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人生が変わった「ふれる」愉気。

整体指導を受けられた方が涙を流されていた。

泣くこと自体はエネルギーの鬱散現象でもある。

つかえていた何かが流れ出したしるし。


20年来愉気を受けていた先生が高齢のため引退されて

その先生の愉気を受けられなくなってから

同じように感じさせてくれる愉気の手を持つ先生を探していたんだそう。


その方が通われていた団体にの中には

同じような手を持つ整体指導者が見つからなくって

途方に暮れて

失われた先生と同じような愉気ができる手の持ち主を探しておられたんだそう。


ようやく見つかりました。

それが涙の訳だったらしい。


この場合は、ぼくが優秀だからってことじゃなくって

たまたまその先生の愉気とぼくの愉気の質が似ていたってことに起因している。

修業時代にぼくの長所は愉気だと指摘されていたので

その先生は同様な愉気ができる方で

おそらく体癖が近しい方だったんだろうと思われた。


ぼく自身は今では愉気を受ける機会はほとんど無くなって

愉気を行う立場になっている。

亡くなった師匠の田総先生から感じていたのと

同じ質の愉気を受ける機会にでくわしたら

喜びはひとしおだと思う。

ぼくにとって師匠の愉気は温かくて安心感を感じさせてくれるものだった。


同じ体癖の他の先生の愉気を受けたこともあるけれど

似た印象を抱くことはなかった。

体癖が同じであっても、やはり愉気の味わいにも個性がある。

だから「気」にも相性がある。

相性がいい愉気は温かく心地いい。


思い出しただけでこころが温かくなってしまう愉気を受けた体験は

ぼくにとっては宝物だった。

失った悲しみで涙が湧き起こる引退された先生の愉気は

彼女にとっても宝物だったんじゃないかと思う。


毎月、師匠のいる松本市に行けば

師匠の愉気を受けることができた、あの頃。

その日常はもう二度と戻ってこない。

師匠の愉気を受けなければ整体指導者の道に入らなかったかもしれないことを思うと

師匠の愉気との出会いがぼくの人生を変えたとも言える。

外見だけ見れば、ただ「ふれる」って行為なんだけど

気を通していくことで

受け手の感受性によっては人生が変わってしまう。


ぼくの目の前で流された涙は

改めて人にふれるときに一番大切なことを思い起こさせてくれました。



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