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昭和28年 市制20周年記念の像

 私の目の前に昭和28年に撮影された石巻市制施行20周年記念の「石母田正輔翁像」(正輔像)除幕式後の写真があります。

 達の日記が27年11月6日の野田眞一翁像完成で終わり、写真のアルバム、新聞記事のスクラップ帳を見ても正輔像がどうなったのか分かりませんでした。

 ある時、別な資料を見ていると「石母田正輔翁」という文字板が見える見覚えのある胸像の写真が出てきました。記憶をたどると私の石巻生活が始まった頃に住吉公園で見た像でした。これを見て、日記では不明だった正輔像は完成し石巻に置かれたことが分かりました。27年6月の渡辺忠右ヱ門への手紙に記した故石母田市長胸像は、この像だと思います。

⑱2 除幕式後

除幕式後の記念写真(しばたの郷土館所蔵)

 写真の下には、28年9月に達の妻静子に宛てた2通の手紙がありました。1通は正輔の長男俊(しゅん)が送ったもので、達が亡くなった後にアトリエを訪ね、正輔像の原型(石こう像)を見たことが書かれていました。

 もう1通は石巻市からのものでした。制作者の達が亡くなったためその後を村田勝四郎に依頼したという内容でした。勝四郎は、4年に結成された塊人社に達と共に所属した彫刻家です。27年の日記の9月25日には「新制作派協会展行。彫刻では村田君の三点が良い。本郷、菊池も良い」と記されていました。

⑱1 石母田像

石母田正輔翁像

 勝四郎は塊人社を24年に脱退し新制作派協会に入会しました。この会は、高橋英吉が戦争から帰って来たら入会するはずだった団体です。勝四郎を勧誘したのは本郷新で、第1部の第6話、芸術新聞で英吉のことを紹介した人物です。勝四郎の作品のよさを改めて感じた達は、完成できなかった正輔像を長年一緒に活動してきた勝四郎に託したのです。

 達の作品だったと知り、急いで住吉公園に行きましたが、震災による周辺の整備のため移転、保存されていて見ることができませんでした。像が戻って来るのは令和3年春ということでした。

 正輔像が達の遺作だったということは分かりましたが、達の作品であれば「とほる作」などの銘があるはずなので、以前撮った写真を見ましたが、正面と台石裏の説明しか撮っていませんでした。

⑱3 銘「とほる」

達の代表的な銘「とほる作」

 説明を改めて読んでみると「石佛石母田正輔翁は剛直にして卓識の先覺者石巻町長及び初代石巻市長を歴任し市政建設に幾多不朽の功績を遺さる。仍(よって)市政廿周年に際り翁の髙風を景仰し其偉業欽慕の表章として爰(ここ)に此の像を建つ 露江撰 山内習書 昭和28年4月 石巻市」とありました。

 この説明からすると本来正輔像は4月に披露される予定だったのではないでしょうか。日記には記されていませんでしたが、野田眞一翁の像を仕上げた後、3月には正輔像を完成させるはずだったと推測できます。正輔像は11月に建立されました。

 最終的には勝四郎が仕上げましたが、石巻に残るこの作品が達の遺作となりました。来春、正輔像を見て達の銘を確認するのが楽しみです。


筆者プロフィール-01



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