ソーシャルサファリングへの誘い:社会的弱者に対して感じる痛みは、裏の権力者がその家畜にこしらえた玩具である

自らの優しさによって自ら苦しむ方々へ

【参考資料】

11分程度の動画です。
気が進まなければ見なくても大丈夫です。
むしろ、見ない方がいいです。
でも載せちゃいます。僕はもう優しくないから。


さて、本題。

情報に踊らされていませんか?

いやいや、私は大丈夫。
私は自らの「気分」で音楽を選び、
自らの「意志」で日夜踊っているのだ。

本当にそうでしょうか。


五感は 5/5感 だという話があります。
【動画、音楽、本、ゲーム、メール、LINE、SNS】
目だけの情報、耳だけの情報、あるいは耳と目だけの情報。

これからは味や匂いさらには全身の触覚まで情報化され再現、商品化されるかもしれません。五感の内どれが欠けてもリアル感がありませんから。
しかし、「極めて理想的なリアル」を作り出したところで、はたしてそれで「満足な人」が作られるのでしょうか

技術的発展は最終的に六根(目・耳・鼻・舌・身・意)の残りの1つ、「意」を浮き彫りにすることでしょう。

五感が満たされた人はかえって際立った「意根」によって深く苦しむのです。


意【意志・意図・意思・意向】

『誰がそれを何の目的で、どのような気持ちで、どのうような状況下で企み、行い、行わせているのか。』

私にとって情報とは発信者の「意」を知るための道具であり、それ以上でも以下でもありません。

【貧困区の写真、争いの報道、環境破壊の指数とそれを嘆く人々】

それら情報が私の手に届くまでに、誰のどんな手を渡ってどのような施しがなされてきたのか。

そして、それを支える情報インフラの構築は、誰のどんな意向によってなされてきたのか。

私は、テレビを見ても、新聞を読んでも、ネットニュースを見ても、そこに記された情景や感情、いわゆる「作者の伝えたいこと」を残念ながら意に介しません。

情報とは、字面や絵面の向こう側の、「作者自身の心」に共感するため道具であり、それ以外の使い方は非合理的です。

あなたがある情報に触れて、抱いた「感情」はすべて作者の意図したところであり感化されて起こすであろう「行動」も概ね意図されたものなのです。

だから、あまり考えすぎてはいけない。
と言われても悩むことは止められないので
そんな時はいっその事、節度をもって病みきりましょう。


情報化社会の恐ろしさ

真に手の込んだ情報は情報の形をしておらず、ふとした「日常」に姿を変えて潜んでいます。

それは、【学校・政治・職業・自由・言葉】人間的で文化的な生活のほぼ全てが何者かによって巧妙に用意された「情報」です。

だから、一般の人々はひきこもり、ニート、不登校児、浮浪人、うつ病患者を白い目で見ます。彼らが「常識」から目覚めようとしているから。


社会は構成員の暗黙の了解(共同体意識)によって成り立ちます。

しかし社会性とは一定程度意識的な人間にとっては怪奇性であり詐偽です。

社会人にまともな意識があっては社会は立ち行きません。

だから労働時間は減らない。
不正は減らない。
安らぎは増えない。

「安泰な社会」とは「生ける亡者」とほぼ同義です。


意欲 vs. 問題の構図は、どこまでも政府を肥えさせ、
人民 vs. 政府の構図は、どこまでも裏の権力者を肥えさせます。

問題の材料は意欲であり、政府の材料は人民であり、空回った歯車の回転エネルギーを私たちは貨幣(金ではない)に換えて追っかけているのです。


本物の政治を全くとして知らない我々が、
何を求め、何を考え、また何を目指すのか。

どんなに身体を張った崇高な試みも、
何者かに仕組まれた範疇の内なのだろう。

それでも、心から「納得」できる何かに、
籠の中の鳥は今日も、思い馳せるのです。



ピーチクパーチク
ピヨピヨ、バタバタ、



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