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今、私にできることは何か 元・女川町立病院総看護師長 高橋洋子さん

 東日本大震災の発災当時、高橋さんは女川町立病院(現・町地域医療センター)の総看護師長だった。仙台市で開かれる看護部長の会議に参加するため、三陸自動車道を走行中、あの大地震に遭遇した。

 「すぐ病院に戻らなくちゃ」。揺れの規模から、多数の負傷者が搬送されるのは予想できた。矢本インターで三陸道を降り、渋滞する幹線道路を避けつつ牧山トンネルを抜け、一旦、自宅のある渡波地区に戻った。

 帰宅途中、川の水位が下がっていることに気が付き、津波の襲来を想定した。義父母を近所に預けた後、家の片付けは夫に任せ、病院に向かおうとすぐ車に乗り込んだ。エンジンをかけて前を向いた。その時―。

復興の階段 高橋洋子さん (1)

町立病院に行きたくても行けなかった葛藤を語る高橋さん

 目に飛び込んできたのは、濁流に流されていく車。瞬く間に水位は上がり、水圧で運転席側のドアが開かなくなった。混乱したが、それに気付いた夫がすぐさま後部座席側のドアから救助してくれた。

 状況がのみ込めないまま、2人で2階に避難。幸い自宅は流されずに済んだが、周囲は湖のようになった。津波が収まったころを見計らい、胴長を着て、近隣の屋根に取り残された住民を救助した。病院が気掛かりだったが、これ以上進むこともできず、無我夢中のうちに夜が明けた。

 翌日、断片的に得た情報から国道はがれきでふさがれていることが分かり、女川に行くのは困難と判断。「今できることは何か」と考え、隣に住んでいた石巻赤十字病院の看護師長と2人で避難所となった渡波小に出向き、そこで2日間、救護活動を行った。

復興の階段 高橋洋子さん 渡波自宅前の様子

津波で湖のようになった渡波地区

 発災から3日後の朝、女川への道が通じたことが分かり、歩いて向かった。3時間かけてたどり着いた女川は変わり果てた惨状。あまりの状況に絶句し、涙しか出なかった。海抜16メートルの丘にある病院には入院患者や避難者らが約600人おり、スタッフが不眠不休で対応していた。家族を亡くした同僚もいた。

 「今ごろ来るとはどういうつもりか」「総看護師長の資格はない」。同僚から非難の声も浴びたが、自らの進退を判断するよりも当時はとにかく、患者の命が最優先。同時に職員の心身をケアし、休息を取らせるなどできる限り日常生活の回復に取り組んだ。約1カ月間病院で寝泊まりし、職責を全うした。

 「目の前のことに夢中になり、記憶が空白になっているところもある。大変だったがスタッフの努力と全国からの支援のおかげで乗り切れた」。

 半年が過ぎ、病院が落ち着きを取り戻したころ、高橋さんは15年務めた同院を退き、かつて働いていた石巻赤十字病院に戻った。理由は自らの体験とこれまで培った「命を守るノウハウ」を人々に広めるため。女川を離れるうしろめたさはあったが、「未来の命を守るために今の私にできることは」と考えた末の決断だった。

 その後、高橋さんは地域内外で住民向けの救命講習や医療従事者に対する講演を展開。今春、赤十字病院を退職した。

悲しみ癒えぬ人もおり 5段目

 「復興に10段の階段があるとしたら今は何段目か」。問いに高橋さんは少し考えて「5段目くらい」と答えた。

 「大切な人を亡くした人が大勢いる。私は叔父、叔母以外は皆無事だったからまだ前に進むことができるが、悲しみが癒えず一歩を踏み出せない人もいる。そうした心の復興という面では、まだ階段は半分も登れていないのでは」と話す。

 震災後、子どもは3人とも結婚し、3人の孫に恵まれた。「この子たちが生きていく地域の未来が安心安全なものであってほしいというのが一番の願い。微力でも、私の仕事がその一助になっていればうれしい」と話していた。【山口紘史】


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