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石巻が育てた天才彫刻家たち 第1部 英吉と達⑤ 昭和14 年【先輩から見た英吉】

 私の手元に「青春の遺作 高橋英吉 人と作品」があります。第3話でも紹介した本です。これには英吉の年譜が記載されています。昭和14年11月の第4回斉々会展では3つの作品を出品しています。

 岩井藤吉が中心となって結成した「斉々会」の会員は英吉を含む10名ほどで、東京美術学校時代の親友が数名いました。準備段階の草案には「展覧会は年1回、当分の間資生堂で行う」と書かれています。第1回斉々会展の開催が昭和11年なので同じ年の創立だと思われます。

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「漁夫像」頭部試作の「首」(石巻市教委所蔵)

 達の日記の昭和14年12月17日に「高橋英吉君等斉々會彫刻展を資生堂に見る。英吉君の三点の内胸像良く、子供の木彫面白い。観音の小品掬すべきものあり。併し未だ研究十分ならず特選作家としてはモット良いものの筈である」と書かれています。

 「資生堂」は、あの有名な化粧品会社が昭和3年に開いた銀座の資生堂ギャリーのことです。ホームページには「時局が戦時体制へ傾く中、若い作家たちによる小グループが続々と生まれ、開催展覧会が激増した」とあります。同社の美術関係の取組は今も続いています。

②華国童女像

「華国童女像」(石巻市教委所蔵)

 斉々会展に出品した胸像は「首」(漁夫之像頭部試作)、子供の木彫は「華国童女像」、観音は「観音菩薩立像」のことです。2つの作品については、英吉の作風が出ていてよかったのでしょう。「観音菩薩立像」については物足りなさがあったのか「(文展の)特選作家としては…」には先輩として、後輩に期待する気持ちが表れていると思います。

 昭和16年、英吉は「漁夫像」を第4回文展に出品しました。彫刻家としての力量を認められたため、前回の達のように無鑑査になりました。

③観音菩薩立像(s13)

「観音菩薩立像」(「青春の遺作」より、他の2点も)

 多くの人が今後の英吉作品に期待し、本人も自分の理想とする作品作りに向って進んでいこうとしていましたが、英吉は展示された漁夫像を見ることなく戦地へ赴きました。そして最後の作品となった「不動明王像」を家族に送り、ガダルカナル島で帰らぬ人となってしまいました。

 達の日記に記された生前の英吉に関する記述は、これで最後です。前回紹介した潮音が特選になり挨拶に行った時以降に英吉と会ったという記述はありません。その後、2人は再会することがあったのでしょうか。新たな資料の発見に期待しています。

※豆情報 他の英吉作品の写真も石巻市図書館にある「青春の遺作」に掲載されています。

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