佐々木さん。召集された際は出征と同じく万歳で送られ、乳児を置いての赴任もあったという。

佐々木慶一郎さん日赤従軍看護婦資料 (8)

収蔵している資料を説明する佐々木さん。救護看護関係だけでなく、軍医や傷痍軍人関係もある

 これらを終戦記念日の15日に展示。譲られた女川町の故・三浦和平医師の医学博士学位証など、軍医関係、さらに傷痍軍人関係の資料も並べた。中には衛生兵だった佐々木さんの伯父のバッグも。人道・博愛の赤十字マークがあり、2年余りの捕虜生活でも没収や暴力を受けなかったことを聞いていた。

 佐々木さんが赤十字や従軍看護婦で思い出すのは、石巻商業高校で共に働いた養護教諭の松本きよ子さん。けがした生徒を何でもヨードチンキで手当てしていた元気の良い先生だったが、戦時中は中国国内の陸軍病院などで救護に当たった。

コロナ禍の現代に通ず

 親子ほど年の差があり、自分から戦争の話をする人でもなかったため、佐々木さんが松本さんの体験を詳しく知ったのは、十数年前の石巻赤十字専門学校創立80周年で同窓会が出した記念誌の座談会記録。現在、仙台の高齢者施設で元気に過ごしているが、佐々木さんは「今思えば、もっと聞いておけば良かった」と後悔する。

 その記録にあったのは、終戦後も上海市内の女学校を作り直した病院に次々に患者が送り込まれ、コレラ・天然痘の患者の入院で病室確保が困難になったこと。看護婦も激務と栄養不足で倒れ、マラリアや発疹チフスに感染していったことや、1人で200人の患者を診る極限状態だったことも回想していた。

 特に佐々木さんの胸を打ったのは、重症の兵隊が死に際に母親の名を呼び、手を空に上げていたという描写。軍医の命令を受けた松本さんが母親代わりに手を握ると、兵隊が息を引き取ったという。1度でなく、度々あったようだ。

 日赤宮城支部から636人の看護婦が戦地に派遣され、17人が殉職した。このうち5人が松本さんと同じ、石巻赤十字看護専門学校の12回生。同期には後にナイチンゲール記章を受章した斎田トキ子さんもおり、座談会に参加していた。

 その記録によれば配属先で葬式係のような仕事を命令された斎田さんは、遺骨だけでも遺族に渡したいと、別の看護婦が遺体から外した親指と人差し指を網渡しのようなもので焼いていたという。

 佐々木さんは「戦死者の骨箱は土や葉っぱだけで骨が入っていないのも多かった。遺骨を渡そうというのは東日本大震災後、最後の一人まで捜索しようとする人たちと同じ」と重ねる。「戦時中の看護婦は伝染病がうつるかもしれない中、必死に救護していた。今も感染覚悟で努力されている」と引き継がれる人道、博愛の精神に敬意を示した。【熊谷利勝】


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