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東日本大震災から13年 名を取り戻し帰るべきところへ

身元不明の遺骨27柱


 2万2千人を超す犠牲者を出した東日本大震災から11日で丸13年となった。描いたまちの将来像は復興という形で具現化され、にぎわいも戻った。あの日を物語る場所は少なくなったが、失われた命の重さは年月を重ねても変わることはない。

 暮らしと営みが一瞬で奪われ、大切な人を失った。生きたくても生きられなかった無念の命があった。「どうしていますか」と心で問う。在りし日の面影を浮かべ、深く祈る。今を生きる私たちだからこそ、できることはある。

 石巻市南境の第二霊園納骨堂には、震災後に市内で見つかった身元不明遺骨27柱が収蔵されている。市はこれまで647柱のうち620柱を遺族らに引き渡しているが、令和2年7月に女性の遺骨を遺族に渡して以来、新たな身元の判明に至っていない。

納骨堂で読経する渡辺副住職。背中を見守る石巻市環境課の高橋幸課長補佐は、ずっと手を合わせ、新たに身元が判明することを願い続けた

 「帰るべきところがある。その日を待ち続けたい」。霊園に近い金蔵寺の渡辺伸彦副住職は、納骨堂の中で読経した。震災の記憶を持たない世代も増えており、渡辺副住職は「震災の事実を後世に伝え続け、決して忘れることなく記憶をつないでいくことが大切」と諭した。

 あの日から癒えぬ悲しみを抱え、やり場のない怒り、苦しみにもがき続ける人たちがいる。心の復興はそう簡単なことではなく、歩む歩幅を誰かに合わす必要はない。今も、これからも「もう一度会いたい」と願う。もう13年ではなく、たったの13年に過ぎない。

3月6日に納骨堂前で石巻仏教会が慰霊法要を行った

 納骨堂には、その人がしっかり生きた証である遺骨が桐箱の中に納められている。何年越しになろうが、帰るべきところに待つ人がいる。振られた番号ではなく、再び名前を取り戻し、家族に「おかえりなさい」と迎えられるその日まで。【文・外処健一、写真・渡邊裕紀】

「会いたい、声が聞きたい」 女川 慰霊碑の名をなぞり

震災13年 犠牲者に祈り


 東日本大震災から丸13年となった11日、被災した石巻地方では犠牲者の追悼が行われた。死者、行方不明者827人を数える女川町。役場前の震災慰霊碑には絶えず人が訪れ、花を手向け、手を合わせる姿があった。碑に刻まれた故人の名をなぞり、しのんでいた。

碑に刻まれた愛しい名をなでた

 「ここに毎日通って主人の名をなでているのよ」。同町桜ケ丘の樫村喜恵子さん(75)は、震災の津波で夫の節大さん(当時61)をはじめ、親族を亡くした。

 「夫の遺体は見つかったけれど、判別できないほど損傷が激しかった。だから今でもひょっこり帰ってきてくれるんじゃないかと思ってしまう。一緒になれて幸せでしたよ。もっと感謝を伝えておけばよかったね」と涙を拭った。

 樫村さんは「あの人は寂しがり屋だから多分あっち(天国)で私が来るのを待っているのかも」と思いを寄せつつも「助かった命だからこそ、夫の分もしっかり生きていく」と話していた。

 当時、女川町清水に住んでいた石巻市新成の高橋良守さん(71)は、妻と母が犠牲となった。「何年経っても悲しさや寂しさが消えることはない。今でも会いたいし、声が聞きたい。話がしたい」とつぶやいた。

 3人の孫とともに慰霊碑に花を手向けた高橋さん。「伝わるはずがないのは分かっているんだけどね。それでも『家族は皆元気に過ごしているよ。天国で見守っていてね』と声をかけた」と話していた。

 発災時刻の午後2時46分に合わせて慰霊碑前に足を運ぶ人も多く見られ、防災行政無線のサイレンに合わせて黙とうをささげた。【山口紘史】


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