『アポロジー』自白とお詫び


「ごめんなさい。」
許せないことばかりだった。

「すみません。」
どうにかしなければと思っていた。

遠くの声もはっきりと聞こえ、

見えないものもはっきりと見えていた。

よく聞き、よく見て、うまく対応しなければ、身の回りや世の中がどんどん悪くなっていくのではないかといつも少し怯えていた。

人が作ったルールの中でも、従順にそれらに抗い、いい感じにうまく付き合っていけば、いつかはそれらに適応できると思っていた。

大人は適応できているのだから、私にできないはずがないと思っていた。

違和感があるのは単に私が敏感で、多感で神経質で、神経症的だっただけのことなのだと、いつか腑に落ちて納得できるものだと思っていた。


しかし、どうだ。


やはり人間は腐っているではないか。

それもみんながみんな「いい感じに」腐っている


つまり、私はフレッシュだったのだ。

良くも悪くも、いついかなる時も正しかったのだ。

笑った時も、情けなかった時も、諦めた時も、勝てなかった時も、発狂した時も、非難した時も、蔑まれた時も、褒められた時も、間違った時も、「それなりに」正しかったのだ。

いかなる過ちを犯しても、それは本能のいたすところ、本性と社会規則の齟齬であり、私は間違ってなどいないのだと本気で思っていた。

それゆえに「申し訳ございません。」と心から言ったことはない。

その慢心を、傲りをひとつここで謝りたい。


『申し訳ございませんでした。』


確かに私は正しかった。しかし、

私は何一つとして「正しいこと」をしてこなかった。

中道、中庸を深く気を付けてはきたが、それは社会に対する利己心のいたずら、仮初の誠実であったことを認めなければならない。

正直なところ、完全に行き詰ったのだ。

いくら自らを反省しても、 
尊い書物を濫読しても、
切実な生活者に触れても、
稚拙な喜びを噛み締めても、
霊的な理解を深めても、

緊張やそれに伴う喜びはあっても、

純粋な歓喜の声を上げることができない!

心がいくら踊っても、頭がいくら回っても、

真のことばが!呼応してくれない!

私は喋ることより書く方が得意だ。
対面さえすれば、喋らずとも心と体とで微細な意思疎通ができるから。

沈黙は金だと誰もが知っている。

自分の声はときに耳障りだから書く方が好きだ。

しかし困った。

エクリチュールはそれが実行されない限りどこまでも沈黙なのだ。

なんと雄弁な沈黙!

note、ノート、他でもない自分という他人に向けたメッセージ。

むしろ筆記者たる自分以外の他人がこれをこの身体に書かせ、それを私が受け取っている。この冗長な沈黙に幾重にも重なった異なる声色。

真理に漸近したことを書いているとき、私には数千、数万、数億の質の「声なき声」が聞こえる。生きている人間のものではないのだろう。それを書いて、私がいつもまず初めにそれを読む。

しかし、かれらの真意に近づけば近づくほど、満足したかのようにその声は消えてしまうのだ。

まさにここまでの500文字くらい書いて、それは止まった。
記事の書き始めの静かな沈黙に戻った。

きっとまたすぐに聞こえてくるだろう。


しかし、なぁ声よ、

わたし自身の声を返してはくれないか。


言葉ではない、本当の声を。

理知性ではない、本当の理解を。

肉体でも精神でもない、本当の存在を。

わたしにわたしの猥雑な喧騒を返してはくれないか!



正しさも、美しさも、尊厳も、世間体も、評価も、

もういいよ。いや、そもそもそこまでよくもないけど、


なんだかなぁ。

小清潔ほど汚く、

小賢明ほど愚しく、

小綺麗ほど醜い。

「小さな親切、大きなお世話」


確かに中途半端はよくないけれど、
死ぬ気でやったらそれこそ死んでしまうし、
しかし実際、そうやって死んだ人が作り上げてきたこの社会では、

死ぬ気がなければ死ぬこともできないらしい。


不思議だ。誰も心から生きてなんていないはずなのに。

いやしかし、それが自然の在り様ならば否定はするまい

教育、医療、社会制度など、人工的なあらゆるものを散散批判してきたがが、本当は批判の余地もないのかもしれない


現実即真実、表象即真理とでも言おうか。

いやしかし、そうでも言わねば正気を保っていられない。


獲得と喪失は裏表だ。

正気を求める心が狂気でなくてなんだ。

便利にすがる心が怠慢、堕落でなくてなんだ。

神を崇める心が悪魔なのだ。


もういっそのこと
静謐な喧騒、
有意義な戯言、
無秩序な大道を求めようか。


手にしたものは棄てなければならない。

手にしたものに拘るから一緒になって腐っていくのだ。

かといって、最低限のものにしか手を伸ばさないのも不健全だ。


そう考えると、なにもかもが調度よく、

あらゆるものが最善の形をとっているようにも見えるのが不思議だ。


穢れも、浅ましさも必要だからあるのだとしたら、

それらを排除しようとする働きこそ不配慮であるのだが、

それを指摘してしまうこともまた不配慮なのだから為す術はそう多くない。

しかしきっと、その選択肢の中に「正しいこと」は含まれていないように思う。


だから、私はこれから「正しくないこと」を「楽しいこと」であるという風に自己暗示していこうと思う。

きっとあまり長くは続かないとは思うが、先に侵すであろう過ちを謝っておく。


『誠に、心より申し訳ございません。』

これからも頑張りすぎないように頑張らさせていただきます。



しかしまったく、私はなんと傲慢なのだろう。


自分の謝罪はいつだって胡散臭く、

他人の謝罪はどこまでも「生きる喜び」に聞こえてしまうのだから。




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