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石巻が育てた天才彫刻家たち 第2部 昭和7年6月 高橋三郎翁像が完成

 私の目の前に昭和7年6月3日の石巻日日新聞「高橋翁銅像除幕式」という見出しの切り抜きがあります。髙橋三郎は鹿又村の素封家で、女子教育の重要性を考えた人物です。大正14年に鹿又小学校の一部を使用し開校した鹿又実科高等女学校(後の河南高校、現石巻北高校)の建設費を寄附しました。

 記事には「桃生郡鹿又村教育功労者高橋三郎翁の銅像は、その後引き続き小室達氏が高橋翁の人格に敬虔な感激の念を打込んで熱心彫刻中のところこのほど原型完成したが、その刀根の冴え素晴らしく生ける高橋翁に接するの感あるので関係委員一同もこれでこそ翁の功績を永遠に伝うることが出来ると喜んでいる。なお銅像は一昨日実施したはずであるから多分本月中旬ころまで同村に運搬後除幕式を挙行する予定だという」とあります。

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アトリエ内の高橋翁像原型(しばたの郷土館所蔵)

 では、これまでの経緯を振り返ってみます。

 初めて日記に出てくるのは第2話で紹介した昭和6年1月24日「石巻渡辺氏から桃生郡鹿又村の社会公共事業功労者高橋三郎翁銅像建設の通知に接した」です。同年7月には鹿又村に行き、銅像の建設委員に経過を確認しますが答えは「未だ作者は決定して居らぬ」でした。

 8月8日には鹿又村長に、銅像は6尺(約180センチ)で金額は3千円という見積書を送りました。しかし、13日に渡辺忠右ヱ門から「制作者は高岡の人に決まった」と聞きました。達は、お世話になった鹿又村長、渡辺、佐忠らに御礼の手紙を書きました。

 その後、11月11日に訪問した石巻で「石巻日日社を訪ねる。鹿又の高橋さんの銅像は、その後非常に紛糾しているらしい」という驚きの事実を伝えられました(第3話でも紹介)。高岡の人が制作した像の出来がよくなかったため、契約を打ち切る方向で話が進んでいたのです。

 そして、7年1月14日石巻の渡辺邸で「作者を僕と定め、先方を断って後、髙橋家と契約する様決定した由である」と確認しています。達は翌日、鹿又に行き、関係者に敬意を表しました。ところが、2月に高岡の人が勝手に銅像を設置してしまうという大問題が発生したのです。

2壮行式(供出)

金属供出前の壮行式風景(「河南高校50年史」より)

 最終的に問題は解決し、達が正式に制作者となりました。4月13日から心棒(像の骨格)を作りはじめ、15日から土付け(心棒に粘土を付ける)を行い、5月8日に原型が出来ました。その後、鋳造を行い6月13日に銅像が完成しました。

 7月9日の除幕式には達も招待され「なかなかの盛会で、像の評判は極めて良い。感謝状をもらった」と日記に記しています。石巻北高校にある「河南高校50年史」にはこの時の様子が書かれています。この銅像は生徒の敬慕の的になりましたが、残念ながら現存しません。

 50年史には「戦時という巨大な魔の手の前に、お国の為という大義名分により、ついに供出せざるを獲なくなり、昭和18年11月3日壮行式、6日応召(供出)ということになった」と記されています。

 現在は、19年8月に建立された髙橋三郎と息子の融の頌徳碑が残されていますが、戦時中の悲しい出来事を知っている人は多くありません。


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